「法の華三法行」という新宗教がマスコミを騒がしています。今、信仰とか信心という言葉を聞くと、一般の人たちは、どんなことを思いうかべるでしょうか。神サマや仏サマに何か願い事をかなえてもらうため、お祈りをする、大かたはそんなイメージだと思われます。
病気を治して欲しい、良い学校へ入りたい、商売がうまくいってほしい…、確かにそれぞれの人にとっては、切実な願いです。しかし宗教というものは、そうした自分の欲望を満たすための手段として、あるのでしょうか。
もしそうだとすれば、私たちは、おのれの煩悩を満足させるため、神サマ・仏サマをダシに使っていることになります。
お釈迦さまは、決してそんなことのために、仏教をお広めになったわけではありません。そうした煩悩から脱却して悟りを開くことこそ、仏教の究極的な目標でした。
2500年にも及ぶ長い仏教の歴史は、悟りを開くためのさまざまな方法を考え出しました。長時間黙って座ったり(座禅)、険しい山道を歩き回ったり(回峰行)、学問を積んだり…、そしてこれらの行を実施するための前提として、厳しい戒律を守る出家者の生活がありました。
けれども、いくら行を積んでも、生身の体がある限り、燃え盛る煩悩の火を消すことは出来ない、と気づかれたのが、浄土真宗を開いた親鸞聖人だったのです。聖人は御年九歳で比叡山に出家し、20年間、厳しい修行の毎日を送られました。
しかし、真面目に修行し、善い行いを積み重ねようとすればするほど、自分の中の「悪」に気づかざるを得ない、それが聖人のお心でした。29歳で山を降りた聖人は、法然上人を訪ねます。「この世での悟りが不可能な私たちは、阿弥陀如来の本願力に依って、お浄土へ往生させていただく以外、救われる道はありません」。これが、法然上人の説かれた「念仏往生」、浄土教のみ教えでした。
「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜず涅槃を得る)」というお正信偈の一節は、そういう意味で、親鸞聖人の考え方の真髄を表している思われます。
親鸞聖人が浄土真宗を開かれ、真実のみ教えを説かれてから、既に八百年近い歳月が流れました。しかし世の中には、相も変わらず人間の欲望をかき立てるインチキ宗教が跋扈しています。
「この宗教を信じれば、お金が儲かりますよ。健康にもなりますよ」。凡夫である私たちは、そうした誘惑に心を動かされ易い存在です。特に、体が不調の時や仕事がうまくいかない時は、要注意です。ちょっとした心の隙間に、うまく入り込まれ、何百万円もの大金をだまし取られたというような人が、後を断ちません。
いくら注意しても、長い人生の間には、いろいろな迷いが生じる瞬間が、誰にもあるものです。真実のみ教えに出逢い、そのみ教えに生かされた日々を送っていないと、いつ、こうしたインチキ宗教に引っかからないとも限りません。私たちの日々をみ教えに照らして、常に我が身を振り返る生活を、共々に歩んで行きたいものです。 |
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