2000/08
「いのちの尊さを考える」

 最近、いたましい事件のニュースを多く耳にします。特に「いのち」の尊さ、かけがえのなさを理解しているとは思えないような事件には考えさせられます。なぜこのような事が起こるのでしょうか。

 考えてみますと近年子供が「いのち」にふれる場が少なくなっています。例えば、生命の始まりである「誕生」と終わりである「臨終」の場が以前のように家の中にあるのではなくて病院になっています。そういった場に立ち会うことによって伝わっていたはずの、生命に対する「神秘」「敬意」「畏怖」といったものから隔絶されてしまって、伝わらなくなってしまったということもあるでしょう。

 また別の視点から見てみますと、私たちは自分の命を維持するのに他の命を犠牲にしなければなりません。しかし、現在の状況は、それを意識することが少なくなっています。ですから、「いただきます」という食前の挨拶もなかなか聞かれなくなってきているのでしょう。家庭で調理するにしてもその食材はスーパーや小売り店の店頭で発泡スチロールの白いトレーの上にのった肉や魚の切り身を買ってきます。そんな食材を見て「命を頂いている」という実感を持てといっても無理かもしれません。昔は庭先で飼っている鶏をシメて食べることもありました。生きている魚を家庭でサバクこともありました。ついさっきまで生きていたものを食べるということは、まさに「命を頂いている」という実感をともなっていたことでしょう。そういう理解があれば、「いただきます」という感謝の言葉も出やすいことでしょう。

「一切の有情はみなもつて世々生々(せせしょうじょう)の父母・兄弟なり」

これは『歎異抄』の第5条に記された親鸞聖人のおことばです。
 「すべての生きとし生けるものはみな、過去世において生まれかわり死にかわりしたその時々の父母であり兄弟であったものだ」といわれます。

 また、いのちのつながりについて考えてみれば、私の命は父母から頂いたものであり、その父母にも父母すなわち祖父母が4人おります。曾祖父母は8人で、その上が16人、10代遡りますと横に1024人の方々がならばれ、20代で100万人を越え、30代で10億人を越えます。1代25年と考えると約750年前、鎌倉時代でしょうか。その頃の日本にはそんなに人口はおりませんでした。どこかで誰かが重なっているのです。日本国中の人々が同じいのちでつながっているといえます。また、34代で100億を越えますので現在の世界人口よりも多くなります。40代で1兆人を越え、50代で1000兆、と遡っていけば、全人類はみないのちのつながりの中にあるともいえますし、極端な話をすれば、地球に生物がはじめて生れた時から見てみれば地球上の生物は全てどこかで命のつながりがあると思っていいでしょう。

 「この世の生きとし生けるものは皆、過去世において父母や兄弟であったかもしれない、同じ命のつながりの中にあるものである」

 そのように理解される時、はじめて命に対する見方が変わってくるのではないでしょうか。しかし、これを伝えていくことは容易ではないでしょう。私にも1歳をむかえた娘がおりますが、命の尊さ、かけがえの無さをどう伝えていったら良いか、なかなか難しいことだと思っております。

                             
北條 祐英  

ご意見、ご質問、情報などはこちらへ
Email
POSTEIOS研究会 目次へ
一段上に行く