浄土真宗において報恩講は、最も重要な儀式の一つです。なぜなら、宗祖親鸞聖人のご命日であるということだけではなく、その歴史の中で、「生とは何か」という問題が受け継がれてきたからです。
最近は、経済・宗教・教育・政治など様々な領域で混迷をきたしています。何が起きても不思議ではないというのが私たちの社会ですが、そのことにあまりにも慣れすぎてはいないでしょうか。
あるいは、情報化社会という時代背景の中で、様々な情報を自分で取捨選択が出来るという、とても便利な時代でもあります。しかし、ここには自分の考えや主体性が見失われやすいという、落とし穴があります。
情報化社会は、眼や心を外に向けてゆくことに力点を置きますが、自分というものが軽視されていくことにもつながり兼ねないという危険性もあります。
決して、このような社会を否定しているのではありません。時代の流れと共に、今何が問題になり、何を問うていくのかということを、自分の中で解決しなくてならない課題として、自覚することが大切なのです。それは、立派な価値観を持つことや立派に生きるということではなく、自分が明らかにされていくことにつながっていきます。
「報恩講」とは「恩に報いる集い」と読めます。これは「仏の恩」のことですが、仏の恩の何に報いるのかということが問われなければ、ただの「読み下し」にしかすぎなくなります。「自分のことは自分が一番よくわかっている」と言われますが、そうでしょうか。自分を一番わかっていないのは自分のようです。この自分を、知るということが最も重要でありながら、実に困難なことです。この「私を知る」という課題を、私たちは仏から頂いているのです。
「仏の恩に報いる」ということは、私に向けられている仏の願いにめざめ、教えによって自分を明らかにしていくという作業のことです。
宗祖親鸞聖人の「ご命日」の法要である「報恩講」は、親鸞聖人の生き方に、私たちが自らの生き方といのちの問題を問いかけていく営みです。私たちは「報恩講」という仏事を縁に、私にとっての念仏の教えとは何かということを、あらためて噛みしめていきたいものです。 |
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