毎年お勤まりになります「報恩講」とはまさに、日常において私たちが忘れそうになっています「恩」について味わっていく機会であります。「報恩」という言葉はインドの古語では「クリタムジュニャー」といい、その意味は「為されたことを知る」というのが元々の意味であります。私たちが生きていく上で、自分以外のすべてのものによって、いろいろと恵みを受けている事実に心から感謝の気持ちをささげるという意味でありましょう。
恩を売る。恩を着せるというような使い方は自分がしてやったというのが全面に強く出ているものです。そうでなくて、「〜させていただく」という気持ちが報恩でありましょう。恩とは、自らの心のうえに因を置くと字に示されています。すなわち、私の心をよくたずねていくことにより、私というものが存在するのは、誰々の因と縁とによって成り立っているという存在の真実の姿そのものが、知らされるということであります。
言い換えますとああしてもらったからこうしなければならないとか、こうしてもらったからああしなければならないとかいう義務や強制的なものではなく、私が自分の力だけでは成り立っていないことに気が付くことが、恩を知るということであり、報恩、すなわち恩に報いる生き方に繋がっていくことでございましょう。
このように私の心が転ぜられていきますのは、ひとえに南無阿弥陀仏のおはたらきによるものであります。ですから、恩といっても仏さまのご恩(仏恩)を言うのであり、仏恩を報ずる、仏恩に報いる人生を送らずにはおられない心となるのでしょう。これを浄土和讃には、
弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり
と示されます。
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