2000/11
「形式と敬いの心」

 仏さまを敬う心を、私たち現代人は、いつの間にか忘れてきてしまっているのではないかと考えるようになりました。

 最近では法事の時の焼香の際に、仏さまの方にお尻を向けて参列者の方にかしこまって深々と挨拶をするケースが非常に目立っています。以前にはそのようなことは滅多にありませんでしたので、なぜこのようになってきたのか不思議でたまりませんでした。しかし、最近その理由が段々と分かってきました。それは、私たち現代人が、仏さまを気にするよりも人の目を気にするようになってきたということではないかと思います。

 私が子どもの頃には野球帽が流行っており、まづほとんどの子が帽子をかぶっていました。そして本堂に入るときうっかり帽子をかぶったままだと、大人の誰かが必ず、「仏さまのいらっしゃる場所だから帽子を取りなさい」と注意をしたものでありました。外陣であってもご本尊の前を横切るときには一礼するものだとか、本堂で足を延ばすときには決して仏さまの方に足を向けてはいけないとか、なかなかやかましく注意されたものであります。ですから子どもながらにも仏さまの方に常に意識を向けていたものでありました。その思いの中では、読経中に仏さまの方にお尻を向け、参列者の方に挨拶をするなどということは思いもよらないことでありました。

 私は今、そのような心がとても大切なことだと思うようになっています。子どもの頃は形だけのやかましさだと思っていました。なにかに夢中になりますとすぐ忘れて注意を受けてしまいます。しかし、うるさく言われたことにより、自然と仏さまを敬う心が育てられていたのです。

 形を整えるということはとても大切な事であったのです。今では、そのようなことをやかましく言う人は少なくなってしまいました。そして、いつの間にか仏さまを敬う心が失われていきつつあるのです。

 特に子供たちにとりましては、理屈から形を整えていくことはなかなか難しいことであります。むしろ理屈など必要としないと言った方が良いでしょう。もし、それが、ただの習慣であったとしても、形があるところではその心を理解することは成長のなかでたやすくできてくることなのです。「お仏壇の前を横切るときは軽く会釈をしなさい」とか「お墓まいりのときには、まず本堂にあがりご本尊にお参りしてからお墓に行くべきだ」など仏さまを意識させる指導をしていかなければならないと思います。それには、まず私たちが仏さまを敬う心を大切にしなければならないのです。

小林 泰善  

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