2000/12
「在家仏教」

   葬儀や法事のお勤めに行きますと、よく「やっぱり修行は大変なんでしょう?」という質問を受けます。うっかり「いえ、修行はしていません」などと言いますと、「コイツはニセ坊主じゃないか」と思われてしまうのではないかと深読みしてしまい、「ええ、まぁ」と言葉を濁すことがよくあります。

  一般の人がイメージするお坊さん像とは、頭をツルツルに剃り、座禅を組んだり、滝に打たれたりして、苦行をしている人であります。それは仏教の中でも、出家仏教という立場に属するお坊さんです。仏教には大きく分けて、出家仏教と在家仏教があります。出家仏教とは、まさに家や家族、地位、財産といった俗世のしがらみを一切捨て、戒律を守りながら悟りを目指して修行する立場です。それに対して在家仏教とは、様々なしがらみを全て背負い、在俗の生活のままで仏に救われ、悟りに到る仏道です。

  人間関係、社会生活、お金…、どれも苦悩の種であります。そうしたしがらみを全て捨て、清らかに生きられたら、どれほど素晴らしいでしょう。しかし、私には捨てられません。清らかに生きられません。人間関係の中で愛憎を繰り返し、住職、僧侶、世帯主、息子、兄、弟、夫、父親、娘婿、叔父…、多くの社会的役割の中でほとほと疲れ果て、そして「世の中お金ではありません」と言いながら、どこまでもお金に執着する、そんなしがらみ一杯、煩悩一杯の私なのです。

  親鸞聖人は、誰よりも清らかでありたいと願われた方だと思います。しかし、清らかであろうとすればするほど、清らかになれない自分に気付かれたのでありましょう。そして、仏の救いとは、一部の聖者の為にあるのではなく、多くのしがらみの中で喜怒哀楽する、まさに「親鸞一人がため」にあったといただかれたのでした。「親鸞一人がため」とは、「私一人がため」であります。在俗の生活にどっぷりとつかり、多くのしがらみ、矛盾、不条理の中で四苦八苦している私が、このままで仏の大悲に抱かれ、時には励まされ、時には厳しいお諭しをいただきながら、成仏への道を歩かせていただくのです。一つの戒律も守れず、一つの修行も為しえない、自己中心的な煩悩にまみれた凡夫が、まさに救われていく道なのです。

  『正信偈』に「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解のひととのたまへり。この人を分陀利華と名づく」とあります。在俗の中に生き、煩悩にまみれた凡夫であっても、本願を信じ念仏申す者を、仏はすぐれた智慧を得た者、白い蓮の花(分陀利華)のような人と、ほめ讃えて下さるのです。蓮の花は、高原の陸地には咲かないで、泥沼の中に咲きます。また、仏の悟りの象徴でもあります。仏の悟りとは、清らかな聖者よりも、むしろ煩悩まみれの在俗生活の中から生まれてくるのです。在家仏教とは、煩悩の中から悟りの花を咲かす、究極の仏道なのでありました。

藤原 忠房  

ご意見、ご質問、情報などはこちらへ
Email
POSTEIOS研究会 目次へ
一段上に行く