2001/04
煩悩にまなこさえられて

      私の祖父は7年前に往生いたしました。その祖父は私が生れる少し前から視力が少しずつ落ちてきたので、眼科医に診てもらったところ、「緑内障でしょう」ということでその治療をしていました。しかしいくら治療しても視力が落ち続けるので「これはおかしい」ということになりました。30年以上前のはなしですから現在のように医療技術も進んでおらずCTやMRIといったものも当然ありませんでした。しかし大学病院で精密検査をおこなったところ視神経の上に大きな梅干位の脳腫瘍が見つかり手術によって一命は取り留めたものの、視力を全く失ってしまいました。

      祖父も僧侶でしたからご法事やご葬儀といった法務も行わなくてはなりません。40年以上僧侶として布教活動を行ってきた祖父ですから、お経や御文章などは全て暗記していたので問題はありませんでした。しかし、ご門徒さんの自宅で行うご法事やご葬儀に一人で行くことはできませんでした。私が幼稚園に入るまでは祖父の連れ合いである祖母が手をひいて行っていたのですが、私が幼稚園に入ってからは「おじいちゃん、ここから階段だよ」「もうすぐ一段、登りだよ」というように私が祖父の手をひいてご門徒さんの家に行きました。

      祖父は「この孫が私の杖代わりなんですよ」とよくご門徒さんに話していました。それを聞いて私も「僕がいなければおじいちゃんは何処にも行けないんだ」などと思ったものでした。

      私も現在は住職となり5年が経ちました。振り返れば「5年間住職としてよく頑張ったな」などと思うこともあります。


      『
煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども
      大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

                                    (高僧和讃)

      阿弥陀如来の摂取不捨(救いとって決して捨てることのない)の光明は、つねに私を照らして下さっているにもかかわらず、煩悩具足の私はその光を見ることができません。この親鸞聖人のご和讃に出あわせて頂いた時に、私一人が住職として頑張って来たのではない。私が祖父の手をひいて来たのだとばかり思っていたけれども、実は祖父に手をひかれ、ここまで私をお育て頂いていたのだと気付かされ、恥ずかしい思いがいたしました。

      私たちはなかなか阿弥陀さまのお慈悲に気付くことはできません。しかし間違いなくこの私におはたらき下さっていると気付かされた時に、あらためて頭が下がる思いが致します。



古市 道仁  

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