よく阿弥陀さまを「親さま」と呼ばれる方がおられます。
先日とても混雑する電車に乗りました時に、小さな子供が「お母さん」と大きな声で呼びました。おそらくあまりの混雑にお母さんと離ればなれになってしまったらしく、少し離れたところからお母さんの「ここよっ」という声が聞こえてきました。
その電車の中には『お母さん』に該当する方はたくさんおられたはずです。しかしその子供にとっての『(私の)お母さん』であり、間違いなく『(私の)お母さん』からの応答があったわけです。
ここで思い出されるのが、宗祖の「親鸞一人がためなり」という言葉です。これは、阿弥陀さまの「一切の衆生を全て救わずにはおれない」という呼びかけをいただかれた宗祖の言葉です。
子供が『(私の)お母さん』を呼び、確かに『(私の)お母さん』が答える。この姿は、阿弥陀さまのお救いを信じる事によって、我々の口をついてくださる「南無阿弥陀仏」の称名に思い合わせられます。
一切の衆生を救うという阿弥陀さまのお誓いを聞き、そのお救いを信じたときにおのずから口をついてくださるのが「南無阿弥陀仏」の称名なのです。「くださる」と表現したのは、私が称えるから阿弥陀さまがおられるのではなく、私一人のために確かに阿弥陀さまがおられるからこそ、そうお称えせずにはいられないのです。
それはちょうど、混雑する電車の中で母親と離ればなれになった子供が『(私の)お母さん』と呼んだように。
妙好人として知られる浅原才市さんの詩に
子の心
子の心は親の心よ
親の心
親の心は子の心よ
親子の心 二つなし
機法一体
なもあみだぶつ
という詩があります。
子である私(機)のために、救ってくださる親さまの阿弥陀さま(法)が一つとなってくださる、ということなのです。
才市さんにとって阿弥陀さまはまことの「親」なのですね。
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