子供の頃「天国いいとこ一度はおいで、酒はうまいし、ネーチャンは綺麗だ〜♪」という一世を風靡した流行曲がありました。先日、あるお説教を聞いている時に、その歌のフレーズが頭をよぎりました。その時のお説教の内容はこうです。
「お浄土というところは素晴らしいところ。様々な思いが満足されるところです。極楽浄土といわれる所以です。ことに、この娑婆で死に別れ離ればなれになった愛する人々が、再び相まみえることの出来る世界、それがお浄土というところです。このお浄土を『阿弥陀経』では倶会一処≠フ世界と讃嘆、お説き下さっておられます。」と。
このような、お説教がなされる時、聴聞される人々のなかには、目頭を押さえ涙ぐむ方をお見受けすることも出来ます。その方々の涙は、「愛別離苦」(愛し合う者が離ればなれに境涯を異にしならなければならないという苦悩の現実)とお釈迦様がお説きになられた、われわれ人間の「苦」の事実、を実感され方が、その「癒し」を「倶会一処」という「来世の浄土」に求めようとされた時に流れ出る涙なのだろうと思われます。この娑婆での「愛別離苦」という苦悩が、「倶会一処」として満足されていく世界こそが「お浄土」である、と味あわれたのに違いありません。
けれども、お釈迦様のお言葉に耳を傾けてみれば頷けるように、娑婆の苦悩は「愛別離苦」それだけではありません。「愛別離苦」を説示される一方、それと共に「怨憎会苦」(怨み憎しみあう者が会わなければならない苦しみ)をお釈迦様は説かれています。こうなると「愛別離苦」よりも「怨憎会苦」という事実を、さらに強く実感した人々にとっては、「倶会一処」という「来世のお浄土」は、もはや「極楽」としてではなく、単なる娑婆の苦しみの延長として聞こえてしまうことでしょう。私が、こんなこというと、お説教の「つかみ」のポイントを「倶会一処という来世の実体的な浄土」に懸けているご講師の先生方の中には、その反論として「娑婆で怨み、憎しみ会っていた者どうしでも、来世、お浄土に往生すれば、共に肩を抱き合う人どおしになるのです!」と主張されるかたもおられます。そんなとき、そんな都合のいい来世!それが「お浄土」!?≠ニいう疑問とともに、私の耳には「ここはいいとこ一度はおいで〜♪」が響いてきます。
親鸞聖人は、娑婆での渇愛にもとづく欲望・都合を満足させる実体的な来世の世界(天国・あの世)を「お浄土」としてお示しになったのでしょうか?否、そのような弥陀の浄土を、「真の報仏土」ではなく「方便化身土」であると定め説かれているようです。私たち念仏者は、今一度「弥陀浄土」に「真仏土」と「方便化身土」とをはっきり別けられていかれた聖人のお心に耳を傾けなければいけないのではないでしょうか?
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