「もしつねに尊法に信奉すれば、すなはち仏法を聞くに厭足なし。もし仏法を聞くに厭足なければ、かの人、法の不思議を信ず」。
(『教行信証』信文類)
親鸞聖人が『華厳経』を引かれて、信心の功徳を述べられた中の一節で、厭足とは満足することです。
人は、感動を与える話などを聞けば、「満ち足りた」気持ちになります。ところが、信心をいただいた者は、何度も仏法を聞いても、満足することがないというのです。
かつて宮沢賢治がこんな授業をしたそうです。
「蛇の嫌いな人は多い。蛇に襲われたとか、噛まれた経験もない人がどうして蛇を恐れるのだろうか。
かつて、爬虫類が大地を闊歩していた時代、人間の祖先である哺乳類は、その存在におびえていた。その後、気の遠くなるような長い年月を経て、私たち人間が誕生することになる。そこには爬虫類を恐れていた哺乳類たちの遺伝子が受け継がれているのだ」。
何も私の中に法話を慶ぶ遺伝子が組み込まれている、というのではありません。が、私の生まれるずっと以前から、私を私として成り立たせているものがあるのは確かです。それは永遠に変わることのない私の本性といえるものでしょう。仏法を満足することなく聴聞できるとすれば、それは間違いなく私の力ではありません。信念でも努力でもなければ、わが心の善し悪しでもないのです。
私の本性に仏になることのたね(仏性)があるのかどうか、凡夫には知る由もありません。しかし、私の生まれるはるか以前から、すくい取ろうとするはたらきがある。そのはたらきに遇い、はたらきを感じることができるか。大切なことは、私が今そのはたらきに遇っているかどうかでしょう。
はたらきに遇うとは、念仏に遇うということです。念仏が私の本性を揺さぶり、目覚めさせる。そして私がつくりかえられ、仏法を慶ぶ身に育てられていく。その慶びが生きる力となるのでしょう。
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