今月の法話


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2001/11/09
更新日 2001/11/09

「小慈小悲もなき身」

    次のような二つの話を聞いたことがあります。

    @交通渋滞のなかを運転しているAさんが、自分の前に割り込もうとしている車を、思いやりの心から次々と割り込ませている。ところが、Aさんの車の後ろには、産気づいた妊婦を載せて急いでいる車が続いている。Aさんは良いことをしているのか、悪いことをしているのか。

    Aある援助団体が、水利の悪い地域に井戸を掘って住民を喜ばせた。しかし、そののち井戸に汚染物質が混入するようになり、その井戸水を利用した住民に深刻な被害が続出した。その援助団体が井戸を掘ったことは、良いことだったのか、悪いことだったのか。

    この二つの話を聞き、人が他者を思いやる慈悲の心の限界を改めて思い知らされます。自分では良いと確信して行動に移しても、結果として自分が想像だにしなかった悪い結果が、他ならぬ自身の行為の結果として生じているわけです。もっと、細心の注意、周到な事前調査があれば、と非難することもできましょう。しかし、すべての起こりうる可能性を一人の人間が細大漏らさず予測することは至難の業、いや不可能に違いありません。

    親鸞聖人は『愚禿悲歎述懐和讃』のなかで次のように詠われています。

小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき


『愚禿悲歎述懐和讃』

    親鸞聖人は世の苦悩する人々を救うためにも様々な努力をなされましたが、その過程で、一個の人間の慈悲の限界を痛感されたのではないでしょうか。そして、ほとけの願いに耳を傾けていくことこそが、ご自身に相応しく、かつ、人々にも安らぎを与えることになる唯一の道だと気づかれたのだと思います。様々な努力は、聖人がそのことに気づいていかれるための尊い機縁であったと言えましょう。自らを「小慈小悲もなき身」と深く頷けるまで、世のため人のために努力を重ねてきた私であるか、常に問い続けたいと思います。

石上 和敬  「よびごえ」より転載  

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