法 話   有賀 良雄  

 浄土真宗では初秋より一般寺院で「報恩講」の法要が営まれる。「報恩講」とは、浄土真宗を開かれた親鸞聖人の三十三回忌を、曾孫にあたる本願寺第三世覚如上人が勤めた時より始まる。覚如上人は親鸞聖人のお徳を讃え深い謝意を表し、その法要儀式・作法に関わる「報恩講式」を著述された。以来連綿と受け継がれている法要である。
 また、覚如上人はその三十三回忌報恩講を勤めた翌年には、「本願寺聖人親鸞伝絵」を著されている。それは、親鸞聖人御一代記を絵図と詞書きによってつづられたものである。現在は、絵とことばに分かれ、絵の部分は「御絵伝」という掛け軸として本堂に掛けられ、ことばの部分は上下巻の「御伝抄」として読まれている。
 その中に思いも寄らぬ論争があったことが、著されている。それは、親鸞聖人がまだ法然上人の門下生の時、「自分の信心と師である法然上人の信心と全く同じである」と言い、弟子の間で大変な問題となったというのである。智慧第一といわれた師の法然上人と弟子の親鸞聖人とでは、同じ信心のはずがないではないかといわれたのであった。そこへ、法然上人があらわれ、その争いを聞き、「信心に違いがあるというのは、自分で作る信心だからである。他力・仏力の信心、阿弥陀如来に頂いた信心であるなら、わたくしの知識・経験を加味されるものではないのだから、少しも異なるところはない。ただ一つである」と答え、親鸞聖人の正しさをあきらかにされたのである。
 浄土真宗の信心は、他力本願である。他力本願とは、仏力によって、阿弥陀如来のはたらきによって、地獄へ堕ちなければならないような迷いもがいているこの私を仏に成らしめる力のことである。人まかせとか、果報は寝て待て式のことではないのである。闇夜には自らを照らす力・はたらきはない。明るい光が、闇を照らすことによって、はれていくのである。親鸞聖人は、心の闇に阿弥陀如来の光が届けられ、その光に出遭ったことを喜ばれ、強く明るく生き抜かれた方であった。そして、この私も親鸞聖人を手本として、お念仏の人生・他力本願の人生を生かさせていただくのである。



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