法 話

 「母はわっと泣き出した.過去を顧みる涙は抑え易い.卒然として未来に於けるわが運命を自覚した時の涙は発作的に来る.」漱石の『虞美人草』の中で,娘の藤尾を失った母の絶望と当惑を描写する部分の一節である.この部分が昔から妙に引っかかっていた.この言葉を改めて思い起こしたのは,自分が学生時代に急に父を亡くし,その遺体が荼毘に付される時にしばし鳴咽が止まらなかったことを,後に思い返した時である.その時の私の涙がどのような感情に起因するものであったのかをうまく説明することは今はもうできない.ただおぼろげな記憶の中に浮かび上がるのは,父の死を悼むという気持ちよりも,自らのその後の人生に対する不安のようなものが強かったようである.父の突然の死という予期せぬ出来事に直面した時,それは言い方を換えれば何の計らいも計算も全くない状況であるが,そのような時に,自身の心の中を占領したのは,哀れにも命終えた父に対する惜別の気持ちではなく,他ならぬ自分自身の行く末を案じる気持ちであったのだ.父の為とばかり思っていた涙が,実は自分自身のためのものであったのだ.

 私の祖母は我々家族と同居していた.私のところはいわゆる本家であるから当然のことと考えてきた.ところが最近は,祖母の息子の一人である叔父の所で介護を受けている.九十二歳であるし,今まで私たち家族と何十年も一緒に世間並みに仲良く暮らしてきたのだから,今,叔父の所で生活しているからといって誰も何とも思わないであろう.ところがである.叔父の所に移ってから以前より元気そうで楽しそうだなどと耳にしたり,本家である私たちの所に祖母がいない理由を詮索されたりすると何となく面白くないのである.これは一体どういうことか.大切なのは祖母が歳相応に元気で楽しく暮らすことであるはずだ.周囲はそのための環境を整えることに意を用いればよいのである.なのにしかし,ここにも,祖母のためよりも,自分の体裁,見栄に拘泥されている私がいる.

 仏教では人に慈しみの心をもって接し,物心両面で様々な施しをすることを大切な徳目の一つとしてきた.その時留意すべきことは,他人を慮ったり,他人に施しを行っても,自らが良いことをしているという尊大な気持ちを決して持ってはならない点である.人は自分で良いと信じることをしていても,気付かないうちに自分勝手になっていたり,相手の立場を軽んじていたりすることが往々にして多いのである.他の人々のために良いと思うことは率先してしなければならない.しかし,一人よがりになっていないかを常に見つめ直すことが大切であろう.先に挙げた二つの例は自らにそのことを思い知らせてくれた気がする.

石上 和敬
(『あおくさ』#30より転載)


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