仏教には、「自利利他円満」という言葉があります。自らの利益(りやく)を
得ることと、他人を利益(りやく)することの両面を兼ね備えることが仏教の人
間像の理想の姿とされています。大乗菩薩道の理想像です。
しかし、私たちの社会では自分のための行為と他人のための行為では、あい反する場合が多く、両立する事は非常にむずかしいのです。だれでも自分のためならば進んで物事をします。しかし、他人のための行為は、自分を犠牲にすることが多いからなかなかできるものではありません。ひとを犠牲にしてでも自分がよかれと思うのが常だと思います。
先日、あるテレビ番組を見ていましたら、クイズで「情けはひとのためならず」という諺の意味を問う問題がありました。だれでも知っていると思っていましたら案外知らない人が多いことにびっくりしてしまいました。なかでも、多かった答えは、「情けをかけることは、情けをかけられたその人のためにならない」ということでした。 本来この諺は、ひとへの思いやりは、ひとのためというよりも自分自身のこころを成長させるためにするのであるという教訓のことばです。私も子どもの頃、この諺をよく聞かされたものでした。その同じ諺を聞いて、多くの若者が自分のことと言うよりも相手のことをイメージしたというところに現代を感じました。他を批判することには慣れていますが、自分自身にはなかなか目が向きません。 また、ひとのことなど気づかっていられない激しい競争社会では、「気づかい」という言葉が残っていても、世間の目に対する気遣いだけでは寂しいかぎりです。そのような中で、いつの間にか、ひとの傷みを感ずることができなくなってしまったのではないでしょうか。しかし、現代社会が、ひとへの「思いやり」という気持ちまで否定してしまっているとは思いたくありません。 だからといって、「情けはひとのためならず」という諺を使って青少年の教育をすべきとは思いません。それは、「情けをかける」ということばが、ことさらに上下関係をイメージさせるからです。この諺が、使用されなくなったのはそのあたりに原因があるのではないかとも思います。 「自利利他円満」という大乗菩薩道の理想を、こころに持っていることは、とても大切なことだと思います。私たちにとってなかなかできることではありませんが、自分自身のあり方としての目標をこころの中に持つことが、「智恵」すなわち、物事を正し く判断して処理する心の働きを育てていくのではないかと思います。
小林 泰善
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