一年前の出来事である。
6月13日金曜日、愛車を当て逃げされた。場所は築地本願寺境内の駐車場。 「何でこんなところで・・・」と目を疑った。傷は運転席側のドアがベッコリ凹まされ、開けられないくらい酷いものだった(結局、犯人は見つからず、修理代の8万はもちろん自腹で払うことに・・・)。この事実が信じられず、悔しいやら、悲しいやらで、暫くその場に立ちすくんでいたのを覚えている。 その時、事故処理をしてくれた警察官の「日が悪かったよな」という言葉が強く印象に残っている。その言葉を聞いたとき、「やっぱり13日の金曜日は悪い日なんだ」とその言葉に納得してしまった自分がいた。 一般的に「13日の金曜日」というのは良くないことが起こる日とされている。 親鸞聖人は、このような「迷信」を信じてはいけないと言われている。物事のすべては様々な原因や条件によって起きるもので、迷信によってその良し悪しが左右されるものではないのである。 ところが、親鸞聖人のみ教えを伝えなければならない僧侶である私が、いざ自分の身に悲しいことが起きてしまうと「迷信」を変に納得していた。 この時、人間とはなんと愚かな生き物だろうと思ったのと同時に、この私も僧侶である前に愚かな人間であることに気づかされた。 まさにこのように我が身にはたらき、気づかしめてくださったのが、親鸞聖人が心の支えにされた「阿弥陀さまのおはたらき」だったのです。 今回の事故は、他人から見れば悲しいことかも知れない。しかし、僧侶でありながら実務に追われ、日々暮らしていて「阿弥陀さまのおはたらき」を忘れがちになる私にとっては、その事に気づかせていただいた意味で幸せな出来事だったのではないだろうか。それが、「阿弥陀さまのおはたらき」の一つに感じられた。 そして、苦しみがなければそのはたらきの有り難さに気づくことのできない私たちは、まことに身勝手な人間であることに気づかされた一件だった。
佐々木 貴宏
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