我がこととして聞く



 駅の階段を必死で駆け下ります。ホームでは発車のベルが鳴っています。ドアに半分はさまれながらも何とか乗ることができました。「あぁよかった」と「ホッ」としたそのとき、車内放送で、「乗客の皆さまにお願いいたします。駆け込み乗車は危険ですので、おやめ下さい」とアナウンスされます。こんなときはちょっと恥ずかしい思いをします。学生時代にはよく経験したことです。みなさんも一度や二度はこんな体験をされた事があるのではないでしょうか。

 「乗客の皆さま」と言われながらも「自分のことだ」と思っているので、「ほら、今駆け込んだあなたのことですよ」と聞こえてしまうのですね。もし全く違う状況でこうした車内放送を聞いても耳にすら入らないかもしれません。

 親鸞聖人が常日頃おっしゃっていた言葉が「歎異抄」という書物に残されています。

  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
  ひとへに親鸞一人がためなりけり

   「阿弥陀佛が五劫もの長い間迷える衆生を救わんがために思いをめぐらしてたてられた 本願をよくよく考えてみると、それはただこの親鸞ひとりをお救い下さるためであった」

 さらに続けて語られます。
   「思えばこの私はそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立って下さった阿弥陀さまの本願の、なんともったいないことであろうか」
 阿弥陀さまの願いを、我がこととして受け止められた方が親鸞聖人です。そして、教えを説かれる時にも他人ごとではなく自身に引き寄せて信心を語られた方でありました。

 浄土真宗は「法を聞く(聞法)」ということをとても大切に致します。しかし、このときどれだけ自身の問題としてみ教えを頂戴しているかと言われると、はなはだ心もとないことであります。ご法話を聞いても「となりの誰々さんの事」、あるいは「あぁ良いお話だった」くらいの気持ちでお話を聞かれてはいないでしょうか。そうではなく「聞く」ほどに自分の罪深い姿を知らされる、そしてそんな私のためにこそ阿弥陀さまは願われたのだと味わってゆける、そんな聞法を心がけたいと思います。

 駆け込み乗車のアナウンスを聞く当事者の私にはいつもと同じアナウンスでも聞こえ方が違います。仏法を聞くことも我がこととして聞くことができればと思います。



桜井 寛明 

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