- 「問い」なくして「答え」はない - |
便利な世の中になってきました。家庭で料理しなくても、街には多種多様のレストランがあるし、一流ホテルの惣菜だって店頭に並んでいます。今、誰かと連絡をとりたければ、手元の携帯電話がかなえてくれます。東京〜京都間は、親鸞聖人ご在世の頃は何日もかけて「身命をかへりみずして」までも旅をしたというのに、新幹線「のぞみ」に乗れば二時間十四分です。
私たちの生活は、こうして便利さの追求によって進歩してきたのです。
翻って考えると、便利さを追求するということは、目的や答えを獲得するために、私たちがみずから体を使ったり、じっくりと頭で考えたりするプロセスが省略されることでもあるわけです。そこは注意すべきところでもあります。 「私の人生」に代理人はいません。『仏説無量寿経』に「人、世間愛欲の中にありて、独り生まれ独り死し、独り去り独り来たる。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし」とあります。仕事などでしたら、代理人を立てることはできますが、トイレや食事は他人に代わってもらうことはできません。 これと同じで、生・老・病・死をはじめとする人生の根本苦悩は自分自身に固有のものであって、他人に解決の「答え」を提示してもらうなどという、便利さ追求の論理は通用しません。およそ「答え」は「問い」があるからこそ「答え」たりうるのです。おろそかにしてならないのは、自分自身の人生に対する「問い」であります。 |
浄土真宗でよりどころとする三つのお経を、あらためて拝見しますと、いずれも「問い」が真実開顕の重要な意義をもっていることに気づかされます。 まず『仏説無量寿経』は、仏弟子アーナンダの問いかけから、釈尊の説法が始まります。いつもと違う釈尊のご様子に、真実を問い聞こうとする、いわば「慧見の問い」が発端となります。また『仏説観無量寿経』にしても、わが子によって牢獄に幽閉されたイダイケ夫人が、苦悩の中から釈尊に対して救いを請うところから説法が展開します。イダイケ夫人の「愁憂の問い」がテーマとなっているのです。ただ、三つめの『仏説阿弥陀経』は、釈尊みずからが一方的に語り始めたもので、誰かの問いかけを背景とした説法ではありません。しかしながら、このお経にある「於汝意云何」(汝がこころにおいていかん)という語りかけが、何でもお膳立てが整えられた「答えの時代」の生活に甘んじている私には、「おまえの生き方はそれでよいのか」と、人生に対する問いを喚起されるように響いてくるのです。 真実を求めようと問いをもつ人にも、苦悩を縁として問いをおこした人にも、さらに自分の人生に問いをもつことすら忘れてしまっている私にも、如来のお慈悲がはたらいてくださるのでありましょう。 阿弥陀如来の本願真実に、みずからの歩みを問い聞いていく姿勢が、お念仏に生きる者として大切なことだと味あわせて頂くものであります。 |
早島 大英 |
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