POSTEIOS 法話:  平成11年7月

ま こ と

     浄土真宗では、「他力本願」を宗旨の本領といたしております。ところが、この「他力本願」ということが長いこと、私には全く受け止められなかったのです。と、申しますのは、大無量寿経のなかでは次のように述べられております。

      「法蔵菩薩(阿弥陀さまの修行時のお名前)が、二百一十億(ガンジス河の砂の数ほど)の仏がたの願いのかかった仏国土をご覧になり、この上ない仏国土の建立のために、五劫の間思いを巡らして、四十八の願と行を選び取られ、はかり知ることのできない長い年月をおかけになって、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのでございます。その間、法蔵菩薩はどこに生まれても思いのままであり、数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させました。あるときは富豪となり在家信者となり、また・・・・・。 こうして限りのない修行の後、さとりを開かれた法蔵菩薩は、無量寿仏すなわち阿弥陀さまとなって、 十劫の時を経て今、現に西方浄土の安楽国におわしまして、すべての世界に響き渡る声で教えを説き述べて、人々を導いておられます」
  と、このようにお釈迦さまのお言葉で述べられております。
     さてそうしますと、法蔵菩薩が阿弥陀さまに成られたということは、先ほどの仏願すなわち「四十八願」がすべて成就したということであります。仏の誓願が成就し、十方衆生が、救われている、ということでありましょう。それなのに、この私は全く救われていないのです。貪り、怒り、無知、慢心、ねたみの生活の中に正に埋もれている私。常にもの欲しい私であり、垢まみれの私であります。綺麗にしようと思えば思うほど汚れていくような私であるような気がいたします。・・・・・阿弥陀さまはこの私には遠い遠い遙かに遠い、いや、全く断絶しているかのように思われてなりませんでした。   「仏の願は嘘だ。救われない私が現にここにいるではないか、これはなんなのか」と。

     二十六年前から持ち続けたこの私の「小賢しい」疑問が、つい半年ほど前にやっと、私なりの解決がついたのです。「法蔵菩薩が阿弥陀さまになっておるんだから、もうすでに救われておる。それでも救ってと言うのは、欲張りというものではないのか。 「すでに救われておる」のに、そのことに気づきがなかったのです。仏がよびかけておられる。仏が願っておられる。「性がないやっちゃなぁ、泣いて、叫んで、恨んで、嫉妬して、喧嘩して、傷つけあって悲しいやなぁ、あほやなぁ、でも可愛いよ、お前たちのすべてが。そのまんまみんな救っているよ・・・」

     うちには九匹の猫が寝食を共にしておりますが、お互い嫉妬、喧嘩・・・まさに人間と変わりありません。でもね、一匹一匹みんなそのまんまで可愛いんです。阿弥陀さまからみれば、私たちもそう見えるのかも知れませんね。

     親が子に「こういう人になって欲しい、例えば、人を悲しませるようなことのない人に成って欲しい」と願ったと致しましても、その願いが子の願いとなって、初めて親の願いが事実となって生きてくるのではないでしょうか。

     阿弥陀さまが願っておられる。この私の不安と苦悩とを悲しむ心の現れが弥陀の誓願となり、そして私は、そういう大悲をかけられている存在であるのに、気づかないで生きておりました。仏の願いが私の願いと成らなかったから気づきがなかったのです。  阿弥陀さまが悲しんでおられる。阿弥陀さまが誓っておられる。その阿弥陀さまの誓願に随って、随順して生きていきゃあいい、そして弥陀の誓願に促されて、精一杯生かされて努力して生きていくことこそ「他力本願」の心であり、「まことに生きる」ことではないでしょうか。

                                  多田 道空
 

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