POSTEIOS 法話:  平成11年8月
供 養

いのちを見つめて

 
 供養とは、何でしょうか。「先祖の霊を供養する」と言われます。なくなったご先祖が、お盆にお帰りになる。そのご先祖の霊に供物を捧げ、お経をあげ供養する。このように考えられています。供養をおろそかにすると、ご先祖がたたる、何か悪い事が起きるとも考えられています。
 ここでは、いのちを「供養する側(生きているもの)」と、「供養される側(先に亡くなられたご先祖)」の二つに分けています。現実社会でも考えられることです。「哀れみをかける側」と「哀れみをかけられる側」、わたしたちの世界には、わたしたちを二つの側に分けてみる見方があるのです。そこには、埋めることのできない大きな隔たりがあるように思えます。「生きている者」「先に亡くなっていった者」交わすことのできない隔たりが、悲しみを増し、苦しみを生み出します。また、「生きている者」は幸せで、「亡くなった者」はかわいそうと私たちは思っています。
 阿弥陀さまの願いは、この隔たりを超え苦しみ、悲しみを超えてゆくために起こされた願いです。わたしたちは、そろそろ、二つの側に分けていのちを見てゆこうとする限界に気づかなくてはならないと思います。
 優しさや、相手を思う気持ちが、相手のいのちを認めることなしに、「優しくする側」を自分の側とし、相手を「優しくされる側」と決めつけて、一方通行でなされることは、偽りの優しさであり、結果的に相手のいのちの尊厳を見失うことになってしまいます。
 阿弥陀さまは、その隔たりを超えて、すべてのいのちをその無量の光の中に、無辺の光の中に、無碍の光の中に、同じいのちとして、おさめとって見捨てることのない仏さまなのです。そして、「先に亡くなっていった者」は、阿弥陀さまのはたらきによって、阿弥陀さまと同じ仏となり、阿弥陀さま共々、私に働きかけてくださっておられます。そのことに気づかされ、亡き人を縁として、わが身を知らせていただきましょう。 
 つまり、「生きている者」も「先に亡くなっていった者」もみな阿弥陀さまの大いなる慈悲のお働きに包まれた同じいのちなのです。阿弥陀さまに抱かれている同じいのちであるからこそ、わたしたちが一方的に、「供養する側」と「される側」を決めつけてはならないのです。阿弥陀さまに抱かれているという無限の安心感の中で私たちは、生死を超えたいのちの尊厳に気づくことができるのです。
 それは、相手のいのちを敬う心ではないでしょうか。一方的な決めつけではなく、本当に喜んでくださることを相手の身になって考えていくこと。「供養」という言葉の元の意味は、「敬うこと」「敬いの心を形で表すこと」です。一方通行ではない、同じいのちとしての尊厳をもったいとなみであるのです。
 

 人間のすがた

 阿弥陀さまに抱かれているお互いが初めて、生死を超えたいのちを獲得できたとき、私たちは、同時に私自身を顧みるのであります。自分の思い込みによって人を評価し、決めつけてゆく私、その私がそのまま、阿弥陀さまに抱かれて、すべてのいのちと同じ尊いいのちと実感できたこと。それは、私の力ではない。阿弥陀さまの大いなる慈悲のお働き以外にない。そこには、阿弥陀さまの教えを聞き、阿弥陀さまと共に、阿弥陀さまに抱かれたすべてのいのちと共に生きる人生が開かれてくると思います。
 ここにいたって、「供養」とは阿弥陀さまが、阿弥陀さまが抱き取るすべてのいのちに対して、私に敬う心を起こさせてくださる尊い導きであるといえましょう。
 先に亡くなっていかれた方々は、かわいそうと哀れみをかけられる立場になってしまっているのではありません。阿弥陀さまの大いなる慈悲の中で、無限の輝きをはなって、私たちと共におられます。お敬いの心、供養の心をもってお参りしましょう。そして、何よりも聞法の中から阿弥陀さまの願いに生かされているお互いであることを大切にし、かけがえのない尊いいのちを、力強く燃やしていきましょう。
 一方的な形ばかりの丁寧さではなく、阿弥陀さまの願いを中心にして、お互いのいのちを大切にしていきましょう。
                                

                                 成田 智信
 

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