POSTEIOS 法話: 平成11年12月 |
年末年始の心得 |
12月は「師走」と言われ、老若男女問わず何かと気ぜわしくなる季節であります。この時期は何かと世間ではビックイベントが目白押しだからでしょう。クリスマスに除夜に元旦・・・。 実はどれも大切な宗教行事なのです。しかし、残念ながら日本では商業主義に踊らされ、その行事の持つ真摯で純朴な意義などおかまいなしの現状でありましょう。日本特有の「重層信仰」の当然の結果といってしまえばそうでしょうが。 私たちが仰ぐ親鸞聖人は、「一心」を強くお示し下さいました。あらゆる教えの中で、阿弥陀仏の本願でなければ私自身が救われることはできないのだと深く領解されたのであります。 また、「一心」と同じ味わいのことばで「唯信」と表現されております。『唯信鈔文意』という著述の中に、「唯はただこのことひとつといふ、ふたつならぶをことをきらふことばなり」とお示し下さっております。 年末年始、あの神さまは、あの仏さまは、何々にきく神さまだとか仏さまだと考えて、私の欲を満たすために走り回ります。まるで自分の気に入った番組を見るためにチャンネルを変えるような行為です。しかし、それは本当の信仰のあり方ではないはずです。 「初詣」では必ずどこどこは何万人の参拝者でにぎわいましたと報道されます。いったいその数が何の意味を持つのか。そのひとりひとりが必ずと言っていいほど「毎年お参りしてるから」と答えています。1月1日にはそこにお参りしないと一年が始まらないんだという習慣から暗示になっているような気がします。この心のありように迷信がはびこるスキがあるのではないかと感じます。 私たち念仏者にとりましては、「初詣」と称して、普段は行きもしない有名神社仏閣にわざわざお参りすることではなく、また1月1日が特別な日というわけではなく、一日一日が恵まれている一日と受け止めさせていただくことが大切でありましょう。こうしなければ始まらないんだという暗示は、私のはからいであると気づかさせていただくことこそ大事なことなのです。 その私の迷いを照らして下さった仏さま、そう阿弥陀さまを仰ぐのが念仏者なのです.それは、渋滞覚悟で有名な神社仏閣に赴くことではなく、みなさまのお仏壇で、またはご縁のあるお寺でお参りすればよろしいのです。 どうぞ、浄土真宗の元旦会にお参りいたしましょう。 |
北條 大慈 |
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