
◆ 憲法を守ろう・市原市民連絡会 発足記念講演会
「憲法から日本を読む」
−−小泉さんは私たちをどこへ連れて行こうとしているのか?−−
◆ 講 師 佐高 信 (さたか まこと) さん
(評論家、憲法行脚の会代表)
◆ 日 時 2004年12月11日(土)
13:00 開 場
13:30 開 演
16:00 終了予定
◆ 会 場 市原市民会館小ホール
◆ カンパ 一口 500円
*当日配付資料 const-041211sataka-shiryou.pdf もご覧ください。
<呼びかけの一節>
…
これまでにも、5月に青空集会、7月に講演会(学習会)を実施してきた。しかし、「単発の催しで満足するのでなく、継続的な活動をしよう」との方針が確認された。まずは連絡会の知名度を上げるために、著名人を呼んでの講演会を開くことにした。
事務局は、7月に発足記念講演会を行った「第9条の会」に講師派遣を要請したが、各地からの要請が相次ぎ、くわえてメンバーが高齢であるため、要請にはそいかねるとの回答が来たそうな。そこで、加盟単組の伝手を頼って「行脚の会」代表の佐高氏に依頼したところ、快く引き受けてくださったという。
佐高氏は、わたしの出身高の教諭をしていた矢部基晴氏が『思想の科学』編集長をしていた時に発掘したということだ。いまはテレビ・雑誌・著書で活発な評論活動を展開し、小泉内閣の政治姿勢、政策を舌鋒鋭く批判している。
…
<講演会レポート>
キャラバン、駅頭ビラまき、そこでの街頭演説と初体験を重ねて準備をした憲法講演会が、何とか終わった。事務局発表で約350名という大盛況だった。動員を差し引いても、半分は一般市民だったでしょう。
わたしの関係では、小学校の同級生たち、息子たちの担任の先生、整骨院の先生、研究会仲間のT君、おいでいただき、ありがとうございました。
東京の東の外れにお住まいのST大学のTさん、西の外れは多摩センターのF先生、姿を見つけた時にはわが目を疑いました。感謝です。
また、カンパをお寄せくださったみなさん、12月10日までしか確認できていませんが、新潟のTさん、C大学のKさん、MS大学のWTさん、S大学のKさん、ありがとうございました。WTさん、サインはもらえました。後日、お渡しします。
会は定刻にスタート。
■呼びかけ人紹介・代表あいさつ
昨夜までの打ち合わせでは、会の共同代表3名だけがしゃべるはずだった。中村さんが「会設立の経緯」を話し、松下さんが「市民としての率直な思い」を披瀝する。残り時間はわたしが使えるものと理解していた。
ところが、「せっかくおいでいただいた呼びかけ人にも一言ずついただこう」ということに急きょ変更された。この辺は事務局長の人徳で成り立っている会としては仕方がないところでもある。
じつは、わたしは当初、憲法前文を朗読(一部は会場全体で声を合わせる)することで、三人目の代表としてのあいさつに代える気でいた。
この話をしたところ、T君から「あなたは研究者という立場でこの会に参加しているのだから、研究者でなければできない話をした方がよいと思う」という真摯なアドバイスをもらった。メールをプリントして持ち歩いて、わたしができることを考えていた。
その結果、(1)資料として配付する「解釈改憲の歴史」に説明を加えること、それに加えて、(2)改憲の手続を知ってもらうこと、(3)直近に露呈した政党と自衛隊制服組との接触の危険性を指摘することを決めた。
その内容で15〜20分の原稿を用意し、あわよくば憲法前文の一部をみんなで朗読しようと考えていたのだが、この変更を知った時点で原稿に依拠することをやめた。
わたしの番が来て、残り時間は12分。予定稿のあちこちに飛びながら解釈改憲の歴史を話し終えたところでタイムオーバー。司会から警告が来ている。ここでまとめてしまう手もあった。解釈改憲の「行き着く先」を、佐高講演のサブタイトル「小泉首相はわたしたちをどこへ連れて行こうとしているのか?」と重ねて、講演へとつなげた方がよかったのだろう。少しのオーバーは許されるだろうと、用意した文民統制と改憲日程の説明へと強行突破を図るも、司会から止められてしまった。
司会のKさん、やりますねぇ。参りました。かくして尻切れ。
資料の説明をするなら、そのための時間枠をもうけるべきだったとの意見をもらう。
フロアにもどって着席すると、長男が「早口だし、まとまりがなかったね」とコメントしてきた。最近、わたしの保護者を気取って口うるさくなってきた(>_<)。しかし、よくぞ手伝いに来てくれた。ありがとよ!
さて、定刻より約5分遅れて、講演に移る。
■佐高 信 講演
開口一番、「法律家ってのは、むずかしい話をしますねぇ」と来たもんだ。
そして、「1977年9月27日にどんな出来事があったか、ご存じか?」と来た。
そら来た! 毎週Sc予備校で『サンデー毎日』連載の「政経外科」を読んでいる身としては、「そら来た」なのだ。米軍ジェット機が横浜市内の住宅地に墜落した事故の日だ。このとき現場に飛来した自衛隊のヘリは、パラシュート降下した米兵だけを救助したのだ。
http://www.02.246.ne.jp/~origin/tuiraku/index.html
この事実を指して、「日米安保条約の本質はこれなんです。沖縄国際大学へのヘリ墜落事故も同じです」と続ける。
うまい! 講義でつかえる!!
あとは延々と、歴代総理や政治屋批判に費やすが、その中で印象に残ったのは、次の二点。後者は一般市民の投票の際の判断基準になるだろう。
(1) 政治家の不祥事に対して、日本の庶民は「あんたら ひでぇこと、わたすぬは でぎねぇ」と、等身大に矮小化してお終い。これでは権力者を批判できない。
(2) 政治屋は人格で選んではいけない。[憲法改悪を阻止するためには、]ダーティでもハト派を選ぼう。中華人民共和国に好意的なのがハト派である。
最後は泣き落としで来た。会場は男女を問わず、涙をぬぐう人が多かったという。
(1) 軍人の家系の本家の嫁である加藤まさサンは、軍国の母だった。当時の流行歌「軍国の母」の三番の歌詞のような母だった。
生きて還ると 思うなよ
白木の柩(はこ)が 届いたら
出(で)かした我が子 天晴(あっぱ)れと
お前を母は 褒(ほ)めてやる
思い通りに育て上げ、息子は特攻隊の一員として戦死した。だが戦後届けられた「裏の遺書」には「かあさんに、ただ抱いてほしかった」と記されていた。まさサンは、余生を特攻遺跡行脚に費やしたそうな。http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/satakamakoto.html
(2) 役者の三国連太郎。
召集を受けたが、忌避することを決心し、山陰から朝鮮、中国へ渡ろうとした。家族へ手紙を送ったところ、山陰で憲兵隊に捕まった。拷問もなく出征となる。面会に来た母は最後まで目を合わせなかった。そこから、母が手紙を憲兵隊に差し出し、寛大な措置を頼んだのだと合点がいったという。
「改憲は、このような母を再び作り出すことになる」と結んだ。
司会のKさんは、「9条を変えるということは、母親に息子を売らせる国に、売らざるをえない母親にしてしまうのだと思った」と記す。
■質 疑
一つひとつの質問に正面から答えることなく、「このような質問が出ることは、わたしとしては不本意である。わたしが述べたことを敷衍していただければわかっていただけると思う」と答える姿は、いささか横柄な対応に感じた。
■総 括
(1) 「戦争反対」には誰もが賛成する。改憲で自衛隊を合憲化しても「戦争はホントウにやむを得ない場合しかしない。だから戦争反対にかわりはない」と言い抜けることはできるだろう。だから「戦争反対だから改憲阻止」では弱い。
じゃあ「すべての戦争に反対する」と言えば、いまの時勢、「自衛のための防衛行動もしないのはどうか」と考える方の方が多いのではないか。
さらに「自衛隊は違憲だから段階的に廃止しよう」と踏み込めば、賛成者はもっと減るだろう。
その点、「『子どもの命を国に捧げる母』を出さないために改憲阻止」と訴えれば、「国に命を捧げる場」である軍隊の存在を否定することにつながる。絶妙な仕掛けといえようか? 否、本人が志願した場合は当てはまらないよな。
結局のところ、情緒に訴えることも必要だけれど、理論的にキチッと詰めることも必要なのだ。憲法で禄をはむ者としては、むずかしいことをわかりやすく説明するための努力がさらに必要であることを認めつつも、むずかしいことを理解してもらうためにしゃべり続けなければならないと思う。
(2) フロアは、ラグビー場よりももっと年齢層が高かった。
若い人にこそ関心を持ってほしい問題なのだ。若い人に人気のある講師を呼んでイベントを企画すること、その企画を若者たちにやらせること、地道な学習会を継続することが、今後の課題である。
最後に、この講演会の成功は、市原市労働組合協議会事務局のみなさんのご尽力のおかげでした。すべてをお膳立てしていただいて、わたしは呼びかけ人としてマイクを握っただけでした。ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。(2004.12.12、12.13加筆修正)
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