◆ 自然と人間「生命が失われていませんか」
〜日々の生活から環境・平和を考える〜
山川建夫(元フジテレビアナウンサー)
2005年6月28日(火) 18:30〜20:30
市原市民会館 三階会議室
【リポート】
山川建夫(ゆきお)さんは、憲法連絡会の講演会に「呼びかけ人」として参加されている。講演の前後のトークなどで所信の一端をうかがってはきた。そこからだけでも、波瀾万丈の人生を送って来られたことがわかる。その全体像をお話しいただく機会がついにやってきた。
●戦争体験
山川さんは、東京は千駄ヶ谷の生まれ。1945年6月の山の手空襲のときは1歳半。母におぶわれて近所の防空壕のすき間に入りこむが、山川さんが激しく泣くために、みんなに遠慮した母は防空壕を出て、火の海のただ中へ。火勢に追われてお寺に逃げ
込み、防火水槽の水を体にかけながら助かる。あとで防空壕をみに行くと、蒸し焼き状態で、みな死んでいた。「オマエのお陰で助かった」と母に言われ続けた。
後日、栃木へ疎開する列車が、艦載機に襲撃される。山川さんの耳から血が流れていた。銃弾がかすめたらしい!! のちに、その地に講演に行き、その話をすると、主催者から「そのときの列車の台車が駅に保存されている」と知らされ、対面したという。
●局アナ時代
そんな原体験のせいか、戦争の話題となると独特の感慨がわき、物議を醸すこともあったらしい。
その一。
1970年、ときは大阪万博。フジテレビ『小川宏ショー』の列島リレー中継。 万博正面ゲートから、山川さんは「このようなときでも戦乱のベトナムでは…」としゃべりだし、…。
その二。
李香蘭こと山口淑子が、米軍の護衛を受けて南ベトナムを取材。それをワイドショーで得意気に報告したのだそうな。「二週間程度の取材で、戦争の実態がわかるものでしょうか?」と疑問をはさんだという。ベ平連に関わり、脱走米兵にも会い、話を聞き、戦況を把握していたそうだ。
山口女史は本番中は額に青筋を立てながらも黙っていたが、終わるやいなや局幹部に直訴したそうな。
極めつけ。
「鹿内体制糾弾」のために労組を結成、活動したともいう。
そんなこんなで『小川宏ショー』を降板させられることになる。
その日、後日判明したことだが、義憤に駆られたタイムキーパーが一分を捻出。小川キャスターが「山川さんはきょうが最後です。最後に一言、どうぞ」。
黙って去るつもりだったが、「わたしは自分の意思で降板するのではない。降板させられるのだ」と、思いを語る。
スタジオは大混乱。エンディングがどうなったか、覚えていない。役員室に連れ込まれ、査問を受ける。
しばらくして、フジテレビを退社。全国放浪の旅に。
●市原に定住
改造車に寝泊まりしながら、全国を訪ね走る。
そんなある日、四歳の娘さんが「もう、車で寝るのはイヤ!」と叫び、奥さんも同調したそうな。気に入った市原に住むことに。その娘さんも、来春は大学卒業だという。
築六十年の家を借り、畑を耕したが、三年くらいたったとき、古老から「男は田んぼをやって一人前だよ」と言われ、稲作もすることに。村人から認められたようで嬉しかったという。
爾来、無農薬栽培をモットーとし、除草剤は使わない。村人からは「なぜ薬を使わないのか」と非難の口調で糾問されることがあるという。ベトナム戦争の「枯れ葉剤」から生まれた除草剤は使いたくない。村人は「田の草取りのつらさを思い出して、イヤなのだろう」と解釈しているとか。
田に入り、田の草を取っていると「無我の境地」になれる。一陣の涼風を感じてわれに返るとき、「自然と共に生きている」ことを実感でき、何ごとにも代えられない「至福のときだ」という。
自然と生きているからこそ、環境破壊のすさまじさを感じるという。人類の住処である地球が存亡の危機に瀕しているとき、最大の環境破壊である戦争にうつつを抜かしている場合ではない。
「戦争を出来るように憲法を改正するなんて、もってのほかだ」。
山川さんは、アナウンス学院講師として後進の養成にあたるかたわら、司会業もこなし、豊富な体験に基づく講演活動も行っている。全国を駆け回る日々である。
●後日談
学習会から二日後、乗ったタクシーの運転士が I 地区在住だというので、山川さんのことを聞いてみた。
「私ん家の休耕田で稲作をやっていますよ。何せ素人さんだから、危なっかしくてみていらんなかったねぇ、最初は。昨日はカルガモをはなってたそうですよ。うちの方はイノシシが出るんで、防護策をつくってました」。
わたしを乗せたことは、運転士から山川さんにも伝わっていた。