2005年10月8日(土)23時51分、母は帰らぬ人となりました。77歳でした。
 最後の入院の日々と、葬儀を振り返りながら、母を偲びたいと思います。
 少しずつ書き足して行くので、脱稿するのはいつのことやら…。
                                          2005.11.12
■ 母の生い立ち
 母は、1928(昭和3)年4月2日、内田村出身の父と五井町川岸出身の母との間に、東京・北砂町で生まれる。実際には3月に誕生したものの、低学年での早生まれ児の不利益を考えて、出生日を遅らせて届けたと聞いた。


■ 東京大空襲
http://www2s.biglobe.ne.jp/~quappa/war-tokyo-kushu.htm

■ 教員生活

■ 膠原病

■ 母の病状



■ 2005年5月24日()
 5年前、腹部大動脈瘤手術の際入院したのが、この日。
 成功して退院できた縁起を担いで、この日に入院。

         <千葉県循環器病センター 正面全景>

 建物の右側(白色部)が病棟。5階建ての3階、ギザギザ部分の最も奥まった部分に心臓血管外科HCUがあった。正面玄関から退院するはずだったが…。



■ 6月19日(日)
 外泊は許されず、外出のみ。
 主治医曰く、「自宅の風呂場で転倒でもしたら、また血圧が不安定になって、治療のやり直しになってしまいます。外出で我慢してください」。

 妻の車で帰宅。美容院で髪を切る。家で休憩して、病院へ帰る。
 滞在中、部屋や家を見回すようなしぐさはなかった。

 憲法擁護の用紙に署名してもらう。[いまとなっては、残しておきたい“直筆”だ。]



■ 6月26日(日)
 翌日に20時間に及ぶ手術を控える母のもとへ。
 一ヶ月に及ぶ入院で点滴を続けてきただけに、体調はよさそう。
 同行した長男は、「ボクが行ったから、嬉しそうだった」という。
 次男は車に乗れないのでパス。「いままでも、いつも帰ってきたから、こんどもヒョッコリ帰ってくると信じるよ」。
 車中で、わたしと父が世間話をしていると、妻が「肝心なことを打ち合わせしておかないの」と言外に催促してきた。



■ 6月27日(月) 手術開始
 09:15、オペ室へ。「まずはもどって来いよ」と送り出す。10:00に始まったはず。

■ 6月28日(火)
 01:30、執刀医が控え室を訪れ、
予定していた「胸部下行置換術」「冠動脈バイパス術」を終了し、最後の縫合に入ったと告げる。一時間ほどしたら呼ぶと言い残して去ったが、03:30まで音沙汰なし。いつの間にか寝入ってしまう。
 インターフォンで起こされたのが、05:00。

● I CUに入り、母と面会。と言ってもまだ麻酔から覚めてはいない。
 顔はむくみ、目蓋も唇もひっついた状態。
 すでに記入済みの説明書に沿って、容体を聞く。
(1) 動脈瘤の手術を予定どおり終了。術中出血量は約3000ml。輸血実施。
  心臓から脳への血管付近から横隔膜付近までの動脈を人工血管に置換。
   脊髄血管二本を再建(予定では三本)。
(2) 動脈瘤の壁にはかなり薄く弱くなっている部位が何カ所か認められ、
  破裂の危険が差し迫っていたと判断できる。
(3) 全身内臓回復を見守る段階にはいる。
   血圧の数値の割には尿の出が悪い。状況によっては透析を試みる。
(4) 神経系合併症について、今後の経過をみて行く。
   すべての縫合終了後しばらくして、脊髄の電気活動(MEPモニター)が
  低下しており、対麻痺(下半身麻痺)の発生が危惧される。

 退出の際、「先生、午後は何時ごろお見えですか?」と尋ねられる。

●父と妻が訪院。
 いきなり、脊髄ドルナージ術実施のための同意書に、署名捺印を求められる。
 16:45。術後の説明書に基づく説明。

(1) 術後対麻痺の疑いが濃厚と判断し、脳神経外科医により
 脊髄ドレナージ術を実施。
  脳脊髄液がたまり、圧力が高まっていると想像できる。液を吸い出すことで、むくみを軽減させ、血流状態を改善させるねらいで実施。
(2) 麻酔からの覚醒が十分でないので、脳卒中を起こしている疑いがある。
  だが、MRI を使わないと診断できない。体に管がいっぱい付いているいまは、まだ撮影できない。
(3) 目を開いて、手を動かしてはいるが、握り返す反応はない。自覚的な活動かどうかは不明。
(4) 尿の出は改善され、透析の必要はなくなった。

 「父の言動に動揺・混乱がみられる」とは、妻の言。

● 術前に説明を受けた「術後の合併症」が、ほとんど発生している。
 長時間手術の老体への影響を医師から説明され、看護学校の教官から説明を聞かされても、具体的なイメージを描けなかった。
  オペ室に送り出したあと、病棟師長から「よく手術を決断しましたねぇ。どちらを選ぶのか、注目してました」と言われた。それを聞いて、大変なとても重大な選択だったのだと知る。
 医師の自信に満ちた態度での説明、本人の意思の尊重ということで手術を選択したが、拙速に過ぎたのだろうか? 看護師の立場での説明を聞いていれば、別の選択をしたかも知れない。

  いまは、下半身麻痺(車椅子、排泄介助)であってもイイ。言葉を発し、自力で食事ができる状態にまで回復できれば、それでイイと思う。
  とりあえずは、一言二言でイイから、意思の疎通ができることを願う。
  早く麻酔から覚めてほしい。



■ 6月29日(水)
 昨日の悲観的状況からは、だいぶん改善されてきている。
(1)臓器
 心臓・脈拍、安定
 腎臓 尿量は十分で回復傾向にある。
 肝臓 異常なし
 肺   酸素をとりいれる力は回復。自発呼吸のための体力回復を待っている。手術での作業領域を確保するために、左肺の空気を抜いたことで、呼吸機能がまだ回復していない。
(2)神経系
 呼びかけに応える。
 麻酔からの覚醒が遅かったために脳卒中を疑ったが、半身の麻痺がなく、
脳の明らかな障害は考えにくい状況にある。全身の管がとれ次第速やかに
CT検査を実施したい。
(3)脊髄麻痺
 脳脊髄液ドレナージ治療により、わずかながら脚の動きが認められる。
どこまで回復できるか、経過を観察。

 父もきょうは医師とまともに対応する。

 <母の大動脈瘤>

 この写真は、心臓から下方に向かう母の大動脈。
 通常は直径3cmだが、母のそれは6cmに達していた。6cmに達すると破裂の可能性が飛躍的に高くなるということで、人工血管に取り替える手術を敢行。
 手術は、左手を上に上げた状態で肋骨をはずし、左の肺をしぼませる。そうすると心臓と大動脈が姿を現す。中央部の黒いひもで引っ張られているのが大動脈。血管壁面にほくろのような黒いイボがみられる。ここが弾けることから、破裂がはじまるそうな。
 M医師は「いつ破裂してもおかしくない状態だった」と言う。
 心臓冠動脈バイパス手術を終え、人工心肺装置をつなぎ、瘤の両端を遮断したとき「これで破裂の心配はなくなったんで、ホッとしました」と語った。




■ 7月4日(月)
 手術直後には、予想された合併症がすべて出るような兆候が見られ、あわてたが、徐々に回復してきている。

(1)臓器
 肺   人工呼吸器をはずして(7/1午後)以後、不安定なときもあり、
    薬物で対応してきたが、肺のしぼむ兆候が見られなくなった。
 血圧  安定 多少高めに設定
 脈拍  発作性(一過性)心房細動があるが、薬で治療
 腎機能 峠を越える クレアチュン=1.4
 肝機能 正常
(2)神経系 脊髄麻痺 両足とも動きあり 膝立可能 感覚ももどっている。
(3)口からの栄養摂取開始  かゆ、ゼリー類
(4)DIC傾向(血小板などの減少)
   腹部の動脈瘤の関連か? 人工血管との関連か? 経過をみて見極める
   出血傾向:7/2より再発 薬物治療で対応

という具合で、一進一退である。
 面会のたびに主治医(土日は当直医)が経過を説明し、それを書面にして交付してくれる。看護師も三交代で計器とにらめっこ。出血量などの測定。合間に話しかけ、行き届いた看護をしてくれている。



■ 7月5日(火)
 看護学校で、学科長に医師から交付された説明書を見せると、
 「もう峠を越えたと判断できるでしょう」との言葉。安心!
 高卒正看護師コースの講義で、病院の対応を説明する。テキスト掲載の薬害エイズ患者へのひどい扱いと対照的な話しで、興味をもつだろうと予測したが、期待した反応はなかった。動脈瘤の写真もまわしたが、コワイものをみるようにすぐに次の者に手渡してしまう学生もいた。准看護師の学生との意識の違いが鮮明となった。
 19:40に帰宅。隣の店で買い物をし、「口から栄養をとれるようになりました」と報告して家にはいる。母屋の電気がついていない。父はもう寝たのか? ずいぶん早いなぁ、疲れが出たのかな? と思う。
 わが家へはいると、「再手術中、すぐ病院に来い」との指示が待っていた。

 それでも夕飯を食べ、締め切りを過ぎて迷惑をかけている模試問題の作成を監修者に依頼し、翌日のMS大学に行けない場合の対策をして、出かける。
 叔父と2月にペースメーカーを付けた父も家に帰すため、妻と二人、泊まり込みの用意をする。手術の予定時間などは伝えられていない。

 叔父には返ってもらったが、父は「俺は残る」と言い張り、結局三人で待つことに。父と妻がソファに横たわったので、わたしの居場所は必然的に端っこ。力関係がわかるでしょ(>_<)。

●日付が変わるころ、ICUに呼び込まれ、主治医でない今回のK執刀医から、手術内容の説明を受ける。主治医は別の患者を執刀していたためだという。

(1) 胸部からの出血がひどい。ドレーンを通じて排出されるほかに、血腫が認められる。それが肺を圧迫してしぼんだ状態になっている。心臓の発作性細動もそれが原因の一つとも考えられるので、血腫を取り除くことを第一の目的とした手術を行った。血腫は70c。
(2) 血圧を上げてみたが、ここから漏れているという箇所はみつからなかった。
[こういうのを出血傾向というらしい。]
(3) 術後、肺は膨らんできている。早めに自発呼吸に切り替えたい。

 この説明の中で、脊髄のドレーンを昨日はずしたことを知る。脊髄液の排出量
が減少したことと、脊髄への感染の危険を避けるためであるという。

 いったん退出し、M主治医がもどったところでもう一度入室して話を聞く。
 「口からゼリーを摂取できるところまで回復したのに、振り出しに戻ってしまいましたが、またやり直しましょう。」 気持ちを新たにする。

 家を出るとき、長男に、「この手術自体は無事に終わると思う。しかし、それからの回復過程は予断を許さないと思う」とわかったようなことを言ったのだが、再手術が上手くいったことで、そんなことは忘れて、未明に帰宅。大学も休講せずに済んだ。



7月8日(金)
 父が持ち帰った説明書によれば、

(1) 自発呼吸が乱れがちなので、体力が回復するまで[いったん外した呼吸器]を再び装着した。
(2) 除細動が続くので、電気ショックの治療をする。
(3) 発熱があり、院内感染かも知れないので、尿などを検査している。
(4) 呼吸器装着が長引くと、患者の負担も大きいので、気管切開も考えられる。

 気管切開?!
 ある人に言わせれば、「気管切開をしたら寝たきりだし、声は出ないし、かろうじて生きてるだけの存在 ...」だそうな。

 最悪の事態を考えて、気管切開の本人の意思を確認できるのか。
 この期に及んで、さらに体を傷つけるのは忍びない。自発呼吸を取りもど
してもらいたいと思う。
 術前に「まだ頑張らなければいけないの」と母が語ったことがある。家族から
すれば、いまが頑張り時だと思う。



■ 7月13日(水)
 きょうも畑の草取りに専念するから通院は休むと語っていた父も、主治医から「気管切開について、お話ししたい」との連絡があり、行く気になった。
 畑仕事はご近所の助けを得て、午前中に終わった。
 父曰く、「ペースメーカーを付けて戻ってきたときには、ここまで回復するとは、とても思えなかった」。
 母からも、こういう言葉を聞きたいものだ。

 口から呼吸器ホースを挿入している母は、苦痛を和らげるために鎮痛剤を投与されているため、眠った状態。声をかけても反応なし。耳を引っ張っても、手を握っても、足をさすっても反応なし。
 「お父さんは、洋服をキチンと着ているかい」とかすれる声で聞いたのはいつだったか?
 「もう家へ帰りたい。このまま連れて帰って」と父に言ったのは7月5日、再手術の日。この日以降、意思の疎通も出来ていない。

 ICUではいつものように椅子を用意される。月曜日とは異なり、手術を終えた患者が続々と運ばれてくる。月曜の胸部大動脈瘤の患者はきょう、一般病棟へ移ったそうだ。

 母の体からは、尿道管以外の管が外されている。点滴の三方活栓の接続も単純になった。
 主治医がやってきて、説明書に沿った説明を受ける。そして、気管切開となる。

 (1) 体力、呼吸筋力低下のため、自立呼吸に戻すことが出来ない。
 僧坊弁膜症による血液の逆流も、呼吸に負担をかけている可能性がある。
 長期の呼吸管理に備えて、気管切開をしたい。
 チューブを外せば声が戻ることはわかっているので、悲壮感はないのだが…。「気管切開によって、鎮痛剤を使わないで済むようになり、リハビリに進むことが出来る」との見通しも述べられる。
 切開するならいつかと問うと、「すぐやる」という。出血傾向が[小康状態の]「いまだからこそ出来る」とも。
 (2) 切開手術の際、「麻酔が深くなるので、心房細動の治療として、電気ショックをかける」。

 しばらく沈黙。父が「署名はしなくていいの?」と沈黙を破る。
 「えっ、よろしいんですか」とM医師。応諾が早いのが以外だったのだろう。
 父ときたら、せっかちというか、こらえしょうがないというか、なにも考えていないというか。「どうせやらなきゃならないなら、早い方がよい」というところだろう。

 承諾書のサインが終わるか終わらないかのうちに、無影灯が運ばれてきた。予定は約一時間ということで、控え室へ。空腹だというので、食堂へ。「控え室には他家族もいて落ち着かないから、ここでゆっくりしよう」と言っても、「なにかあるといけないから行く」と言い張り、せかせかと戻る。
 座ってほどなく、主治医がやって来て「無事終わりました。不整脈もなくなりました」と。
 きょうは父の勘がさえる日だ。

 処置がすべて終わって、再び I CUへ。ポータブルのX線写真撮影機がもち込まれ、ベッドに寝たままで撮影。写真は、明日見ることができるのだろう。
 あとをナースに託して、帰宅。

 明日は、麻酔が覚めて、意思の疎通が出来るだろうか?
 松本の河野さんのように、体を触り、声をかけたら、反応があるのだろうか?



■ 7月15日(土)
 気管切開して二日が経過。

●意識が戻った。
 会ったら一番、「声が出ない! どうしてくれるんだ!!」と鬼の形相でつかみかかられるかも知れないと覚悟していたが…。ハズレ!!
 「来たよ。わかるかい?」「痛い?」「どこが? 胸が?」との問にうなずく。
 再手術後の一週間の経過を話してやろうとしたが、聞いてはいない様子。すぐにあきらめる。

(1) 最大の懸案は、自立呼吸の回復。
 一分間に6回の補助を呼吸器から受けている。
 酸素の摂取量は十分なので肺は機能している。呼吸筋が十分に回復していないらしい。流動食に含まれるタンパク質がどこかで消費されてしまい、十分には接種されていないそうだ。それは血液中のタンパク質の量から判断できるそうだ。
(2) 不整脈が頻発している。
 電気ショックを頻繁に行うのはよくないので、不整脈を常態として薬の処方を工夫するとのこと。
(3) 出血傾向もぶり返してきた。
 血小板の数値も下がっている。そのせいで、切開した箇所からの出血がきょうはひどかった。腹部に新たな大動脈瘤ができ、そこで血小板が消費されていると、推測できるそうだ。

●麻酔で眠っているときには、額の汗もうっすらであった。しかし昨日からは麻酔もなく、意識がある。そうなると額の汗がスゴイ! そして熱い!! でも体温は38℃未満。
 昨日、母の額をぬぐっていたら、担当のナースが冷たいタオルを用意してきた。氷水も用意され、頻繁に取り替えてくれた。
 ある医療従事者から、額の汗と頬の汗を比べてごらんと言われて、実践したのだった。その仕草にナースが反応してくれたのだろう。きょうは、「冷え冷え」のようなものをタオルにくるんで乗せてあった。頭は上と下とで冷やすのが基本だそうだ。
 この方のアドバイスで、父も足をさすったり、手を握ったりしている。

●M医師が「患者の眉間のしわが苦痛を表しているようで、気になる。なんとか苦痛を和らげたい」と言った。よく観察しているものだ。そして言った。「普段はどうですか?」と。来ましたねぇ。
 しかし、わたしは今回の入院で、母の顔をはじめてマジマジとみているので、応えられず。父は見えず。
 帰宅して妻に聞くと期待どおり、「顔がむくんでいるときはしわはなかったけど、むくみがとれてからは出ている」と。長男は「おばあちゃんは、おじいちゃんと言い合いしているから、いつもしわがあったよ」と。(苦笑)

● I CUというと、キャップに割烹着、短時間の面会というイメージがある。
 しかし、上記三点の規制はない。必ず椅子が出てくる。座っても顔が見やすいようにと、ベッドの高さも調整してくれる。
 いろいろ話しかけてくれて、こちらの気分をほぐしてくれるナースが二人いる。父の様子をみて「元気がないんじゃない? 畑仕事、無理しちゃダメだよ」などと言ってくれる。父も上機嫌である。
 静謐がモットーであろうICUでの高笑いは、ちょっと気が引ける。



■ 7月17日(日)  一難去らずにまた一難
 切開した気管を塞いだ。そして、口からのチューブ注入に戻した。
 鎮静剤で眠らせるので、意識のない状態が続くことになる。
 「筆談」の試みは先送りとなった。

 術前から血栓の出来るのを予防するためワーファリンを処方されていた母には、凝固異常による出血がみられた。いまはそれが治療の足を引っ張っている。
 昨深夜、気管切開部の出血がチューブを伝わって先端部にこびり付き、肺に空気が入りにくい状態(窒息状態)になったという。そのために、口からのチューブに入れ替えたのだという。
 肺内部の血液の凝固が、肺炎を引き起こす可能性もあるという。

 このまま、体力を消耗していってしまうのだろうかと、不安になる。
 しかし妻によれば、二年前、肺炎寸前で病院に担ぎ込んだときよりも顔色、肌の艶はよいそうな。「甦り」を期待するしかない。

 父の姉も、母の兄も入院中。



■ 7月18日(月)  次の打つ手 止血術
 呼吸器のパイプを口から挿入している。
 気管切開前は口の右側に寄せていたが、今回は左側に。

(1) 出血傾向は続いている。凍結血漿や治療剤を投与して回復を待つという。
 切開部の出血も止まらない。あす、電気メスを使って止血手術を行う。その後、切開部からチューブを再挿入する。
 そうして、麻酔薬の使用をやめ、自立呼吸の回復を待つ。当面の目標だ。
(2) 血液中のタンパク質の量が増えている。タンパク質は細菌との戦い、筋肉増強などあらゆる局面での基本だという。その値が上昇しているのは、よい兆しだ。
(3) 体力の回復が芳しくないので、細菌感染への注意も不可欠。
 痰や尿の検査では陰性と出ている。
 I CUの衛生管理が不十分に思え、少なからず不安がある。



■ 7月19日(火)  これで打てる手はすべて…
 きょうは第一看護学科の前期最後の講義。
 例年、医療事故の事例を使った模擬裁判を実施している。
 法廷ドラマ『都会の森』のVTRをみせて、法廷での検察官−弁護人の応酬を通じて、事実を確定するための営みを理解させようとした。
 今年度の学生は、模擬裁判を選ぶだろうか、それともむずかしそうだから「やらない」をえらぶだろうか?

 学科長が在校していたので、母の容体についてレクチャーを受ける。
 検査データを読み解いて、母の容体を把握してしまう。出血傾向が最大の懸案だと。
 それと、ICUにもプライマリーナースがいるはずだから、看護計画を聞き、家族が出来ることを積極的にやった方がよいとのアドバイスも。

● 14:00から、気管開口部の止血手術が行われる。約一時間で終了。
 出血傾向を示す指標は、常人で「1」のところ、母は「100」。前日は「200」だったので回復基調にあるとも判断できる。明日「50」になれば良いのだがと、M医師。
 術後の説明は、次のとおり。

(1) 出血点が一カ所みつかり、その部分と全周囲を電気メスでくまなく止血した。
(2) 気管内部を気管支鏡で観察し、出血点がないことを確認。
 そして、「これで、打てる手はすべて打ちました」とも。
 そう言われると、また出血が起こったら「つぎはどうなるのだろう」と不安になる。
 しかし、妻が「あの医師はいろいろとアイディアをもっているようだから、また対応策を考えてくれるでしょう」という。期待しよう。

 チューブは口から抜かれ、切開した気管から挿入されていた。鼻から胃へのチューブも、左の穴から右へと移され、口径も細くなっていた。昨日、もどしたので、流動食は見合わせているとのこと。便は数日前に軟らかいのが少量排泄されたそうな。

 明日の面会時には、意識が回復していることだろう。
 どんな表情をしているだろう?



■ 7月20日(水)  まだ麻酔から覚めず
 麻酔から覚め、意思の疎通が出来るものと期待して出かけたが、まだ覚めず。それでも呼びかけると、声の方を向こうとする。目が開きそうで開かない。眉間のしわは健在だ。
○ バイ菌感染を心配して抗生剤を投与してきたが、黄疸を示す数値があらわれてきたので、中止することにしたそうな。

 ICUの師長が話しかけてきた。
 昨日、プライマリー・ナースのことを聞いたからかも知れない。白板をみると、「S元」と記されている。ストレッチャーを手術室へ押していったナースだ。
 看護計画の説明はなかったが、体をさすることなどの了解を得る。

 明日には覚めるだろうとの予測が語られたが、明日から3日間はY学院の夏期講習のため、見舞いは出来ない。明日は父がひとりで出向くだろう。
 ぎこちなく、呼びかけることだろう。

 きょうの担当師はHクン。先日、先輩たちからずいぶんといびられていたが、質問への対応ぶりからは、十分に信頼できる人材であると感じた。
 負けずにがんばれよ! Hクン!!



■ 7月25日(月)   にらみつけたり、笑ったり
 5日ぶりに母を見舞う。 I CUも4週目。
 麻酔から覚め、意識を取りもどした母に会うのは10日ぶり。
 顔を近づけ「かあさん、わかるかい?」と声をかけると、すると鋭い視線が帰ってきた。
 「面会にも来ないで!」と怒っているのか? 「オマエは誰だ!」と言っているのか?
 妻が前面に出て語りかけている間も、背後に退いたわたしにキツイ視線を送ってきた。

 医師の経過説明を聞き、帰るころには眠ってしまった。家族の顔を見て安心したからだと、解釈することにしよう。

(1) 三度の食事を流動食で摂っているが、おなかの張りを訴えるので、一度にたくさんの量を流し込むのではなく、常時少量ずつ流し込むやり方をとっているとのこと。
(2) 呼吸器の補助回数は2回。日中は回数を減らし、夜眠るときは増やしているとのこと。
(3) 出血傾向には、さらなる改善は見られず。

 常時食事中なので、右を下にして寝ている。辛いのか、足をよく動かす。だからベッドの中央にもどしても、すぐにはずれてしまう。
 H看護師が食事を止めて体位変換をしてくれる。なかなか大変な作業だった。

 きょうは、父の実姉が母と同じT病院に転院してきた。
 行きつけのN病院に入院していたが、すっかり容体が悪くなってしまったので、ペースメーカーを付けてもらったT病院へ移ってきたのです。
T病院の医師から連絡をして、治療内容を指示してもらい、容体が安定するのを待って、転院しました。従兄姉たちはよく交渉しました。

 父は転送の救急車に同乗し、「義理が果たせた」と語った。
 父が従兄姉と一緒に母を見舞うと、母は笑っていたそうな。少しはゆとりが出てきたのか? こんどは、わたしが伯母を見舞いましょう。

 母の実兄も、リハビリのため、T大病院からG病院へ転院。



■ 7月28日(木)
 先日、N病院からT病院へ転院した伯母が、MRSAに感染し、発症していることがわかる。
 きょう、母を見舞ったあと訪ねてみたが、個室に移されていた。
 部屋の前には手袋、マスク、消毒液が用意され、ドアを開けると割烹着も用意されていました。「退室の際は必ず手の消毒を」と強調されました。ものものしい警戒態勢だ。
 80代半ばの伯母は眠ったまま。強い抗生物質を投与すると肝臓を痛めるので、弱いものしか使えない。従姉は「母の運の強さを信じるだけ」と言う。
 母と一緒に退院できることを祈ります。

 みなさん、N病院には入院しないように!
 地元の人も、「あそこにはいると生きて出られない」と言っていますよ!!



■ 7月28日(木)  呼吸器の使用を停止
 依然としてICUにいる母だが、きょうは、人工呼吸器のスイッチがOFFになっていた。それでも、それほど苦しそうな様子もみせずに、呼吸をしていた。就寝時にはスイッチを入れ、多少の補助をするそうだ。
 手術室へはいる直前のM医師が、自発呼吸が安定すれば、24時間監視の必要性がなくなり、ここから出ることが出来ますと言い残した。

 きょうは、にらみつけられなかったけれど、笑いかけられもしなかった。普段からそうだもんな!
 つぎには、筆談用のボードをもって行きましょうかね。

○ 出血傾向は続いているものの、血小板は目標の10万に近い9万を記録するようになり、血中タンパクも好調。黄疸の気配も消えたそうだ。
 しかし、感染・発症を知らないで搬送中の伯母に付き添い、父たちはその後に母に面会している。母への感染も気になる。



■ 8月7日(日)
 静岡遠征で一週間留守をし、久しぶりに病院に行く。

 わずかのステイで辞す積もりだったが、ベッド横に車椅子がある。これに乗ったのか、これから乗るのか?
 若いA野当直医が説明にやって来ると、看護師たちが、彼の了解を得て、力も借りて、母を車椅子に乗せた。数種類の点滴薬のうちから、どうしてもはずせない一種類を帯同して、最初の手術以来7週目にしてようやく I CUの外に出ることができた。

 同じフロアのナースステーションをまわる予定だったが、医師のとっさの判断で最上階へ変更。しかし山並みが連なる遠方を眺めるゆとりはなく、首を垂れてしまった。食堂の券売機をみた格好になってしまったが。日光がまぶしかったのだろう。

 I CUを出たあとに滞在する病棟のNステーションを訪れる。
 休憩中のナースが全員寄ってきた。
 「よく回復しましたね。早く戻ってきてね」と口々に言う。
 わたしからは見えなかったが、母は涙をこぼしたらしい。
 歓迎してもらって、嬉しかったのだと思う。

 15分程度の院内散歩だった。
 発声器を使って、「足が痛い」「手が痛い」との声も聞くことが出来た。6週間も寝たままでいると、椅子に座った姿勢で「首を支える」ことも出来ない。「腰から前に」倒れてしまう。筋力が衰えてしまっているのだ。再手術後、自発呼吸が出来ない状態から、よくぞ、ここまで回復したと思うものの、リハビリの大変さを思う。

 A医師は、家族からみると無理をさせて可哀想と思えるかも知れないが、リハビリとして毎日やっていくのが、回復への早道ですと解説した。
 さらに「一般病棟にいたときはにこやかだったのに、いまは表情が険しい。これはストレスのせいでしょう。だから少しでも早く、一般病棟に帰してあげたい。24時間監視態勢から解放されるだけで、ずいぶんと軽減されるはずです」とも。

 先ほど帰宅した父が言うことには、火曜日、一般病棟にもどることになったという。



■ 8月9日(火)  ついに一般病棟へ
 母は、ICUでの生活が7週目にはいる8月9日、ついに一般病棟へ移った。
 今週に入り、日・月と I CUにいながら車椅子散歩をしていた。本来なら、もっとICUにいた方がよいらしいが、「24時間監視されている ICUではストレスも限界だろうから、気分転換を優先して」移動させたそうな。

 訪問すると、すでに一般病棟のHCUに移されており、ちょうど理学療法士がやって来て、リハビリとなった。自称「地獄の般若」クンの号令に従いつつも、「痛い、痛い」と声を出し、顔をしかめる。

 彼の考えでは、8月中に自力で座れるようになり、伝い歩きでも歩けるようになって退院し、あとは老人介護施設でのリハビリがよいという。
 いまの病院では、ゆっくりとした治療は難しいらしい。



■ 8月20日(土)
 母は、シッカリと声が出せるようになっていた。
 しかし、その分、愚痴を露骨に聞かされることになった。慣れている父は、サッサと病室を出てしまうのだが、わたしはそれが出来なかった。
 家族がいる間は、拘束は解かれているが、「帰る」というとしばられる。それがイヤなのだろう。
 「お父さんはサッと来て、サッと帰ってしまって、話も出来ない。昼食時に来てほしい」と、母から注文がついた。

 ナース・コールを押せるようになった。気がつくと押していた。
 「どうしましたか?」の問いかけにも応えない。応えないと比較的早く来てくれるのだそうだ。
 やって来たナースに「『すぐ行きます』と言っても、すぐには来てくれない」と苦情を言った。
 よくできたナースで、「遅いと感じさせてしまってるんですね。ゴメンね」と
言ってくれた。Oさん、ありがとう!

 24時間監視のICUではくつろげないだろうからという配慮でHCUにいるのだが、要望をすぐに容れてもらえないことに不満がつのるのだから、皮肉なものだ。
 民営化だとか、規制緩和だとかで、経済合理性=採算性が求められ、必要な人手が切り詰められている。赤字でも租税を投入すべき分野があるはず。独立行政法人、国立大学法人…、これからの日本、どうなるのだろう?



■ 8月23日(火)  千客万来
 夕方の母の病室。
 いつもなら14:00ころに行くのに、きょうは16:00。
 「なんでこんなに遅いの?」の言葉に迎えられる。
 父が「仕事を終えてから来たんだよ」と答えると、「なんの仕事なの?」と食い下がったが、黙っていたら深追いはしてこなかった。

 経口食がすすまないので、日中の12時間は流動食を摂取している。そのため、ベッドを多少起こしている。だから、体がすぐにずり落ちる。しょっちゅう、ナースを呼ぶのだろう。ナースコールを握りしめている。
 家族が行くと体位変換は家族の仕事。体を少し浮かせてやると、みずからかけ声をかけ、足を踏ん張り、上方へズリあげることが出来た。

 そうこうしていると、腹部大動脈瘤以来五年間お付き合いしてきたH医師が現れた。休暇なのに呼び出されて出勤。病棟にやってきたので立ち寄ってくださったという。
 そこへICUのOナースも出現。「お母さんに会いたくて、用事をつくって来たんだよ」の声に「気にかけてくれて、ありがとうございます」と正気の返答。
 二人の前で“踏ん張ってズリあげ”を実演してみせる。
 「病人よりもわたしの体を心配してくれる」O川ナースに会えて、父もご満悦。

 母は、帰ると言ってもぐずりもせず。気分良く、帰宅できた。



■ 8月25日(木)
 病院に行った父から連絡が来た。
 「『リハビリ担当士とリハビリについてよく相談するように』と主治医から言われた。わたしが聞いても仕様がないから、オマエ、来い」と。
 ついにこういうとき(父の衰え)が来たんだなあと、感慨深し。

 久しぶりの説明用紙には、次のように記されている。
(1) 弁膜症による心不全が継続している。
  強心剤を減らすと尿量が減る。強心剤点滴をやめられない。
(2) 経口食がすすまない。
  流動食、点滴栄養をやめたいので、好物の差し入れなどをしてほしい。
(3) リハビリの意欲が乏しい。
  担当者と相談して具体的なことを決めてほしい。
(4) 検査データから
  腎機能:やや悪化、貧血傾向:少々、DIC傾向:ぶり返し
  尿から菌を検出→膀胱炎

 父は14:00にリハビリ士が説明に来るものと合点していたが、ナースに言われてとりあえずやってきたであろう彼は怪訝な表情をしていた。
 わたしが「主治医からリハビリ士と相談するように言われたので、話を聞きたい」と伝えると、納得して話してくれた。彼によれば、

 最近、リハビリの意欲がない。うつ傾向にある。心不全の治療に目途が立ったなら、誉田にあるリハビリセンターに移って、同じような境遇の人たちと一緒にリハビリに励んだ方がよいと考えて、昨日主治医に提案したとのこと。
 老人施設だと、リハビリの効果は薄い。このままだと寝たきりの生活になって
しまうとも。

 なにせ、ベッド横で話しているのだから、母にはすべて聞こえている。
すべてを聞いていた母は、

 「リハビリセンターというのは、近所のSサンが入ったところでしょ。わたしはそんなところに行きたくない。このまま、一刻も早く、静かな状態にさせてほしい。リハビリしたって、歩けるようになるはずがないよ」と言った。

 リハビリの意欲をかき立たせるのは、結局は家族の仕事なのだろう。子どものケアと同じだ。母は術前に「わたしはこの上、まだ頑張らなければならないの」と漏らした。
 わたしは「ガンバレ」という言葉は遣わないでいる。それが現在を否定する意味をもつことを知ってからは。いまの母に、ガンバレは大きな負担となることだろう。
 ガンバレを使わないで、励ますやり方とは????????????



■ 8月26日(土)
 昨日の記述に登場するSさんのご亭主が亡くなった。
 一昨日あたりから具合が悪く、明日は病院へ行こうと言っていた矢先の出来事だという。Sサン夫婦は、わたしの両親が三十代にはじめて仲人をした方。両親にとっても思うところが多いことだろう。

 そのために、病院へ行くのは遅くなった。着いたのが16:30。
 母は車椅子でナースStに居た。顔をしかめて、辛そうに。引き取って病室に戻る。
 師長が付いてきて、まだ座って5分くらいなので、もう少し座らせておくようにと言われる。母はすぐに「寝たい」と言い出したが、我慢をさせる。しかし「気持ちが悪い」と言い出す。妻が「冷や汗」を確認して、コールを押す。
 Oナースがやってきて、ひとりでベッドに移す。点滴スタンドの移動を手伝ったが、ラインはよく伸びる。それでも針が抜けない。うまく仕組んである。

 昨日食べかけたプリンを食べたいと言う。
 昨日4さじ、きょうも4さじ。プリン一カップの半分にも達していない。
 18:00夕食。お粥4さじ、白身肴一箸。鰹節をまぶすのにも飽きたのか。
自家製の梅干しを持参することにする。

 主治医のM医師が現れた。食事、体力、病状、リハビリの意欲は、みんな一緒に進んで行くと考えている。意欲をかき立てることは、なんでもやりましょう。

 昨日、リハビリ士と話したことを母に聞こえないところで確認する。
 M医師によれば「リハビリ施設への転院など、まだそんな段階ではない。点滴強心剤を使っているうちは転退院はできない。わたしの方針は、あくまでも歩いて退院していただくことです」と。
 リハビリ士の話では、2〜3週後にも転院というニュアンスだったが、彼は病状を正確には理解していないで、ものを言っていることがわかる。

 外が暗くなってくると、「もう帰りなさい」という言葉も出た。
 帰路、妻が言った。
 「わたしの立場では、子どもが来てくれることが一番嬉しい。旦那よりも子どもだよ。子どもが来て、優しい言葉をかけてくれたら、それだけでウルウルだよ」と。
 夫って、なに? わたしの立場だったら、息子どもの奥さんの親切が嬉しいかな?

 「夜中におなかが空いてたまらない」との母の訴えを聞いて、流動食を夜半に移す試みをしてくれた。母の希望を容れて壁にカレンダーを掛けてくれた。
 孫と甥の子どもたちとが一緒に移っている写真と時計を持参した。
 さあ、どうなる?



■ 8月31日(水)
 きょうは叔母夫婦と病院へ。昼食に合わせて行く。
 母はお粥以外はほとんど食べない。野菜などはペースト状に仕上げて添えられているのだが、一口で「美味しくない」と拒否。お粥には味が付いていないので、梅干しや鰹節でアクセントを付ける。
 きょうは、昆布や蕗のリクエストが出た。
 でもね、その言い方が素直ではない。正直に欲しいといえばよいものを「誰かがそういっている」というように世間体を表に出してくる。思考様式は、改まっていない。

 14:00、リハビリの時間。
 車椅子に乗る。「止まっているより動く方がよい」と言ったのはこの時だ。
 別の階にいる伯母(父の姉)を訪ねることにする。乗ってほどなくして、背中が痛いと言い出す。背中には大きな傷が付いている。その手術痕が痛いのだ。体を支えるのも辛い、傷も痛いで、スゴイ形相をしている。出会った人はびっくりして道を譲る。小さな子どもを連れた母親は、子どもの目を隠すように抱き寄せた。これにはマイッタ。
 結局、伯母には会えなかった。退院後に入所する養護施設の面接を受けていたのだった。介護度は2〜3だという。会っていたら、どんな会話になったのだろう。

 みなで帰ろうとしたら、わたしには残れとの意思表示があった。
 伯母のところに従姉がいたので、送ってもらう段取りを付けて、わたしは残った。だが、何かを話すでもない。「体の向きを変えて」「背中をさすって」のリクエストに応えるだけ。
 背中をさするとき、手すりを握って、背中をあらわにすることが出来た。
ほめると「一日に1回はできる」んだという。腕に力が付いている証拠だ。遅々としたスピードではあるが、力が戻っている証だ。
 どれくらい経っただろうか、「もうイイよ」と言った。ちょうど従姉がやって来て、スムーズに気分良く帰ってくることが出来た。

 部屋の壁には、カレンダーが掛かっている。
 きょうは何日と気にするようになったので、主治医の指示でS師長が用意してくれたそうだ。鋲を使えないので、セロテープで止めてある。よく落ちるのだが、誰かが止め直してくれる。

 時刻を聞いても「まだ夜中よ」としか答えてくれないので、「時計が欲しい」と言い、しばらく止まっていた時計を持参する。新しい電池を入れたら、動いている。
 団扇も欲しいというので、もっていく。「つくばイクスプレス開業」のもの。
 師長がめざとくみつけて「行ってきたのか」と聞く。友人が行ってきたと応え、友人の全国軌道全線乗車の話をする。そんな趣味もあるのかと感じ入っていた。

 母のいるHCUに、I CUから患者が移動してきた。
 付いてきたのは、何度も母を担当した顔見知りのナース。
 試すつもりで黙っていたら、なんの言葉もなく、いつの間にか帰って行った。わざわざ会いに来るナースもいるのにィ…。 (06.02.14追記)



■ 9月6日(火)
 看護学校で。講義を終え講師室に戻ると、学科長が待っていて、「お母さんの容体は如何ですか?」
 HCUに移ったことを報告すると、賀意を述べられる。病院におけるナースの看護体制について、レクチャーを受ける。



■ 9月11日(日)
 今日は長男が同行。

 ベッドに直行するやいなや、長男は母の手をさすり、近況を語りはじめた。
その様子をみてわたしと妻は、「われわれは帰っても大丈夫だね」とうなずき合った。

 郡上踊りの手伝いのこと、新しい職場のことを。
 今回は葉書の宛名書き、電話かけと選挙運動に参加したから、選挙がみじかにかんじられたよと言っていた。
 わたしには、こんど手伝うときには、選挙カーに乗ってマイクを握りしめたいと言った。電話かけはストレスが溜まるのだろう。しかし、カラオケじゃぁないんだぞ!

 今日の母は元気がなかった。長男曰く「声というより、空気が漏れている感じだった」。回復の思わしくない患者を見舞った後は「魂をすいとられた気分になる」と語った人がいるが、長男もそんな状態だったと思われる。

* この日は、あの恐ろしい結果が出た総選挙の投票日。母も投票した。
 告示後、病院職員が投票手続にやって来た。どうしても自筆でなければならないという。その日はペンを持つ力もなく、あきらめた。「まだ日があるから、もう少し待ってみましょう」とS師長。
 それから数日後、自力で申込書に記入し、衆議院議員と国民審査に投票したのだそうな。だれに投票したのかは、大いに興味があるけど、不明。



■ 9月18日(日)
 はじめて敬老会に出席した。

 会場校の職員室を訪ね、校歌の楽譜を所望した。
 楽譜をコピーしてくれるかと思ったら、すでに印刷されており、引出から取り出してくれた。わたしが小学2年の時にできた校歌だ。
 これで父母が出会った学校、退職時の学校の校歌楽譜がそろった。母の分はこれでよし。父の分はあと2校。
 これを何に使うかは、ヒ ミ ツ !



■ 三度ほど、爪を切った。
 一度目は、Nステーションで爪切りを借りた。二度目は家から持参した。
 三度目。「こんどくるときには付けを切って」とリクエストされた。わたしの顔を見ると、「爪」と催促。すっかり忘れていて持参しなかったので、Nステへ借りに走った。
 祖母の爪を切る際、無理をしたら爪が剥がれたことがあった。だから慎重にすすめたが、そこまで脆くなってはいなかった。

■ ペースメーカーを装着する父には、市からタクシー券が支給されている。
 これを利用すると、メーター運賃の6割程度で済むので、よく利用した。U社のT田さんは連絡会Yさんのご近所。N社のY崎さんとは退職教員の近況をめぐって、話が尽きなかった。

■ 昼食時に着き、食べさせて、リハビリに付き合うのが日課だった。
 わたしの仕事に切りがつかず、昼食後に着いたことがあった。
 母は眠っていた。黙ってそばにいると、気配を感じたのか、目を開いた。
    「Q夫、遅かったじゃない」
    「待ってた?」
    だまって、うなずく
    「ゴメンね」
 手術後、心が通った(とわたしが感じた)やりとりは、これだけだったかなぁ。

■ リハビリが終わると、あとは帰るだけ。
 ベッド・テーブルの上を片付け、西側の小さなブラインドと北側の大きなブラインドを降ろす。この時の太陽の傾き加減で、季節の移り変わりを感じた。



■ 10月2日(日)
 今週からは週6日が仕事。日曜日は病院へも行くため、一日をグダーッと過ごす日がなくなる。
 きょうも病院へ行ったが、相変わらずだった。しかし、吸い飲みを自身でもって水を飲めるようになっていた。次はお箸だ!

      <10月2日午後、院内散歩。ここまで回復していたのです>

 体に付いている管は、I HVと強心剤(プレドバ600)。
 人工血管置換術は成功しても、心臓の弁膜症には手を付けていないので、血液の逆流があり、不整脈が頻発していた。そのため、強心剤は欠かせなかった。
 「強心剤が経口薬で済むようになれば、退院できる。歩いて退院してもらいます」。主治医はつねづね、こう言っていた。
 妻が抑えているのは I HV。点字ブロックを通過してこの袋が揺れると、点滴器のアラームが鳴る。この日は風があったので、振幅しないよう、用心した。休日・時間外用玄関にて。

 きょうは家の庭の写真と甘納豆、野菜ジュースを持参した。
 母のリクエストで首のマッサージをしているうちに、わたしが眠ってしまった。母の震える手で起こされ、「もう帰れ」と言われてしまった。

 行くたんびに、担当看護婦が異なる。primary nurse のシステムがないらしい。入院から退院まで、学校でいうところの担任の役割を担う nurse のことだ。高水準の看護師がそろわないと実施できないんだそうだ。導入している県癌センターより遅れていることになるのだが、癌センターに入院したことのある叔父に言わせれば、循環器の看護師の方が人間的に親しみが持てるということだ。

 時に不満も言うけれど、あっシーをしてくれる妻に感謝。
 バス、列車、バスを乗り継いで、毎日見舞う79歳の父に脱帽。



■ 10月 3日(月)
 鍼灸院で左肩の治療を受け、爽快な気分で帰宅すると、留守中の騒動を聞かされる。

 車椅子からベッドに移る際に立ちくらみが起こり、それ以降、血圧が不安定になってしまった。父の代わりに見舞った叔父夫婦に母が「帰らないでほしい」と懇願したという。
 困った叔父から連絡を受け、振り替え休日だった妻と父が駆けつける。「誰か泊まってほしい」と言ったという。母は「泊りはできない」との父の説得を渋々受け容れたそうな。
 血圧も不安定で、リハビリはしばらく中止になったそうな。

 ナニがあったのだろう? いまごろはどうしているのだろう??

*「あなたがあのとき泊まってやればよかった」と妻に言われる。



■ 10月 4日(火)
 今朝早く、病院から電話があった。
 尿の出が悪く、人工透析しか手段がない。HCUにはその設備がないので、設備のある I CUに移したという。

 父が先行し、わたしはあとを追った。病室の母の荷物を父がかたづけることができるかが心配だったこと、来週月曜くらいまで見舞う機会がないのでいま顔を見ておきたかったことが理由。父はシッカリと片付けてあった。

 ちょうど主治医と出会い、病状の説明を受ける。
●月曜日のリハビリ中に、血圧が低下し、以来不安定な状態が続いている。
僧坊弁膜症は悪化していない。腎機能が低下しているので、人工透析で対応したい。透析中は血圧が不安定になるので、その前に血圧を安定させたい。強心剤を追加し、輸血も行う。それで血圧が安定したら、透析を行う。

 また舞い戻ってしまった。M医師は続ける。
●いまは腎機能を回復させることが最優先なので、リハビリは中止。
 「事態は振り出しに戻りました。一からやり直しです。容体は、要注意です」。

 ICUの母とは、言葉を交わすこともなかった。
 その眼は、「なるようにしかならないよ」と放心しているように見えた。


■ 10月 7日(金)
 父は、相変わらず病院通いを続けている。

 父がそばにいると、母はリクエストするらしい。
 「水がほしい」と。

 しかし、いまは摂取できないらしい。透析をしているからだろうか?
 「いまはダメなんだって」と説明し、言い聞かせるのが辛いらしい。

 「可哀想でみていられないから、すぐ帰ってきた。ICUの看護師さんはみな親切だから、あそこにいれば安心だよ。こんどばかりはダメかなぁ?」
 父が、弱気な言葉を口にした。



■ 10月 8日(土)
 
 静岡に着いたら、家族から連絡が来ていた。
 「ただちに帰れ」と。

 授業を休みにして、とんで帰る。病院へ直行。
 まだ息はあった。しかし意識はない。手を握っても握り返す力はない。

 主治医の説明。
 ていねいに、わかりやすく…。
 「事態がここまで来ると、あと一日か二日でしょう」

 呼吸補助の器具を付けての延命はしないことに決める。


10月 8日(土)23時19分24秒
 臓器の機能の悪化が予想より早い。

 これから、病院へ行く。


■ 10月 9日(日)06時12分6秒
 病院に着いたのが、日付が変わった0:30。

 ICUに飛び込んだときには、酸素マスクははずされ、冷たくなっていました。
 10月8日、23:51。父が看取りました。


■ 10月15日(土)02時03分22秒
 教員仲間と教え子が多数参列してくださって、母も家族も感激でした。

 病院のICUやHCUに行けば、いまでもそこに母が寝ているような気がします。
木曜日、入院費の支払いとスタッフへのあいさつのために、病院へ行きました。しかしそこは、そんな感傷に浸れる場ではありませんでした。看護師長と看護学校学科長の母存命中と変わらない対応が救いでした。

 母のちぎり絵を会場に並べました。
 棺に納めるのが母の希望でしたが、もらいたいとの希望が相次いだため、母の意向には背くけれど、希望者にもらってもらいました。
 参列してくれたのに、話はおろかあいさつも交わせなかった方を訪問しています。ある家では、玄関にちぎり絵が、額に入れて飾ってありました。
 棺に入れるよりはよかった。母をしのぶ手段となる方がよかったと思います。

 至らない点は多々あったと思うけれど、父が「100点満点だった」と満足していることが、わたしには救いである。
 その父、ホントウに肝心なところで、まさにクライマックスで、「なんだこいつは」と呆れることを言ったのです。のちのちのお楽しみに!


■ 10月18日(火)02時08分15秒
 多くの方から、疲れがドッと出るから気を付けるようにとアドバイスを受けながら、
ちょっとした油断で風邪をひいてしまいました。ノドが腫れているのでしょう。嚥下
がとても辛いのです。

 金曜日のST大学。午前の講義を終えたところで「あれ、もうノドが枯れたよ」と
感じる。しかしこれは風邪の兆候だとすぐに気づく。掛かり付けの内科医がだいぶん
前に死亡してから、わたしには掛かり付け医がいない。風邪・インフルエンザにはめ
ったにかからなかったし、おかしいなと思ったときには耳鼻科で薬をもらっていた。
 最近かかりだした鍼灸師に電話をしたら、風邪の治療もできるというので治療を
してもらい、漢方薬も処方してもらう。

 土曜日には悪化していたが、静岡で授業を済ませる。薬石効なくはわたしだ!!
 日曜日は布団で過ごしていたが、夕刻、母の教え子にしてわたしの同級生が弔問に
来てくれたので起き出す。大量の汗をかき、これで熱が下がるだろうと予測するも、
夜はかえって上昇し、入浴もできずに就寝。風呂に入らないのは何年ぶりか?

 肉親の死に際し、勤務先の学校はドライなものだ。
 Shなんて、講師担当の窓口に知らせておいたのに、教務セクションに伝わっても
いない。非常勤講師はしょせんはバイト君、そんなことに拘ってはいられないのだろう。
そういえば、「親が死んだのに、弔電一本よこせないところで仕事ができるか」とたんか
をやめたひとがいたなぁ。わたしにはそこまでの思い切りはないけれど、そのひとの気持
ちがいまならわかる。

 きょうはSd予備校。
 学園長や校舎、講師仲間から心遣いをいただいた。親を送った体験者からは、心にしみる
言葉をかけていただいた。また他人と話すことが癒しにつながるという。そんなに話している暇もないので、書くことで、そして読んでもらうことで、それに代えようと思う。

 長男が落ち着きをなくしている。
 不登校の一因として、曾祖母の死をカウントしている。祖母の死が神経症の激化に
つながらないことを願う。

 今夜は卵酒を飲んで、寝ます。
 あす朝は、どんなかな?


■ 10月18日(火)11時29分10秒
 あさ目覚めたら、わたしの心臓は動いていた。
 ノドの痛みは相変わらずだが、熱はない。

 父と墓参りに行く。葬儀後一週間は、毎朝の墓参がこの地の風習である。
わたしは三回しか出向かなかった。この時のお供えが、気となってあの世の墓へ
届くのだという。
 農作業を中断して「一緒にお参りさせてください」とやって来た方、車から
降りてあいさつしてくれた方、いろいろな方に出会えた。


10月21日(金)14時49分59秒
 先週金曜日からの風邪症状が続いています。
 だましだまし、仕事をしてきましたが、木曜日はついに午前中でギブアップ。
午後の授業をキャンセルして帰宅しました。
 夕刻、発熱が40℃に達したので、妻に促されて、西洋医学の病院へ行きました。
扁桃腺が腫れているのでその熱でしょうとのこと。抗生剤と解熱剤、うがい薬を
もらって帰宅。
 調子に乗って、「ご飯を食べさせてくれ」と訴えると、長男が応じてくれました。
スプーンで口に入れてもらい、少しだけ母の気分を味わいました。2〜3日入院し
てみてもよかったかなぁ。

 薬を飲んで寝て、04:00過ぎに目覚め。37.6℃、大事をとってST大学も休講に
しました。
 その連絡をして寝入って、目覚めたら14:00。
 太陽が出ているので、部屋中の窓を開けて、空気の入れ換えをしています。


■ 11月 1日(火)02時08分27秒
 母が逝って、はや三週間が過ぎた。

 母がこの世から忽然と消えた。しかし墓の中の骨壺に入っている。
母の骨はいったいなにものなのか?

 ある方から、「街で故人に似た人をみつけると、道端で泣いている
自分がいた」という体験談を聞いた。
 静岡往復の新幹線車内で、葬儀の際にご尽力いただいた方に手紙を
書いた。そんなときでないと時間がとれないこともある。
 いま気になっているのは、「母がどうやって手術を決心したのか」
ということ。息子たちの話を聞くようには対応していない。同じ屋根
の下にいただけで、肝心なときに寄り添えていなかった。母の孤独を
思って、涙がにじんだ。ガラガラの車内、誰にも気付かれてはいないはず。

 適度に雨が降るせいか、墓の生花はいまだ元気だ。講師仲間から送
られた花はまだつぼみをたくわえている。生け花の免許をもっていた
母に、花に囲まれた墓石は相応しい。

 祭壇の蓮型蝋燭が不自然な解け方をしたり、祭壇に焦げ跡ができていた。
 父が祭壇の前にたたずみ、蝋燭をともし、線香をあげ、母と対話を
していることがわかった。伴侶を亡くした父や、あわれ。
 母は父には別れの言葉を残していた。言葉は月並みだけれど、情感が
こもっている。視力の弱い父は自分では読めない。だから、わたしが
読んでやらなければならないのだが、読めないでいる。最後まで読み
通せる自信がないし、それを聞いた父がどうなるかが予測できないから。


11月8日から一ヶ月が経った。月命日というらしい。
 税務署に行って、相続について疑問をただしてきた。
 人間がひとりいなくなると、随分といろいろな手続きが必要なのだ!

 夜、訃報が入った。
 妻の父の兄が、風邪から肺炎を併発し、91歳で他界した。
 「父の兄弟はすべて亡くなった」と、妻が沈んでいた。



 10月3日のリハビリ中、血圧が不安定となる。
 尿がまったく出なくなったので、10月4日、ICUへ戻り、簡易透析機を装着する。
 10月8日、虚血性腸炎と診断され、主治医から「会わせたい人を呼んだ方がよい」と促される。ICUへの立ち入りが自由となり、親戚が駆けつける。わたしも静岡から呼び戻された。

■ 看護師長に抗議した長男

■ 遺体の帰宅

■ 通夜でのあいさつ

■ 告別式でのあいさつ

■ 意外なときに意外なことを口走る父

■ 病院に行けば、妻がそこにいるような…




■ お正月。母のもとに年賀状がたくさん届きました。
 先生方や教え子たち、知った名前がたくさんありました。
 わたしの名前で寒中見舞いを出しました。
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 寒中お見舞い申し上げます。
 このたびは、母照子に年賀状をくださり、ありがとうございました。
 正月早々恐縮ですが、母は2005年10月8日23時51分、父に看取られて息を引き取りました。77歳でした。

■膠原病の治療薬の影響で、数年来心臓付近の動脈瘤が肥大し、破裂の危険が高まってきました。座して破裂(=死)を待つよりも、生存率は低くても動脈を人工血管に取り替える手術を受けることを決断し、6月27日、20時間に及ぶ手術に耐えました。その後、下半身麻痺、血腫除去の再手術、左肺機能停止などの危機を乗り越えました。鼻もかけないほどに衰えましたが、吸い飲みを使って水を飲めるようになり、車椅子に乗って病院内を散歩するまでに回復しました。

■しかし10月3日、リハビリ中に立ちくらみを起こし、それ以後腎機能が停止しました。翌日から集中治療室で透析をはじめましたが、10月8日未明より、虚血性腸炎を起こし、意識のないままこの世を去りました。
 人工血管置換手術そのものは成功しましたが、高齢による全身のダメージが大きく、回復しきるだけの体力は残っていなかったのです。
 東京大空襲や度重なる入院を生き延びてきた強運の持ち主も、ついに力尽きました。
 しかし、鶴舞病院の医師・看護師からは良心的な治療を受け、わたしたちもできるかぎりの世話をしたつもりです。

■葬儀には、同世代の女性元教員やわたしの同級生が参列してくだ
さり、五井小学校・東海小学校の校歌を流して母を偲びました。

■母に対する生前のご厚情に感謝するとともに、年賀状のチェックにまで気が回らず、みなさまにお知らせできなかったことを深くお詫びいたします。
 末筆ながら、みなさまのご多幸をお祈りします。
    2006年1月8日
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 こういう原稿をつくっておけば、式でのあいさつも簡潔に済ませることができましたね。