町内会親睦旅行
        上高地・高山の旅

10月26日(日)

 パソコンの前で目が覚めた。時刻は04:40。
 「しまったぁ! 眠ってしまったぁ!!」

 今日は町内会親睦旅行の日。わたしは幹事。集合時刻は05:30。
 画面には締め切りを過ぎた未完成の原稿。旅の荷づくりはできていない。
 「さあ、どうしよう??」

 混乱する頭で、まず、担当者に断りのメールを打つ。言葉を尽くすことができず、不快な思いをしたことだろう。
 つぎに、旅のセット。着替えとひげ剃り・歯ブラシ、バス車内で寝やすい空気枕(「楽々」)など。ノートPCを入れたいところだが、旅先で使っていたらひんしゅくを買うだろうとあきらめる。それでも幹事として必要な書類をまとめてあったのが、せめてもの救い。

 朝食をとる暇もなく、妻の握り飯をもって、5分前に出発。
 徒歩3分で到着。バス乗務員と添乗員が、にこやかに迎えてくれた。バスの出入り口に濡れたタオルが敷いてある。きれい好きな乗務員とみた。
 幹事の指定席は最前部だが、後ろのサロン部分に行ってみる。カラオケルームに足を踏み入れたときと同じ臭い。そう、ヤニ臭がしみ込んでいる。わたしは、ここには座れない。喫煙者は3〜4人だが、その煙が車内に充満することだけは避けたいと思う。

 最初の仕事は、大量の酒の積み込み。男性は車内で宴会をして過ごすというので、過去のデータをみて従来の量を用意した。そこに差し入れも加わって、缶ビール&酎ハイだけで6箱はある。うわさのとおり消費すれば、みな見学などできないだろう。泥酔者の介抱だけはしたくない。
 町会の他の役員と妻たちが、手際よく冷蔵庫に詰める。入りきらない分は発泡スチロールの箱に入れて、車両後部のサロン席へ。その余はトランク。

 その間に一般参加者が集まってくる。「朝起きられるか心配だから、寝ないにしよう」と前夜語った人たちも、眠った上でやってきた。そろったところで、点呼をとる。
 男性は、1935年生まれから60年生まれまでの11名。女性は、1937年生まれから52年生まれまでの13名で、合計24名。夫婦での参加は5組。約40戸を町会長と勧誘して歩いた成果?である。


■定刻の06:00より前に出発。
 館山道に入って、走行が安定したところで「開会式」だ。
 年齢順に持ち回りで務める町会長が、まずあいさつし、これまた年齢順・持ち回りの納税組合長が幹事として、「旅のしおり」を配って、旅の行程を説明する。すなわち、わたしである。プリンターを購入したばかりなので、訪問先のHPから写真を拝借し、惜しげもなくカラー印刷をした。だが、参加者名簿だけは昨晩のもうろうとした頭で処理したために遺漏があった。申し訳なし。マイクで謝罪し、「これからもミスをすると思うのでよろしく」と謙る。
 ちなみに、町会役員にはもう一人、町会長代理がおり、この旅行ではわたしの相談役である。

 京葉道路に入り、幕張PAで休憩。普段、通勤の車窓からみていた湾岸道路を走り、首都高へはいる。8月に屋形船からみたレインボー・ブリッジを渡る。最高裁を間近にみ、エクセル東急ホテル、全日空ホテルを過ぎると、新宿の高層ビルがみえてくる。見慣れた風景でもアングルが異なるので新鮮だ。

 高井戸ICから中央高速へ。後部サロンからトイレ休憩の要請があり、停車をくり返す。
 PAにはたくさんの観光バスがあり、行楽シーズンの日曜日であることを意識させられる。 この時期に親睦旅行を実施するには訳がある。イチジク農家では採り入れが終わった時期であり、麦作農家には種まき前の農閑期だからだ。
 風は冷たいけれど好天に恵まれ、南アルプス、八ヶ岳がきれいにみえた。


☆中央高速道からの八ヶ岳


■10:00前、諏訪湖がみえたあたりでビンゴゲームを始める。乗務員にも添乗員にも参加してもらう。
 進行役は添乗さん。30代なのに会社の代表を務める。表情は穏やかで物腰も柔らかく、安心して任せることができる。
 1等賞が出たところで、商品の額を聞かれる。「すべて百円ショップで仕入れた」と、こっそり明かす。参加者は、会計報告をみるまではわからない。景品をそろえるに当たっては、妻との間に一悶着があった。妻が勤めの帰路に買いそろえて来たのだが、「そんなかさばるもの、いくらバス利用とはいえ不評だろう」と、わたしがうっかり言ってしまったのだった。
 今のところ、参加者からあからさまな不評は聞こえてきていない。

■ビンゴが終わったときには、長野道・松本ICを降りていた。
 R158を上高地に向けて走る。北アルプス・サラダ街道と呼ばれている。サラダの食材が沿道にそろっているからだ。
 左手に、白線流し・スペシャル『25歳』において、七倉園子が臨時教員を務める高校のロケに使われた・松本大学(学校法人・松商学園設立)がみえた。

 30年前とはすっかり変わってしまった新島々ターミナル近くの八百屋さんでトイレ休憩。 「トイレ休憩は、高速を降りる寸前のPAでやっておくとよいのだ」とガイドさんから教えられる。ビンゴを始めたタイミングがよくなかったということだ。

 予定では12:30に到着するはずの昼食処に11:00前に到着してしまう。場所は長野県南安曇郡安曇村。東京電力が梓川に造ったダムのひとつを見下ろすことができる。
 標高が上がって、気温は低い。ストーブをたいてはいるが、室内はまだ暖まりきっていない。しかし、添乗さんが車中から携帯で連絡を入れていたので、暖かいものを暖かく食べることができた。惜しむらくは、メイン・ディッシュの「そば」と「つゆ」がいまいちだったこと。
 土産物コーナーもさびれていたが、「麓よりも安い」と野沢菜を買い占めた?人がいた。



沢渡でバスを乗り換える。
 上高地への難所「釜トンネル」は、車長11bなら大型観光バスでも安全に通行できるが、12b車ではきわどい箇所があるという。会社やその労組が安全を重視する方針であれば、松本電鉄運行のシャトルバスに乗り換えることになる。われわれは、準備の立ち上げが7月下旬と遅かったため、11b車を手配できなかったのだ。同様のバスが何台もあった。

 ここでも、14:30の予定が2時間以上も早まり、松電へ予約変更を申し入れるが、繁忙期であり、即座の手配変更はしてもらえず、30分ほど待たされる。参加者の一人が松電係員に「これだけ待たせるのは、少しサービスが悪いのではないか」と穏やかにクレームを付けた。「できる限りの配車をし、精一杯の運行をはかっている」と応えていた。
 気温が低いうえに多少の風があり、上高地での散策が心配される。

 乗り心地の劣る路線バス仕様のチャーター便で出発。
 釜トンネルでは危険を感じる箇所はわからなかった。30年前は岩盤がむき出しで迫っていたが、改良工事は進んでいる。しかし、自然保護のためのマイカー乗り入れ禁止措置は続けるべきだ。

大正池で下車し、河童橋までの散策がはじまった。
 帰路は、2時間後にバスターミナル発の予定。薄曇り、さほど寒くはない。
 雄大な風景の中の約1時間のコースだが、足の弱い人の評判や如何に??


☆大正池からの焼岳
 この正面の木々は人工的に植えられたものだろうか?
 焼岳の崩落で大正池消滅の危機が叫ばれ、必死の、
あるいは無用の砂防・浚渫工事が行われていると報道されていたが、
ここまで手を加えたのだろうか?


☆水面に映る紅葉の樹木




☆池で遊ぶカモ




■わたしも正確な距離は頭に入っていなかったのだが、歩きやすい靴を用意してほしいと伝えておいた。スニーカーに履き替えたカップルもいた。

 川原を歩く大正池を過ぎると遊歩道がよく整備されている。
 紅葉最盛期は過ぎ、冬枯れ前の「乾いた」感じ。あと二週間もすれば、バスも旅館も今期の営業を終え、4月下旬までの冬ごもりに入るのだ。

 コンパクトにまとまっていた集団も、田代池付近でばらけてきた。女性陣は先を急ぎ、男性陣はベンチを見つけ、一休み。アルコールのせいだろう。添乗さんに先頭を任せ、最後尾を歩いてきたが、ここから前に出る。河童橋まで、迷うこともないはずだ。
 帝国ホテルへの道標。ホテル好きとしては是非立ち寄りたいが、喫茶の時間もとれないのであきらめる。
 梓右岸で、下って行くクロネコヤマトの配送車と出会う。明神あたりまで入り込んでいるのだろうか?

 いよいよ河童橋へ近づき、雲が切れて穂高の峰もはっきりとみえてくる。日本では数少ない豪快な山岳景観だ(と思う)。
 参加者のみなさんが、その価値をわかってくれるといいんだけどなぁ〜と思うんだけどなぁ〜!


☆西糸屋の玄関脇からみえる穂高


■1時間強で、全員が河童橋右岸にたどり着く。
 いまになって思う。まったくフリーにして、梓左岸のコースをとった人がいれば、ここにたどり着けなかった人が出たのではないか。添乗さんの誘導のうまさである。
 後続の男性陣は、穂高橋で右岸に渡ったわたしのあとを付いてきていた。
 集合写真を撮ったあとは、しばしの自由行動。


☆河童橋上流、梓右岸からの穂高



30年前は、学部の2年生。6月初旬の一人旅。立山黒部アルペンルートを富山から大町へ抜け、扇沢の国民宿舎に一泊。
 上高地に入り、村営徳沢ロッジに泊まる。翌朝は横尾を往復し、明神まで下って徳本峠へ登る。明神岳の峻険をみて下り、西糸屋に泊まる。翌朝は松本におりて、フォルクスラーメンを食べた。当時の宿泊料は、いずこも一泊2食で1500円であった。

 信州大学に進んだ友人から、その素晴らしさを聞かされ、写真集を眺め、あこがれていたが、期待に違わない絶景であった。
 今回は妻と一緒。上高地は今回も絶景であった。郵便局が営業しておらず、旅行貯金ができなかったのが心残り。つぎに来るときは、帝国ホテルに滞在しよう。


☆ PandaはついにQuappaの生まれ故郷にやってきた。

   ハイシーズンの日曜日。河童橋は大混雑でツーショット写真は難しい。
   日向の多い左岸で、同年配のカップルを見つけ、シャッターを押し合う。
   ペアルックの露出度が少なかったかな?

■みなさんは時間に敏感で、集合時刻をきちんと守る。予定時刻に、松電チャーター便で出発。
 ターミナルは混雑していた。「特急高山ゆき」の案内もある。安房トンネル開通のお陰だ。昔は「新島々ゆき」しかなかったのに。たくさんの客を松電スタッフがうまく誘導していた。沿道にも多くのスタッフが配置され、トランシーバーを使って交通整理をしていた。

 沢渡まで戻るのかと思ったら、釜トンネルを出ると右折。安房トンネルを抜けて、平湯ターミナルに向かう。あたりの山は「全山、燃えて」いた。

 千葉からの成美交通(本社・千葉県夷隅郡大多喜町)のバスに乗り換える。
 出迎えのガイドさんに、「二週間分の運動をした」と感想を述べた人がいたそうな。わたしには「天気が悪かったら、わたしは歩かなかった」と語った人がいる。そうなると、ひとりで残してはおけないので、誰かが同行することになって、その役は…? ただただ好天に感謝するのみ。

 紅葉の中を、バスは一路高山へ下る。車内はおやすみモード。



■16:00、その日の宿花扇」に到着。

 テレビでみるような「仲居さんがずらりとならんでの出迎え」は「気恥ずかしい」とおそれていたが、杞憂に終わった。出迎えたのは女将、支配人、担当の仲居さんだった。チェックインは添乗さんにゆだね、バス車内を片づけてから下車した。支配人はわれわれを待っていてくれた。

 玄関の「歓迎札」は、日曜日なのにたくさん下がっていた。
 ロビーにはいると女性陣は好みの浴衣を選んだうえで、ソファでくつろいでいた。他の客もそうしており、ソファにかけてチェックインの手続きをするようになっている。われわれ団体客の場合は、登録手続きはない。

 さて、部屋割りだ。女性は6名と7名、男性は5名と6名に分かれる。添乗さんは朝から「人数とメンバーをどうするのか」、気をもんでいた。町会旅行初参加の幹事は勝手がわからないので、町会長や代理に相談していたが、「宿に着いてからで大丈夫だよ」と楽観的であった。
 事実、年長者が「年齢順にならんでいる名簿に従って、所定の人数に分かれよう」と提案してくれて、そのとおりに決まった。喫煙否認派と容認派に分けたかったのだが、仕方がない。

 待機していた仲居さんが「○○号室のみなさん、こちらへどうぞ」と案内して行く。だが、二番目のグループには、エレベーターが下りてこない。「奥のエレベーターへ、ご案内します」と引き連れられていった。4階建てで客数48室のためか、エレベーターが不足しているようだ。

 男性陣は、仲居さんの戻りを待たずに部屋へ向かう。
 フロント横にエレベーターがあり、その向かいに土産物コーナーがある。その奥に同程度の広さ・設備をもつ大浴場が二つ。2階は宴会場ないし食事用の部屋がならんでいる。3階にわれわれの客室があった。

■室内は、12畳+7.5畳+4.5畳に分かれている。
 12畳間にテーブルと座椅子が置かれ、抹茶が供された。と言っても、仲居さんは茶碗を無造作に置いていっただけだ。パンフレットではロビーの一画に茶席がもうけられていた。妻は「そこでお手前を披露してやろう」と張り切っていたのだが、囲炉裏コーナーに変わっていた。

 農機具店・専務を務める同級生は旅館に慣れていて、浴衣を羽織って手際よく着替えている。この宿の料金は税別で1万6千円。そのレベルだと薄手のタオル1枚だけかと想像していたら、薄手ながらバスタオルも付いている。専務さんによれば、「このレベルの旅館だとバスタオルは付くよ」ということだった。
 バブル最盛期の職場の親睦旅行では、各地の「石亭」を利用した。館内のどこへ出向いてもタオルが備えられており、使ったものはそこに置いてくればよかった。

■旅館の場合は、着いたらまず風呂だ。
 ゴルフの好きな公務員さんは、ゴルフ中継をみるという。表具屋さんは、一眠りするという。町会長はとなりの部屋で話し込んでいる。専務さんのあとを追って浴室へ。
 脱いだ衣類は、煙が付くのがイヤなので、ビニール袋に入れておく。われながら「神経質なのかな」とも思う。

 浴室は、0:00〜05:00は閉鎖だという。「神代(じんだい)の湯」を名乗り、入湯税まで徴収しているのだから、24時間営業であってほしい。朝の時点で、男湯・女湯を変更するという。

 パウダールームは整っており、狭いけどサウナもある。露天風呂も付いている。木製の洗い桶と椅子、シャワーも十分あり、通常のシャンプー類の他に、「炭でつくったシャンプー」も備わっていた。使ってみたが、効果のほどは不明。
 壁や床はタイルではなく、木と石だ。木のくすみが目に付いたが、これは避けられないものなのだろう。

 パウダールームに使用済みタオルを回収する籠はあったが、タオル類は用意されていない。だからタオルを部屋へ持ち帰る。だが部屋には洗いタオルを掛ける用具はあっても、バスタオルを掛ける用具はない。備え付けのビニル袋では小さすぎる。ブルーレターに書こうと思ったが、用紙が見つからなかった。

■夕食・宴会は18:00から。
 ほとんどが浴衣姿で参加。抽選で座席を決める。乾杯の前に記念撮影。わたしの35ミリ・コンパクトカメラで撮る。この旅行を機にデジカメを購入しようと考えたが、松島菜々子にするか、中田英寿にするかで決断できなかった。


☆町内会のみなさん

 大半は、ルーツをたどると、明治のはじめにはこの地に住んでいた方たちだ。
 つぎに幹事をする機会があったら、人が重ならないように並べること、
背景の中に人を並べることに気を付けよう。テルコさん、トシエさん、ごめんなさい。

 幹事だから、最初のあいさつをする。みなさんに注いでまわる。
 若女将があいさつに現れる。妻が話しかけている。義兄の勤める学校の卒業生が、この旅館のフロントにいることがわかっている。その方についてのことだ。どうやら今日は非番らしい。若女将をみて、和服に茶髪は似合わないと感じた。

 料理は作り置きではなく、二人の仲居さんが暖かいものを次々と運んでくれる。

 程なくカラオケがはじまる。
 添乗さんが、機械操作と司会をやってくれた。宴もたけなわになると、歌う人、酎ハイをつくる人、それぞれがそれぞれの得意とする役割を果たしてくれている。幹事だからと気を回すこともない。「最後のしめ」の人選・依頼はしておいた。もちろん、代理のアドバイス。
 カラオケのトリは添乗さん。軽快な歌いッぷりで、評判も上々。「宴会男」が焦っていた。 開会の前、彼は私が勧めるまで座布団をはずしていた。それが添乗員のマナーなのだろう。そのことに私が気がつくのが遅かったかもしれない。ごめんなさい。
 2時間半ほどでお開きとなった。

■有志がラウンジに席を移す。幹事だから、付き合う。
 他のグループにはスーツ姿の添乗員が付き添っている。無理やり誘われたのかもしれない。わたしらの添乗さんは、こちらに住む友人と会っている。添乗員といえども、プライベートな時間があってよいはずだ。
 幸い、わたしらには土地勘がある。妻は高山から山を越えた中濃地方の出身だ。下呂温泉にある学校に勤めていたこともあり、ここ高山はホームグラウンドともいえる。岐阜弁でしゃべっている。

 つまみにハムが出される。口に入れて、郡上ハムだとわかる。妻がいつも実家から持ち帰ってくるからだ。調理師の岳父が「地元をひいきするわけではないが、日本で一番うまいですよ」と言っていた。
 「明方ハムか?」と尋ねたら、「明宝ハム」だという。サクッと噛み切れるのが後者だそうな。
 
 原稿書きで二日ほど布団で寝ていないたわたしには、眠いばかりだった。会計をしてみて、カラオケには1曲200円がかかることを知った。

■ラーメン・コーナーに寄る。
 酔った勢いからか、何人かが調理人をからかい、無理難題を言う。調理人がたまりかねて、声を荒げた。「あんたの言葉にはいじめが含まれている」と。ピシャリと言われて、おとなしくなった。

 つぎには、ここの費用を前町会長がもつか、現町会長がもつかでもめた。とりあえず部屋付けにしてもらう。
 学校のPTAでは、誰が会長になっても経済的負担を被らないように、受益者負担にしようという合意ができている。町内会でも、この方向に進むべきなのだ。

■食後、ラウンジに舞い戻った者もいたが、わたしは部屋へ引き取る。

 暑くて寝苦しかったが、未明に戻ってきた町会長と専務が、窓を開けて外気を入れてくれた。そのあとは02:30に目を覚ましただけで、05:00過ぎまで眠ることができた。
 他の部屋でも同様で、ぐっすり眠った人は暑いとは思わないし、よく眠れなかった人が「寝苦しかった」というのだろう。広い部屋でも、5〜6人がはいると室温は上がる。人間は発熱体なのだ。



10月27日(月)

■6時前に朝風呂を浴びる。
 予告どおり、男女の浴室が入れ替わっている。今朝の男湯の写真がパンフレットには載っている。
 湯につかっているうちに明るくなり、露天風呂から塀の外を見ると、蓮田がみえた。振り返って上を見ると、客室が目にはいった…。



朝食は07:30。
 土産品を物色して、ゆとりを持って座敷に行ってみたら、やってきた人からドンドン食べているではないか! みんなそろって「いただきます」をやろうと思っていたのに。 所定の時刻には引き上げる人も出る始末。
 あわてて、朝のあいさつをし、行程を説明する。
 「花扇」出発は08:30。獅子会館のからくり・桜山八幡宮の屋台会館を見学し、宮川朝市を歩くと告げる。

 二日酔いの人、疲れた人が出るおそれもあるので、もともと今日の予定はアバウトにしておいた。平湯ターミナルに12:00に到着して食事をするのが、守るべき唯一の条件だ。陣屋見学と付近の朝市くらいを予定していた。

 だが、昨晩の宴会の最中、申し出があった。わたしが幼稚園にはいるまで毎日のように弁当持参で遊びに行っていた隣の家のお姉さん(いまは、たくさんの孫がいる)からだ。「からくりを是非みたい」と言う。添乗さんに伝えて検討してもらい、上記のように決めた。

 宿への支払は、わたしらが仲居さんと話し込んだり、身繕いをしている間に添乗さんと代理が済ませてくれた。添乗さんには、概算した費用を現金で預けてあるのだ。

■08:00過ぎにはバスが玄関に横付けされている。
 腹部のトランクが開け放たれ、を車内に運び込む。買い込んだ土産物は、添乗さんが用意した油性マジックで識別のための「屋号」が記され、積み込まれて行く。

 見送りの女将に話しかけてみる。話の切り出しは26年前に泊まった旅館のことだった。ホテルのコンシェルジェやマネージャーと話すよりも緊張したが、それも最初だけだった。

 尋ねた旅館は、すでに廃業したとのことだった。高山にはビジネスホテルが進出し、民宿のような旅館は次々と廃業しているそうだ。

 つぎに、「花扇」が山形のけやきにこだわる理由を聞いた。
 檜や杉は建築資材としては一般的なので、在り来たりでない「けやき」を使うこととした。地元で探したが、建築に使えるものは見つからなかった。全国を探したところ、「これなら使える」というものが山形で見つかった。そして十余年かけて資材を集め、建設・開業したのだそうだ。

 さらに、妻が若女将と話していた・義兄の学校の卒業生について聞いた。
 「いまフロントにいるあの娘ですよ」と言う。出向いて話しかけてみると、義兄を知っていた。途中で妻が加わった。「こんどは義兄さんと一緒においでください」と言ってくれた。

 女将とさらに話した。女将の姪御さんが義兄と同じ学校に勤めていたが、最近転勤し、その転勤先の学校がかつて妻が勤めていた学校だということもわかった。
 世間は狭い!!
 「こんどは職場の仲間と来ます」と述べて、女将のもとを辞した。

 「朝の連ドラをみてから降ります」と宣言していた数人が予告どおりにやってきて、全員がそろい、出発。

■東本願寺高山別院にバスを止める。わずかの距離を歩くが、底冷えがする。さすが、山国だ。
 獅子会館で、からくりの実演をみる。

☆入場券(お茶を運ぶロボット)

 26年前の秋祭りで、屋台のからくりを遠くから眺めたが、近くで、しかも裏にまわってみると、しくみがよくわかった。

 つぎは、八幡宮の境内に入って、屋台会館だ。
 巫女に誘導されて、屋台の周囲を回る。細工の細かさ・精巧さにただただ感心する。

屋台会館入場券


■表参道を歩いて、さあ、宮川朝市だ。
 いったん散会して、買い物を楽しむ。添乗さんは、朝市の端・鍛冶橋に立ち、たどり着いた面々を駐車場に誘導してくれる。

 われわれは、26年前に泊まった旅館とそこを紹介してくれた土産物店を探す。
 わたしと妻の記憶とが食い違っていたが、目指す店はすぐに見つかった。朝市の客で繁盛している店頭で、社長と会う。飛騨稲門会の席上、紅一点だった妻が図々しくも依頼して秋祭り当日の宿を予約してもらったのだった。その直後は礼状を出したのだが、その後の音信は途絶えていた。
 妻は、「親の反対を説き伏せて結婚にこぎつけ、まもなく25年になろうとしています」と口上を述べた。時系列は正確ではないが、そんなこともあったのだ。社長は、そのときのことを「かすかに覚えている」と言ってくれた。
 買い物をし、大学野球やラグビーの話をした。「白線流し」の元祖・斐太高校の所在地やメディアの取材攻勢の話を聞いた。再会を約して店を辞した。あいさつしたことで、高山訪問の目的のひとつはかなえることができた。

 底冷えの中を立ちつくし、「陽の光がこんなにありがたいものとはわからなかった」添乗さんと打ち合わせをして、別院のバスに向かう。キョロキョロして、郵便局と「キッチン飛騨」のハムを売っている店を探したが、どちらも見つからなかった。

 バスに戻ると、大半は乗車していた。みなさん、ゆとりをもって行動してくれるので助かるが、もう少し時間を有効に使ってもよいのではないかと思う。



■あとは、昨日たどった道を引き返すだけだ。
 午後の弱い光でみる紅葉よりも、午前の強い光でみる紅葉の方が鮮やかだ。

 平湯にはちょうど12:00に到着。
 ターミナルビル2階で、朴葉みそと飛騨牛に舌鼓を打つ。肉の量が一定でなく、2枚しかなかった人、5枚もあった人。童心に帰って、数えたんですね。かと思うと、フロアのテーブルと座席数を数えて、一日の売り上げを概算する人もいた。
 「飲み物はどうしますか?」 「いりません」。前評判ほどには酒量はあがっていない。

 みなさん、食べるのが速く、20分もすると数人しか残っていない。
 出発までの時間に周囲を歩く。簡易郵便局を見つけて旅行貯金。わずか一局だが、通帳を歩いた甲斐があった。近くの「自然文化センター」を見学。
 くっきりとみえるピークが「笠ヶ岳」であることを知る。


☆笠ヶ岳(平湯ターミナルから)



■歌声とお酒と居眠りを乗せて、バスは走る。
 休日は道路工事も休みだが、平日は施行。だから工事が原因の渋滞も起こる。勝沼付近でノロノロ運転にはまったが、あとは順調。
 都心に近づくにしたがって、観光バスが増える。都心を抜けると、またまばらになる。

 予定どおりに走っていたが、予定を変更して夕食をとろうとの提案が出るも、「予定どおりに進行しているときにそれを変更するのはよくない」との年長者の裁定を得る。
 トイレ休憩を10分延長し、軽食をとる時間をもうける。最終到着は、その分だけ遅れた。

 サロン部分のゴミを片づけ、トランクの酒を公民館に運ぶために代理の車に積み込む。トランクの土産物は、名前を書いたにもかかわらず、間違いが出たのは残念。

■すでに記したことのほかに、休憩ごとの人数確認まで添乗さんがやってくれたお陰で、行程管理だけの幹事を一応果たすことができたかなと思う。自分たちの旅も楽しむことができた。感謝。(03.11.10脱稿)

 *写真とのリンクが不調です。しばらくお待ちください。