◆ このシリーズは、97年シーズンに まいける『青い空は』−スポーツ掲示板 に書き込んだものです。字句を多少修正してアップしてみました。


親子でラグビー観戦(1)  ごあいさつ

 9月20日、早稲田−東大戦を見ました。
 DFが破綻との下馬評のある早稲田でしたが、東大が持ち込んで密集になると、必ず反則をとられました。理由・原因はわからないけれど、このままでは相手にPGの山を築かれてしまいます。石川主将は戦列に復帰できるのでしょうか。

 東大は、早稲田ボールを奪うなど低いスクラムで健闘したものの、キックオフのボールをすべて早稲田に献上(このキッカーが高校のはるか後輩だったとは)。ただ早稲田の持ち込んだラックで、ブリッジをかけてボールを奪取。今シーズン話題のプレーが見られました。

 バック・スタンドでは、いつものように子ども連れが目に付きました。
 私がラグビーに子どもを連れていったのは、堀越組と吉田組の決勝戦がはじめてでした。6万観衆の迫力を味あわせてやりたいとの思いからでした。
 小学1年だった二人の息子は、お菓子を食べるのに忙しく、同行した明治OGの従妹だけが喜んでいました。妻は寒いところは嫌いとデパートめぐり。

 次は、富野組の早法決勝戦。最後の藤原のトライに至るラインアウト、あれは絶対ノックオンですよね。このときは、ラインアウトって何だ。何であんなところに並ぶんだと、ゲームを見るようになりました(ここから妻も出席)。

 その後は、木本建治『荒ぶる魂−勝つために何を教えるか』(この本に著者のサインをもらいたかった!!)を読み、永田組の同志社戦・東芝府中戦のVTRを見、見よう見まねで、二人だけのルールを作って、ラグビーごっこをはじめました(堀越組の後、ラグビーボールで遊ばせようとしても、見向きもしなっかのに)。

 そして小学4年の秋、増保のレイトチャージから逆転PGを決められた帝京戦では、RFがスクラムを指示した後にノーサイドとしたのに対し、「○○ボールと指示したんだから、スクラムを組ませてから笛を吹け」と顔を真っ赤にして叫ぶまでになりました(この子を「少年H」とし、もう一人を「少年F」とします)。
 「残念だったはね」と、後列の老婦人からなぐさめていただきました。

 この年の冬、少年HFはラグビースクール(RS)に入りました。


親子でラグビー観戦(2)  体の成長

 今年も、早慶戦や早明戦の入場券の発売が近くなりました。

 秩父宮の自由席で学生に伍してよい場所を確保しようとしたら、朝は何時に行けばよいのでしょう。小さい子ども連れでは難しい話です。そこで大人・子ども同額の指定席券を購入することになります。でも節約のため、子どもは二人で一席という買い方をしたこともありました。秩父宮は座席の前後に余裕があるのでこんなやり方も可能ですが、国立ではこのやり方は、苦しいものがありました。

 92年度の早法決勝戦、B指定3枚で親子4人が入場。係りは何も言いません。最端部の席だったこともあって、むき出しのコンクリート部に一人が犠牲になって、何とかなりました。

 93年度の早明対校戦。開始早々のPGで先行し、FB鈴木のライン参加からCTB渡辺大介が元木のタックルを受けながらも右中間にトライを決め、期待をもたせた試合です。
 S指定2枚をもって、親子4人が入場しました。ところがこのときは、途方にくれてしまいました。「二人は通路に座るか、ゲートで立ち見するしかないな」と。しかしPandaが、TVカメラ周辺の空席に目を付け、そこに二人がちゃっかり収まりました。カメラマンも何も言わず、かくして4人が座って観戦できました。

 その年の日本選手権では、C指定4枚で大人3人+子ども2人が座りました。でも、子どもも成長し、こんなやり方は無理になりました。

* 02-03シーズンの早明戦入場券は、久々の葉書抽選なしとなりました。仕事があって、発売時刻に店頭に並べず、電話をかけられずです。上井草での試合同様、午後でも席が残っていることを祈ります。早慶戦も同様です。


親子でラグビー観戦(3)  応援グッズ

 長い間応援していると、応援グッズもいろいろ揃ってきます。

 赤黒の座布団に応援旗、これは誰の目にも触れます。しかし他のものはコートやセーターの中で、陰ながら(?)応援しています。でもそれらが、日の目(?)を見たことがありました。

 小泉組の早明決勝戦。速水の骨折退場で、ゲームプランが狂い、惨敗した試合でです。この日はとても暖かい日でした。NHKTVの石川アナは、4月の陽気だと言っていました。「観客のみなさんは、これからコートを脱いで観戦です」と(「ねぇ、梶原さん」とは言わなかったようです)。

 コートを脱ぎ、それでも暑くてセーターも脱ぎました。Quappaは学生と同じアンブロ製の赤黒、息子たちは、まだ120aの服を着ていた頃にデパートのバーゲンで買っておいた・140aの赤黒のシャツ。そしてPandaはセプター製のセカンド・ジャージー。後列の現役学生が「スゴイな」と、唸って(?)おりました!!
 だが彼らは、我々のすべてを見たわけではありません。まだあったのです。そう、それはストッキングです、もちろん赤黒の。

 対戦相手に応じて、座布団・ストッキング<ジャージー<応援旗という順序でエスカレートして行き、フル装備になるのは、このところ早明戦と準決勝以降でした。96年度の早慶戦では、140aが着られなくなった息子たちは160aのジャパンもどきの赤白で代用、「旗は持つまでもない」と出かけたところ、敗れてしまいました。

 だから今年はフル装備で行こうかなと考えるのですが……(マフラー・帽子は今のところそろえてはいません。でも、何でそんなに凝るんでしょうねぇ?)。


親子でラグビー観戦(4) TVに登場

 何度も出かけていると、TVに映ることもあります。

 小泉組の青山学院戦。ラグビースクールの練習を終えてから、Hと二人で出かけました(Fは翌日に修学旅行を控えていたため、休息したいと留守番)。

 青学戦はこの時から、青学のコーチの「家族」と一緒に観戦しています。戦術やルール、青学の選手情報について、アルコール片手に話が弾みます。Hも話に割り込んだりしていましたが、「探検してくる」と言い、しばらく消えていました。試合後「今度は大学選手権で会いましょう」などと冗談を言って別れました(私はこの時はじめて、スタンドでビールを飲んだのですが、80分経っても足許がふらついていました)。

 翌週、「H君が映ってますよ」と、TVKのVTRが送られてきました。前半早稲田ゴール前でスクラムが何度も組まれ、その向こうに、140aの赤黒シャツを着たHが、確かに映っていました。およそ30秒間も!!! このことを知ったFは、悔しがりました。

 同じく小泉組の早慶戦。前年80−10と大勝し、今度は百点ゲームをと期待した試合でしたが、30点に届きませんでした。
 早慶戦はいつもS席で観戦です。試合後、吉野が南川に、「FWがぜんぜん、玉とれねーかんね」と話しかけていました(南川の返答は聞こえず)。私が二人の会話に気を取られていたとき、HとFはインタビューを見ようと最前列に向かっていました。

 ちょうどNHKカメラがスタンド方を向いていたので、最前列をニコニコして歩くFが画面に現れました(赤黒の上にトレーナーを着て、JEF市原の黄色帽をかむっています)。1秒くらい映っていたでしょうか。その姿は、坊主頭の小泉君の大きな顔で隠れてしまいました。
 この時ばかりは、「小泉、邪魔だ、どけーっ!」とVTRに向かって叫びました。
 しかし、カメラが右の方に移動したら、今度はHがJEF帽をかむって登場し、わが家の双子は、そろって全国放送にデビューしたのでした。


親子でラグビー観戦(5) 子の思い

 長年連れ添った?息子たちですが、喜んで無邪気に観戦というわけには行かなくなってきています。

 96年の正月、息子FはPandaとその実家へ行き、準決勝はHと二人で観戦しました。その晩は都内に泊まって、翌日は神戸製鋼−リコー戦を観戦しました。
 SOのポジションをめぐって、ラグビースクールのコーチと意見が合わないので、平尾のポジション取りを研究するため、ゴール裏に陣取りました。でもNHK『神鋼V5の軌跡』をすり切れるほど再生していたHは、日向でコミックを読むばかり。得点や反則数はしっかり記憶していたものの、試合を見ていた様子はありませんでした。
 帰途、「二日間も、よく付き合ってくれたね」と声をかけると、
 「うん、ボクは、一人では家に帰れないからね。」

 それから三日後、九州電力とサントリーに散った木本・永田組の活躍を観戦に行きました。実家から帰ったばかりの息子Fは、ゆっくりしたいとパス。Hと出かけました。隈部のPGが決まらず、九電はNTT関西に1点差で敗れ、サントリーはトヨタに完敗しました(その後、奇跡の復活を遂げましたね)。
 今回はコミックではなくゲームを見てはいましたが、「今日もよく付き合ってくれたね」と、声をかけました。すると、
 「今日のことは、お正月前からの約束だったからね。約束は守らなくっちゃね。」

 96年9月、Oxford戦。「早稲田が外国のチームと試合するのを見たことがないから、部活を休んで行く」と、Fが同行。江戸川陸上競技場へは、東西線葛西駅からが一般的だけれど、京葉線葛西臨海公園駅からも行けるはずと、地図を片手に降り立つ。公園の反対側に出る道を探すのに四苦八苦。まばらな通行人をようやく捕まえて確認。時刻が迫り来るので、つい早足に。とその時、
 「オーイ、父さん、待ってくれーェ!」
 コンパスを伸ばしても追いつかないFが悲鳴をあげていたのです。
 「子どものことを忘れる親がいるかーッ?」と叱られてからは、落ち着きを取り戻し、なおも道を尋ねながら、キックオフ寸前に到着できました。

 メンバー発表で、「永田、森島」ときたので、勝手に「頓所、?、篠原、神田、清田、清宮……」と諳んじて楽しんだのですが、4番がとうとう思い出せませんでした。帰宅してHに問うと、いともあっさりと「弘田だよ」ですって。顔を見合わせました。

 試合は、またもや惜敗で初勝利はなりませんでした。吉永君が活躍しましたが、OBの主力が依然として永田組であることに、一抹のさびしさを感じました。


親子でラグビー観戦(6) ここまでしたよ!

 97年正月の準決勝は、18点差をひっくり返しての劇的な勝利でした。
 PGで点差をつめる試合運びに「トライをねらえ!」と何度も叫びましたが、逆転圏内にとらえる頃には、さすがの私も作戦の賢さに気づきました。

 吉永君の逆転トライの瞬間には、訳の分からない言葉を絶叫していました。大の男が子どもみたいに喜んで、周囲の観客はどう思ってるのかなと考えました。次に、わが子はこの父の姿をどう見ているのかなと気になりました。しかし、まだ問うてはいません。国立での親子4人応援での初勝利でした(4度目の正直)。

 ところでこの試合には、永田組が東芝府中に勝利したときの応援旗を持参しました(この年までの旗には「WASEDA」の白文字が入っていません)。年末に亡くなった木本前監督の力を借りようとの魂胆からです。
 そのうえ、亡くなって最初の試合だから、それを弔旗に仕立てました。黒の製本テープでもって、竿頭の黄玉を包んだのです。大西鐵之祐氏の死を悼んで、ジャパン強化試合のスタンドで黙祷を捧げたグループがあったそうですが、その話をヒントに考えました。あの逆転勝利に少しは役に立てたと自負して良いのでしょうか?
 早明決勝戦にもこの旗を持参しましたが、認定トライを防ぐことはできませんでした。

 ここまで、やってしまいました。「ラグビーは少年を早く大人にし、大人にいつまでも少年の心を保たせる」という言葉がありますね。私の場合は、少年が少年のままでいるといったところでしょうか。

 中竹組は、早明対抗戦、準決勝、決勝と前半で大きくリードされました。こんなことを三度も繰り返すようでは、本当に強いチームとはいえないでしょう。でも、青学戦ではBKのパスが3本と続かなかったのが、最後はあれだけの試合をするようになったのですから、大したものです。石川組は、主将の怪我やSOの骨折で、チームの作り直しを余儀なくされていることでしょう。しかし、これからに期待しています。
 **  このシーズンは、大学選手権で大畑大介を擁する京都産業大学に、学生相手の最多失点で敗れてしまいました。なかなか格好いいセカンドジャージーをお披露目したのに、残念でした。山口君、中西君らが組むスクラムが、回すことも崩すこともできずに何十メートルも後退するシーンでは、目を覆いました。