サインをもらった選手たち(1)
早稲田大学ラグビー蹴球部員



 1997年8月3日(日)、千葉市にある県立磯辺高校グラウンド。千葉県内のラグビースクールが早稲田の現役部員を招いて合同練習会を催しました。市原RSからはコーチ3人と我々4人が参加しました。
 講師は、4年生:中西聡、林健太郎、山口吉博、3年生:鈴木俊輔、辻宏之、藤井真吾、2年生:小林商司、寺内周平、長井真弥の千葉県出身者を中心とする8名でした。小学生組と中学生+レディース組に別れて練習した後、皆さんからサインをもらいました。
 なかでも山口君と親しくお話しできました。初対面なのに図々しくもこんなやり取りもしました。

Q :小泉主将の時の早明決勝戦、後半の終盤、ゴール前の密集で、あなた、スパ  イクが脱げたでしょ。そのままプレーした後、スクラムになって履いたよね。あの  シーン、早稲田の劣勢を象徴しているようで、涙が出てきたよ。

山口:そんなこと、ありましたね。
Q :あなたは、よくラインに参加するでしょ。でもあなたにボールが渡ると、ガクッと  スピードが落ちるよね。
山口:ええ、よくそう言われます。
Q :ところで、アレって、約束事なの、それとも、何というか、偶然そこに居たという  か…。平田君は残ることになっていたようだけど…。
山口:私は目立ちたがり屋だから、何でもやりますよ。
  そのほか、あのスクラムトライのこと、レフェリーのことなども。大きな声の・ハキハキした・折り目正しい好青年でした。別れ際、「早稲田に入って、ラグビーやろうね」と言われ、子どもたちは答えに窮していました。
 


サインをもらった選手たち(2)
中瀬真宏選手
(法政大学 → 東京ガス)

 95年6月、市原市ラグビー協会は創立30周年を迎え、記念行事として、JEF市原がホームGとしている市原臨海競技場において、法政大学対帝京大学の招待試合が行われ、その前座(市原市選抜)の前座(市原不惑C)のそのまた前座として、市内にある二つのラグビースクールも出場しました(小学生は9人制のミニ・ラグビーです)。

 前年度のすべての試合を通じてノートライだった市原RSは、開始早々自陣ゴール前から敵ボールを切り返し、4人がつないでトライ。後半にはモールを押し込んでのトライ。しかしコンバージョンが一本はバーに、もう一本はクロスバーに阻まれて失敗。惜敗でした(開会式では息子Hと若宮RS主将T君が選手宣誓、奇しくも二人とも双子の片割れでした)。

 試合が終わって一息ついて、大学生はもうアップをはじめる頃かなと、控え室を探索に出かけました。そしたらちょうど出てきたんです。お目当ての選手が。その人の名は中瀬真宏君。富野組の早法決勝戦で、見事なタッチキックを見せてくれました。

 ジャージー、ショーツ、ヘッドキャップ、キックティー、なぜか法政の応援旗などに、いっぱいサインをもらいました。そして、質問しました。

息子たち : どうしたらあんなタッチキックが蹴れるんですか?
中   瀬 : 練習あるのみ!

 スタンドに戻って、この話を、「保善高校時代には法政には随分と世話になった」と言っていた保護者に伝えたところ、それを聞いていた子どもたちが、入れ替わり立ち替わり押し掛けて行きました。中瀬君は「この練習が終わるまで待っててね」などと取りなしながら、二十数人の子どもたちのすべての要求に応えてくれました。

 それからしばらくは、みんなのユニホームのどこかに「中瀬真宏No.10」の記載があり、知らない人が見たら、まるで「中瀬ラグビースクール」でした。

 後日、雑誌を読んで、中瀬君が藤沢RS出身であることを知りました。だから市原RSの子どもたちに、やさしかったんですね。

 このシーズンの準決勝は、早法対決でした。我々は、個人としては中瀬君を、チームとしては早稲田を応援し、小泉組の早稲田が大勝しました。

 東京ガスでプレーする中瀬君は、守屋君をSOからCTBへと追いやりましたが、来シーズンからの速水君とのポジション争いに注目しましょう(まだ今シーズンが終わっていませんでした)。



★ サインをもらった選手たち(3)
ジャパンの選手たち


 サインを求めて拒まれたことはありませんが、意外なこともありました。

 94年12月23日、秩父宮。社会人大会2回戦:神戸製鋼−サントリー戦。神鋼V7の年にして、本城コーチ・清宮主将最後の年。敗れ去った・満身創痍のサントリーがメーンスタンド前に整列したときには、目頭が熱くなりました。

 その試合のハーフタイムに、既に試合を終えて観戦中のジャパン選手のもとへ、Hがサインをもらいに行きました。

 H   : ○○選手ですか?
 M田 : 違います。
 H   : …!?
 チームメイト : おマエ、悪い奴だなぁ。
 
<M田選手、仕方なさそうにサイン>
  H   : ありがとうございます。

 以上がHの報告です。この報告の内容は我々の前列で観戦していた0藪監督にも聞こえていたはずです。「ジャパンとしての自覚を持て。特に子どもファンを大事にしろ」と説諭してくれたものと思います。だから、ジャパンのスコッドに復帰したM田選手(もう父親になっているかな)、今はちびっ子ファンにも快くサインをしてくれているものと思います。

 選手にしてみれば、試合の前後は煩わされたくないと思うでしょう。そこへ行くと4月のJapan Sevensでは、選手たちのサービス精神も旺盛で、広場・通路・スタンド、どこで頼んでも大丈夫。パレードの最中でもOK。

 ウェールズのSOアーウェル・トーマス(蛍光ペンなので消えかかっている)、栗原・堀越・小泉、元木・吉田、マコーミックなどの名前が並びます。

 もとはFのサイン帳なのに、いまはなぜか私が管理しています。



★ サインをもらった選手たち(4)
87年度永田組
 96年1月6日の秩父宮には、九州電力とサントリーが登場し、早稲田ファンにはこたえられない午後になるはずでした(が、両チームとも負けてしまいました)。

 12時前に行ったのが功を奏し、サントリー選手の輪を見つけました。
 「試合前に恐縮ですが」と木本建治『荒ぶる魂』を差し出し、今駒・清宮・今泉君らからサインをもらいました。今駒君だったかな、本を見て「懐かしいですね」と言ってくれました(キモケンのサインがもらえなくなったのが残念です)。

 先に試合のある九電勢は、その後スタンドで観戦するだろうから、その時に永田・篠原・神田君らにサインをしてもらうつもりでした。結局一人も捕まりませんでしたが、隈部謙太郎君と写真が撮れました。

 永田組では、あと桑島君です。95年度の早慶戦で、早稲田ベンチにその姿を見つけました。

 ハーフタイムに、「どこにいるのか、わかんないよ。それに顔も忘れちゃったよ」というHを、「大丈夫、オレわかるから」とFが先導して行きました。

 H  : 早大OBの桑島さんですか?
桑島 : はい。
 H  : サイン、お願いします。(『早稲田スポーツ』新聞を差し出す)
桑島 :君たち、生まれてたの? ボクは、サインはないから、普通の漢字で書くよ。
 ……
  H : ありがとうございました。

 とまあ、こんなやり取りがあったそうです。
 私のもとへ戻ってきて、

 「生まれてたのって意味がよくわかんなかったから黙ってたけど、『生まれてたかどうかはわかんないけど、同志社と東芝の試合のVTRは何度もみました』って言えばよかったな」とFが話していました。



★ サインをもらった選手たち(5)
吉田義人選手
(明治大学→伊勢丹→コロミエ→三洋)

 我々が初めてラグビー選手にサインをもらったのは、94年1月のオール早慶戦においてでした。

 「今泉のキーちゃんは、NZに行ってぶちかましを覚えてきた」と、語り継がれるプレーが見られた試合です。

 小学4年生のHとFがラグビースクールに入校し、初めての練習を終えたその足で国立競技場へ出向きました。フィールドやスタンドのあちこちには前日の雪が残っていました。

 青山門から入り(かつてサッカー少年の頃は千駄ヶ谷門が大好きだったけれど、今は青山門が気に入っている。信濃町駅→秩父宮のルートを利用するせいだろうか?)、19番ゲートをくぐるところで、(清水スポーツのアルバイトではなく)協会の役員をしている友人に出会い、「あそこに吉田君がいるよ」と耳打ちされ、親子4人でその後列に陣取りました。

 子どもたちにサインをもらうよう促すのですが、思うようには動かず(父母が促す声は、吉田義人君には聞こえていたはずです)、とうとう私が、

 「吉田君、子どもたちにサインをお願いします。」

と、トライ後のコンバートの合間にプログラムとサインペンを差し出しました(快くサインしてくれたのは言うまでもありません)。
 ノーサイド寸前に退場しましたが、その際、連れの男性ともども、我々に会釈をしてくれました。

 「来週のオール早明戦を楽しみにしています」
と返答したと思いますが、それ以来、我々はヨシダギジンのファンになりました。



★ サインをもらった選手たち(6完)
大西鐵之祐先生


 今回は、サインではなくて握手です。選手ではなくて指導者です。
 山羽組の早慶戦。正面スタンド前列に大西鉄之祐先生がポツンと座っておられました。

 意を決した私は、子どもたちの手を引いて、先生のもとへ伺いました。というのも、その年の9月、ジャパン強化試合後の駐車場、車椅子の大西先生と奥様、寺林君?らが談笑していました。先生の講義を聴き、何度か質問に伺った私としては、話しかけようかと迷いながら、踏ん切りがつかなったのです(あの時なら、カメラももっていたのです)。

 先生の前に進み出て、耳元でこう言いました。

 「かつて、先生の体育社会学の講義を受講しました。息子たちがラグビーを  やっています。息子たちに、先生のことを教えたくて連れてきました。」

 先生には、話がどれほど通じたのかはっきりしませんが、奥様が、

  「あなた、握手くらいしてあげなさいよ。」

と、先生の手袋を素早くはずしてくださいました。そして、めでたく握手をしていただきました(子どもたちには、この指導者の偉大さをいつか理解してほしいと思っています)。ついでに私も握手をという時に前総長などの大学首脳陣が先生のもとへ寄ってきたので、辞して席に戻りました。

 次の年の早慶戦、またスタンドでお会いできるかなと楽しみにしていたのですが、先生のお姿は、もはやスタンドにはありませんでした。



★ 大西鐵之祐先生余話

 「サインをもらった選手たち」は「(6)大西鐵之祐先生」で終わりとし、(その2)を「余話」として記します。

 大西先生の講義で鮮明に覚えているのは、1973年の1月最初の講義です。数日前の大学選手権決勝について、熱っぽく語っていました。

 決勝戦は、大学選手権がはじまって初の早明対決でした。12−9と早稲田のリードで迎えた後半38分、明治のラックから出たボールをSH松尾雄治がもって走る。その左をWTBがフォロー。そのWTBをマークする堀口が松尾をみた瞬間、「いまだ」とパス。WTBはそのまま走って左隅に倒れ込んだ。「喜んだ明治のタッチジャッジが万歳をした」(毎日新聞池口記者)ため、レフェリーはタッチインゴールを踏んだかどうかを確認してから、トライを宣告しました。12−13。明治はじつに1961年対抗戦以来の勝利でした。この敗戦で早稲田は、公式戦連勝記録は35でストップ。大学選手権3連覇の夢も潰えました。

 こんな試合の後ですから、熱っぽくもなるはずです。

 「このまま守り切るやろう。今年も勝ちや」と思って表彰式の用意をしていたんや。優勝カップをもって[スタンドから]降りている最中に逆転されてしもうた。勝負いうもんは、最後の最後までじっと我慢して、ここぞというときに力を爆発させるんや。それをやられてしもうた。」

 悔しい思いだけでなく、明治への敬意も含まれているように聞こえました。

 それから15年後仕事の関係で知り合ったH山S樹君は、この「タッチジャッジの万歳」を間近で見ていたんだそうです。彼によれば、

 「明治のタッチジャッジ[当時は日本選手権試合以外では、両チームがTJを出していた]が旗を揚げた。Refが「タッチを踏んだ?」と聞き、TJが「踏んでない」と答える。H山君たち東京ラグビースクールの子どもは、白粉が舞ったから「踏んだじゃないか」と叫んだけれど、Ref はトライを認めた。」 

ということです。?!?!?!?! でもRef の判定に従うのが競技のルールなのです。

 宿沢広朗主将が「タッチに出た」と悔しがる選手を「早大生らしく、最後まで堂々としていろ」と叱ったという事実を、最近になって知ることが出来ました。
 
(先生は、確か1986年度に定年を迎える頃にはかなりの知名度があがっていたようです。81年早明対抗戦の勝利が「大西マジック」と脚光を浴びたからでしょうか。最終講義は大隈講堂で行われたようですが、当時は人気講師ではありませんでした。
 当時の人気講師は、陸上の織田幹雄先生、「楽勝科目」だから。
 みなさん、国立競技場のフィールドはデッドボールラインの千駄ヶ谷門寄りに掲揚塔が立っているのをご存じでしょうか? あのポールの高さは15b21a。織田先生が日本人初の金メダルを獲得したアムステルダム五輪三段跳びの優勝記録に因んでいるのです。)

* これらの文章は、97年秋、まいける『青い空は』スポーツ掲示板に 書き込んだものです。