2009年8月20日

Potsdam

nach Potsdam
 きょうの目的地はポツダム。ポツダム宣言(1945.07.26)を協議した宮殿へ行くのだ。
 往路の列車は、ポーランド国境の町フランクフルト・オーダーが始発。ベルリンを経由し、ポツダムから南下してブランデンブルク・ハウプトゥ・バーンホフまで行く快速列車だ。列車番号は「RE38068」。
 ホテル最寄りのZoo駅から乗車。発車番線が変更されたことを知らずに、同じホームの反対側で待っていると、若いけどあまり身なりの良くない男性が「こっち側に変わったよ」と教えてくれた。言われなければ、乗り逃したかも知れない。「ときどき、あういう人がいるんですよ」とD氏。お節介なドイツ人、健在なり。

 編成中の1両の2階部分が1等車。階段には2等客が座っていたりする。


 リクライニングはしない、方向転換もできない。2等車との違いはというと、…う〜ん、シートピッチの違いくらいかな。車掌が必ず車内改札にやって来る。きょうは、ほかに乗客はいない。自由に写真が撮れる。


 とても詳しい車内の電光掲示板。
 現在時刻、09:56。つぎは「ベルリン・バンぜー(湖の名前)」、あと3分。ポツダム・ハウプトゥ・バーンホフ着は10:08、終着ブランデンブルク・ハウプトゥ・バーンホフには10:37に到着。


ポツダム・ハウプトゥ・バーンホフ で
 定時着。降車客は地平ホームからエスカレーターで橋上階へ上がって行く。しかし、わたしたちはそうは行かない。停車中の列車やホームの様子を確認する仕事があるからだ。そして成果がありましたよ、ありました。

 ドイツ鉄道(DB)の気動車(ディーゼルカー)だ。パンタグラフがないので、それとわかる。日本の気動車はエンジンを床下に積んでいる。でもこの編成は違う。客車と客車の間の小さな車両、ここにディーゼル・エンジンを置いている。どんなメリットがあるのだろう。床下に潜らずに済むので、整備は楽だろうなぁ。


ポツダム市街
 めざすCecilienhof 宮殿にはトラムでも行けるらしいのだが、いまは工事で運休しているという。D氏が駅前に立つ案内人から聞いて、わかった。鉄道路線図にはPark Sanssouci という駅がある。次回はぜひ、鉄道を使って訪れよう。
 現金が少なくなったので、宮殿に行く前にトラベラーズ・チェックを換金したい。両替所をめざすにはバスに乗る。
車内で、運転手から「一日乗車券」と購入。もちろんD氏に「2枚」と言って買ってもらう。連接バスなのに満席だ。下車して、通行人に尋ね、その指示に従って歩くと、ポツダムのブランデンブルク門に出た。


 門から教会までが、この街のメイン・ストリートなのだろう。11:00前なので、人通りは多くなかった。
 件の両替所に着く手前に、シティバンクがあったので、両替を頼む。もちろんD氏が。すると、手数料が100ユーロに付き10ユーロだという。「べらぼーめぇ、そんなにとられてたまるかいッ」てんで、両替所をめざす。こちらは5ユーロ、相場だ。途中でKaufhof を見つける。デパートというよりはイトーヨーカドーという感じのだ。トイレは無料だろうと予想したのだが、最後のコーナーを曲がって、そおっとのぞき込むと…、いたんです、トイレ番が。50kでした。鮮やかなえび茶のハンドタオルがあったので、クレジットカードで購入。そして考えた。ここで、チェックで支払えば、手数料は要らなかったのだと。

 昨日同様、辿る道の選択はD氏に一任してある。道がわからなくなるとD氏は、バッグを開け、書店の袋を取り出し、カバーを掛けたガイドブックを取り出し、めがねを外して見入る。合点が行くと、袋にもどし、バッグにしまう。何回か繰り返した。そして、バス停を見つけ、いよいよツェツィーリエンホフ宮殿をめざす。


ツェツィーリエンホフ宮殿
 高級住宅街という感じの街の一方通行の道路をバスは走り、宮殿は見えないところにあるバス停で下車。
 わたしもガイドブックをもってはいるが、ろくに読んではいないので、宮殿がどんなたたずまいなのか、期待に胸が弾む。会議場の写真はよく見ているけれど。
 林の中の道を行き、前が開けると、落ち着いたたたずまいの質素な建物が現れた。入り口の手前にホテルの玄関がある。ここに泊まって、この一帯を歩き回ったら癒されると思う。さらに手前に、セルフレストランがあった。昼時なので、昼食にする。好きなものを皿にとって、会計をする。そこにNTTパンことブレッツェルがあった。D氏は、もちろん手にとった。ニコニコだ。ゆっくり食べて、飲んだ。

 この宮殿は、ドイツ帝国最後の皇帝ヴィルヘルム2世の皇太子夫妻のために、1913-17年に建てられている。ベルリンは破壊され尽くしており、戦勝国首脳会談を開ける場所がないので、近郊のポツダムの地が選ばれたそうな。
 写真は宮殿の表側。正面は見学者入り口、左はホテル玄関。雲ひとつない、まさに快晴であった。


 左は宮殿の全景、右は中庭。真ん中の赤い星はゼラニウムで描かれており、ソ連国旗をイメージしているという。会談当時、ソ連に接収されていたそうな。どちらもパンフレットから拝借。


 入場料6ユーロを払い、音声ガイドを耳に当て、館内を廻る。日本語版がある。それだけ訪れる人がいるということだ。写真は会談場で、庭園側から撮影したもの。これもパンフから拝借。
 ここで、TrumanStalinChurchill の3人によって、日本の戦後処理が話し合われたのだなぁ。

 ポツダム宣言第10項:民主主義的傾向の復活強化、
           第12項:基本的人権の尊重、
           日本国民の自由に表明する意思に従い…政府が樹立されたら占領軍が撤収する。

 しかしね、音声ガイドでも、パンフレット類でも、日本に関することには一切触れていない。ドイツに関することしか説明していない。これでは、日本人がせっかくここに来ても、ポツダム会談の意義を知ることすらできないではないか! 日本語版なのですから、絶対に触れるべきです。

■ 日本語に英語で応えた日本人
 音声ガイドを返却して、売店でDVDやガイドブックなどを購入。E氏に頼まれた絵はがきも忘れはしない。ポツダムなのに、「ベルリンの壁」に関するものも売っていた。なんでこんな郊外に、ベルリンのものがあるの? これらはベルリンでも買えるだろうと判断した。ところがベルリンでは「壁に関するDVD」は売っていなかった。宮殿の近くにも壁があったことを、後刻、知った。壁の商品があっても不思議ではなかったのだ。
 この売店に、ガイド付きの10名前後の日本人実年グループがいた。通路の真ん中に立ちはだかっていたので、「失礼します」と割って入った。そうしたら、なんて言ったと思います? Excuse me.ですって! 日本語に対して英語で応じました! これは、よほど英語に馴染んでいるのでしょうか? でも、この場合なら、I'm sorry. ですよね。
 木陰のベンチで小休止。熱中症予防に水分は欠かせない。15:00をまわって、日差しはますます強くなる。


Sanssouci宮殿&庭園
 市街へ戻る路線バスの乗り場を見つけるのに苦労する。
 バスが到着し、D氏はガイドブック片手に、運転士と会話をしている。わたしは疲れ果てて、座席にいた。D氏に任せ、頼り切っていた。D氏によれば、途中でバスを乗り換えればSanssouciに行けるのだけれど、かなりの回り道なので、別の行き方を探しており、降りるバス停を確認していたという。バスを降り、しばらく歩くと、庭園に着けた。
 16:00近いというのに、日差しはいっこうに衰えない。わたしは木陰のベンチに直行。休んでいるうちに、多少、元気回復。庭園を歩き、宮殿も見学する気になった。Dさん、気長に待ってくれて、ありがとう。

 ここは、プロイセン国王フリードリッヒ2世(在位1712-86)の夏用住居として1745年に建設がはじまり、3年後に完成したという。
 写真左は庭園中央の噴水広場から宮殿を見る。中段の棚ではぶどうが作られていた。


 写真左は旧宮殿。右は中段から噴水を見下ろす。美しい空です。


 入場料は12ユーロ。入場時刻を指定される。デイパックは両肩で背負うように指示されたので、預けることにする(無料)。宮殿内部は撮影禁止なので、パンフレットから拝借。音声ガイド日本語版を耳に当て、部屋を廻る。
 右頁の中段は、ボルテールの間。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と言ったといわれる哲学者(1694-1778)だ。1750-53年、大王の討論相手として居留を許されていたそうだ。


 見学を終え、庭園とは反対側に降り、レストランの屋内席でお茶。テラスは直射日光が当たる席でも盛況だ。「ドイツ人は日光が好きなんだね」。[だったら、日本への観光客がもっと増えてもいいのになぁ?!]

 宮殿からはかなり離れたところにある屋根もないバス停でバスを待つ。18:00になっていた。太陽は西に傾き、しのぎやすくはなっていたが、それでも日陰に入りたいほどだ。ハウプトゥ・バーンホフ行きのバスが来る。座席が埋まるほどの乗車。D氏のつぶやき。「ハウプトゥ・バーンホフ行きのバスを見ると、安心するんです。道に迷っていても、あれに乗れば駅には行けるんですから」。なるほどね。


ケータイの威力
 何気なくレンタルケータイを開いたら、着信履歴がある。自宅からだ。齢80を超えた父や岳母、伯父伯母に何かあったのか、不安がよぎる。しかし車中なので「何か用か」とCメールを送る。「至急話がしたい。母屋のことではない」と返ってきた。人の生死に関わる問題ではないようだ。「バスを降りたらかける」と再返信。
 ハウプトゥ・バーンホフに着くのももどかしく、日本にダイヤルするが、呼び出し音が鳴らない。「そちらからかけて来い」とCメール。ポツダム・ハウプトゥ・バーンホフ南側玄関の片隅でケータイを握る。ほどなく、来たーっ!

 まず、なぜドイツからかけてこないかと詰問される。通話モードでダイヤルが反応しないと答える。
 何が起こったのかと尋ねる。うまく言えないので、次男に代わるという。他人のものにはさわれない次男が妻のケータイを持つなんて、一体何が起こったのだろう? 長男が犯罪に巻き込まれるかも知れない事態が、職場で進行していることを知る。妻に代わると、いまにも「返ってこい」と言わんばかりだ。12日間の予定のまだ三日目だぜ!
 弁護士に相談せよと言うしかない。友人の弁護士に、朝になったら電話せよと言うも、何をどう聞くのかわからないと言う。ドイツから電話して欲しいというわけだ。日本は01:00を過ぎたころだし、彼らの電話番号を持ってきてはいない。それに、日本の朝を待っていたら、眠る暇がなくなる。ここは我を通そう。
 ここはドイツ、見回しても日本語を解するのはD氏だけ。彼を気を利かせて、離れたところで撮影をしている。犯罪に巻き込まれないための対応策を尋ねるのだと、まくし立てる。怒気を含んでいただろうなぁ。堂々巡りをしたあと、同じ運動をしている弁護士の名前を出したら、それなら自身で話ができると言った。少し落ち着いたようだ。だいぶんD氏を待たせているし、話の続きはホテルに帰り着いてからとする。30分は話した。通話料はいくらだろう。

 予定ならば、オリンピック・スタジアムの世界陸上を観戦するはずだった。しかし変更だ。ホテルへ直帰する。帰路も、もちろん1等車だったが、撮影するゆとりもなかったし、車内・車窓風景は記憶が乏しい。高校教員で似たケースを体験しているはずのD氏に事情を話して、考えをまとめようとした。


 ホテルの部屋で、続きを話し、せっかく正社員の地位を得られたのにもったいないが、職場を去るしかないとの結論にいたる。また30分くらい話した。

 話が早く済んだので、D氏と食事に出る。といっても、ホテルの隣のレストランだ。もちろん、屋内席。「ドイツで食べるものに困ったら、これだ」といわれるウィーン風カツレツ=シュニッツェルを頼んだ。子牛の肉を薄くのばしてパン粉を付けて焼いた肉が2切れとたっぷりの野菜。レモン汁をかけたら、一段とうま味が増した。肉を食べきって、デザートも弾んだ。チップも弾んだ。もちろんビールも飲んだ。話題は大半が日本のことだったはず。

 22:00近くにホテルに帰り、昨晩の飲み残しのビールも飲み、床についた。(09.10.04記)

● ホテルについては、こちら