汽 車 と 私

   


* このエッセーは、1981年の作である。、妻が顧問をしていた某高校鉄道研究クラブの部員たちを中心に、“押しかけ部員”の資格で配布した。登場する時代は、1960および70年代である。当時の物価や世相、わたしの生活ぶりが多少なりともわかるように配慮して書いたつもりである。国鉄の末期から、機能本位ではない、居住性を考えた車両が作られるようになった。乗ってみたい車両がたくさんある。それはそれで楽しい。しかし大都市近郊と新幹線以外では利用客が減り続けているのが、気にかかる。


     T

 汽車の記憶は、4〜5歳からである。
 金川原(地名)の親戚は、汽車の汽笛がよく聞こえる。聞こえる度に「ポォーッ」とまねると、近所の子どもが「うっせどー」と叫んだ。
 どこかで、機関車の傍らに佇む機関士をみた。ナッパ服に、あご紐をかけて帽子をかぶり、手を腰に当てていた。それからのわたしは、学帽用のあご紐を野球帽に付け、手を腰に当て、機関士になったつもりでポーズをとり、得意満面であった。

 当時、実際に汽車に乗るのは大変だった。わたしと母は前夜、川岸の母の実家に泊まり、翌朝徒歩で五井駅へ。30分くらいかかっただろうか。父は家から自転車で来た。五井までのバスがまだ開通していなかったからである。
 07:40ころの蒸気機関車牽引・館山発両国ゆき10両編成は、千葉までは通勤客で混雑しても、その先はガラガラだった。おまけに、両国まで停車しないので、車内にはノンビリした雰囲気が漂う。1ボックスを3人で占め、万葉軒の「寿司弁当」をほおばっていると、列車が逆向きに走り出す。
 これが最初の驚きで、次々と新しい発見をすることになる。
 わが家では、室内と外界を隔てるものは障子若しくはガラス戸と雨戸なのに、客車はガラス戸、鎧戸、網戸と3枚もある! トイレの列車は垂れ流しだから、停車中は使用してはいけない。切符をもっていない人がいないかを調べる検札がある。欄干すらない房総西線の鉄橋と違って、総武線の鉄橋は列車を包み込むような大きな欄干がついている。そのため川に落ちる心配はないが、音が反響する上に、鉄骨に沿って視線を上下に動かせられてしまい、気分が悪くなる。あの幾何学模様は、爾来好きになれない。
 09:00過ぎ両国に着くと、国電や地下鉄、都電でその日の目的地に向かう。日本橋や八重洲のデパート、それに東京タワーにも行った。
 この客車列車は、1968年の木更津電化まで走っていたはずであるが、幼児期の数回をのぞいては、両国まで乗り通したことはなかった。



     U

 小学3年から5年まで、よく旅行をした。3年春、房総半島一週。4年夏、日光。冬、水上温泉。5年夏、伊豆半島である。
 3年生春休みの房総半島一週では、一般周遊券を使ったが、「五井から五井ゆき」の意味がわからなかった。

 4年生夏休みの日光行きは、台風の襲来と重なった。浅草駅。ロマンスカーは満席で、東武日光ゆき快速電車を待っていると、助役が「特急に余席があるから希望者はいらっしゃい」と叫ぶ。幾人かが助役の後を追った。台風で旅行を取りやめた人の席をこうして埋めたのだ。気の利いた措置であった。車内は冷房が効いており、座席は背もたれが倒れた。おしぼりとメニューが配られ、サンドウィッチをねだる。帰りに寄った浅草松屋でのスパゲッティ・ナポリタンとともに、はじめて食べたのであった。

 わたしの汽車好きを時刻表に結びつけたのは、4年生冬休みの水上温泉ゆきである。
 スキー客で混むから、2等座席指定か1等で行こうと父が方針を立てた。父が『コンパス時間表』を、叔父が『交通公社の時刻表』を与えてくれ、読み方を覚えた。そうして選んだのは、往路が急行「佐渡」で越後湯沢へ、一泊して復路は水上から準急行「ゆのさと」である。費用も自分で計算した。1等の大人で、「佐渡」は運賃1,100円、急行料金480円、座席指定料金200円の計1,780円、「ゆのさと」は、準急行料金240円の計1,340円となるはずであったが、その数字が交通公社千葉支店発行の緑地の切符に記されていたことが、なんともうれしかった。

 さて当日、09:00前に上野駅に着いたのに、1等指定の数席を除いてすべてがふさがり、立ち客が大勢いた。水色の帯を巻いた1等車に乗り込むのが晴れがましかった。わたしは列車の編成や停車駅とその時刻を書き出した紙片を手に、ひとりではしゃいでいた。少し年上の少年が熱心に本を読んでいたのを覚えている。のちに父は、「あの時は恥ずかしかった」と笑って言った。
 09:30、大きな衝撃とともに13番線を発車。優等列車の機関士は選り抜きだから、衝撃など感じないはずであった。高崎を過ぎて遅れだした。正確無比な運行が、国鉄の自慢のはずであった。はじめて食堂車に行き、はじめてコーン・ポタージュ・スープを飲んだ。特別急行「とき」とすれ違った。当時日本一の清水トンネルを抜けると、ほんとうに銀世界であった。大きなカーブで、2号車から先頭の電気機関車がみえた。たくましさを感じさせる重連であった。遅れのまま越後湯沢に着き、切符はすべて回収されてしまった。いまなら当然、なんとかして手元に残したはずである。駅前食堂で食べたかけそばは、40円くらいだったはず。
 帰路、水上始発の「ゆのさと」は2等車でも空いており、1等はもったいなかった。高崎駅の「だるま弁当」もお茶も容器は素焼きの瀬戸物で、弁当の150円は高価に思えた。

 4年生春休みには、特別急行「第一つばめ」展望車で大阪へ、その晩の急行「あかつき」2等寝台で帰京しようと父と相談した。往路は運賃2,360円、特急料金1.920円、特別座席料金1,650円の計5,930円。往路は運賃1,180円、急行300円、下段寝台800円の計2,480円となる。この数字に母は難色を示した。折悪しくも祖父の相続税納付時期と重なり、この計画はついえさった。

 5年生夏休みの伊豆半島への旅立ちは、13:24発準急行「東海4号」大垣ゆきであった。東京駅14番線には、すでに乗客の長い列ができている。列車入線までに列はさらに長くなった。あせって乗り込むと、デッキのすぐそばではあったが、なんとか座席を確保できた。窓はいっぱいに開けられ、扇風機が回され、扇子が使われていても、それでも暑い。
 同じホームの反対側15番線に、13:00発特別急行「はと」大阪ゆきが入線してきた。わたしの座席からは2等車しかみえなかったが、乗客のひとりが席について上着を脱ぐと、半袖のYシャツだった。「特急に乗るような人は、夏でも背広を着ているんだね。」 父が隣のボックスから声をかけてきた。その父は、半袖の開襟シャツで、中折れ帽をかぶっていた。立ち客のいない、冷房の効いた列車での旅と、“特別急行”という名に対する羨望の眼を尻目に、「はと」は滑るように発車していった。

 この旅行のあと大学に入るまで、これといった旅行はしなかった、高校の修学旅行を除いては。しかし開業5年目の新幹線に、さしたる感慨もなかった。時刻表はしばらくの間毎月購読していたが、受験勉強のために処分してしまった。



     V

 大学では、サークル合宿も現地での集合・解散が多い。途中は自分の思いのままである。小学生時代とはすっかり変わってしまった列車体系を収録した時刻表ではあっても、頁を繰りながら計画を立てていると、あれこれと昔のことが思い出された。

 大学生最初の旅では、何よりもまず“特急”に乗った。1972年9月。あの「はと」から9年が経っていた。“準急”がなくなり、学生も“急行”に団体乗車するようになっていたが、それでも“特急”利用はまだ珍しかったと思う。

 当時の列車の多くは、座席の一部を3週間前に発売し、残りを1週間前に発売していた。乗車22日前、交通公社千葉支店で「9月14日、上り『あずさ3号』松本→新宿、普通車1枚」を申し込み、翌日14:00の発売を待ちきれずに飛んでいった。売り出し直後でまだ整理ができておらず、しばらく待たされたが、やがて希望どおりに印字された指定券を手にした。はじめての自分が使う特急券であり、はじめてのマルス券であった。

 白馬始発の「あずさ3号」は、順法闘争のため、松本到着時点で30分以上遅れていた。車両は、あの「はと」と同じ「こだま」型である。ところが電車特急のシンボルである先頭車のボンネット部分は凸凹で、塗装もムラだらけである。ロマンス・シートも傷みがひどい。そのうえ遅れはとどまるところを知らず、新宿に着いたときには1時間40分に増幅していた。これがはじめて乗った、あこがれの“特別急行”であった。

 わたしの汽車旅は、あくまでも目的地があって、そこへのルートの中でいろいろ試みるのが常であったが、いつしか列車に乗ること自体が目的の旅もするようになった。代表的なのは、「富士」のお別れ乗車である。

 「富士」は、1912年6月15日に運行をはじめた「下関ゆき1・2等特別急行が先祖である。1944年3月31日まで、日本を代表する列車であった。寝台特急「富士」は、それから数えて3代目である。個室ロネと食堂車を連結している点で「あさかぜ」や「はやぶさ」と遜色はない。だが日豊本線という、いわば裏街道を走る点で、いささか格落ちである。そんな「富士」ではあっても、最長距離を走る点では、他の列車は遠く及ばない。その点だけで、かろうじて先祖の面目を保っていた。
 それなのに1980年10月1日のダイヤ改正で、その最後の面目までもがついに失われるという。それなら乗って、最後の勇姿を見届けなければなるまい。そう考えて、9月29日、18:00、西鹿児島ゆき最終列車に乗ることにした。下りを選んだのは、最長時間走るからである。

 東京ではお別れ式があり、ホームは賑やかだったが、車内はひっそりしていた。乗車率は三分の二ほど。はじめて乗った二段ハネは、寝台としては電車ハネの下段より劣るが、座席としてはゆったりしている。思い切り足が伸ばせるのがいい。視野が限られるのが残念だが、それは寝台車の宿命であろう。
 撮影し、録音し、車掌にサインをもらい、車内販売員とも仲良くした。相席の客は3人ほど交代した。上京の際いつも「富士」を利用するという婦人、出張で全国を駆け回り、さまざまな列車に乗っている生保従業員などであった。それぞれに「富士」の由来とわたしの乗車の動機を説明し、相手の体験も聞いた。
 9月30日18:03、「富士」は1598.7qを24時間3分かけて走破し、西鹿児島に旅装を解いた。疲れた体を休めるかのように、西鹿児島との別れを惜しむかのように、いつまでも止まっていた。駅での公式行事はなかったが、少数の熱心なファンは、いつまでもそばを離れなかった。

 鹿児島滞在1時間35分にして、わたしは電車寝台「明星8号」新大阪ゆきの人となった。翌10月1日早朝、岡山で新幹線に乗り継ぎ、昼に東京着。そのまま授業に出た。まさに、列車に乗るためだけの九州行きではあったが、自分で自分なりの理由付けをし、自分なりの意義を見出して実行した旅としては、このうえなく充実した旅であった。



     W

 時刻表片手の旅をくり返していると、鉄道についてのいろいろな知識が身につく。旅客営業規則に強くなる。指定券確保のコツも自ずと会得できる。車両の種類やその運用の仕方もわかってくる。ダイヤの妙味もわかってくる。種々の切符が手元に残る。これらを本格的に追求するのは楽しい。趣味の世界ならではのものだ。
 だが、趣味を趣味として終わらせるのではなく、もっと広い視野をもちたいと思う。

 近ごろの国鉄旅客車は、特急といえどもゆとりとムードに欠けている。昔は、たとえば初代「富士」のころはどうだったかが知りたくて、当時の写真を求めて交通博物館や古書店を訪ね歩いた。
 そんなとき古書店で、懐かしい本と再開した。朝日新聞社編『日本の鉄道』(1960年)である。この本は小学校の図書室にあった。客車特急「はつかり」の機関車添乗記が気に入って、長い間ひとりで“借り占め”ていた。そのうちに書き込みをはじめた。悪いことはいつかバレる。両親に発見され、涙ながらに書き込みを消した。消えないものもあった。それを発見され、咎められやしないかとヒヤヒヤしながら返却した。そんなことが想起されて、即座に購入した。

 「はつかり添乗記」もよいが、いま、目を引くのは“クロ151”の車内写真である。憧れるだけで、ホームから車内をのぞく機会すらなかった車両だ。写真では、内装の細部までは不明だが、現在のどんな車両よりもゆとりやムードがありそうである。この車両はどんな風に活躍したのだろうか。なぜ今、このような車両がないのだろうか。これらの車両が製作され、運用された時代は、どんな時代であったのだろうか。その時代、鉄道は社会においてどんな役割を期待され、そして果たしていたのであろうか。

 こうした疑問によって、目は過去に向く。では外国ではどんな状況だったのか。目は外にも向く。このようにして考えられる当時の鉄道の姿からだけでも、現在の鉄道がかかえる問題のうちのいくつかが浮き彫りになる。めぐりめぐって、目は現代に向く。古い一葉の写真が現在の鉄道の姿を照らし出し、現代という時代、現代の社会を考えるひとつのきっかけを提供してくれるのである。

 わたしにとって汽車は、あるときは、当時文化的と考えられていたものを実際に見聞しに行くための手段であった。もの心ついたとき、すでに走り、それに乗っていた汽車は、文明そのものではなかった。あるときは興味の対象そのものであった。そして今では、それと併存しつつも、人間を、そして社会を考えるための手段ともなっている。
 鉄道も、徐々にその姿を変えている。しかし、わたしの鉄道の原風景は、「ポオーッ」と汽笛を鳴らし、黒煙をあげて走る蒸気機関車である。  <了>