2月末、三泊四日で沖縄に行って来ました。
 夏・冬の静岡巡業は、新幹線移動とホテル暮らしとで確かに旅ですが、仕事です。学会の折に観光もしますが、これも仕事がらみです。本当に久しぶりに「仕事と関係のない」旅をしようと思いました。
 しかしタイトルからわかるように、戦争→憲法第9条と、結局は仕事がらみになってしまいました。「戦争のできる普通の国」をめざす最近の政治情勢は、気になります。01年度の講義の導入は「満洲棄民」でした。学部のころ「戦争体験を君たちに引き継ぐのがわたしの仕事」と語った教員がいました。いまその人と同じ年齢になると、「聞いた体験」を次の世代に伝えたいと考えています。
 鉄道趣味の先達である友人が、最近はイヤに飛行機に肩入れしています。テレビCMでも「早割」だの「チケットレス」だの「シャトル便」だのと、航空会社の話題が流れています。久しぶりに乗ってみたくなりました。
 飛行機で行くとなると、頭に浮かんだのは中国・韓国・沖縄。気候や言葉の問題から、沖縄を選びました。
 
Hと行きました。
 ここ2年間家に居るFを引っ張り出したかったのですが、彼の返事は「オレはまだ、ここでやり残したことがある」というものでした。飛行機=墜落というイメージをもっているのです。  


        
 そこで、Hに声をかけました。戦跡めぐりなんて詰まらないと言われることを覚悟していたのに、「日本史の先生が、『一度は見ておけ』と言っていた。イイ機会だから行く」と、あっさりとのってきました。
 「よし、それなら」と事前学習の資料を渡しましたが、それにはあまり関心を示しませんでした。ガッカリ。
 
米軍の侵攻と日本軍の撤退の経路をたどりました。
 インターネットを通じて紹介を受けたガイド(=個人タクシー運転士)さんの勧めにしたがって、米軍が上陸した本島中部からスタートしました。上陸した読谷村の海岸、住民が避難し、しかし明暗を分けたシムクガマチビチリガマ嘉数高地(宜野湾市)、首里城の地下に作られた第32軍司令部壕南風原陸軍病院壕アブチラガマ(玉城村)、ひめゆりの塔白梅の塔、米第10軍司令官バックナー中将死亡の地、そして摩文仁の丘(糸満市)へ至ります。

      

 20万人の犠牲者というけれど、「刻銘するとこれだけの分量になるのか!」。民間人も軍人も、日本人も韓国人もその他の外国人も分け隔てなく慰霊する平和の礎【われわれの背後にみえる同心円上の碑】の規模に圧倒されます。
 第32軍司令官と参謀長が自決したこの地を選んで、多くの都府県は出身将兵の慰霊碑を建立しています。摩文仁では将兵が勇敢に戦ったことをたたえる碑ばかりで、住民の犠牲に言及するのは嘉数高台にある「京都の塔」だけだと聞きました。周辺の住民が遺骨を収集・埋葬した「魂魄の塔」から遺骨を持ち出して厚生省がのちに作った国立沖縄戦没者墓苑も、摩文仁のこの一画にあります。太田県政から稲嶺県政になって、平和祈念資料館のジオラマでは、友軍兵士の目つきと銃剣の矛先が変化したそうです。
 摩文仁から喜屋武岬までの一帯は沖縄戦跡国定公園に指定されています。切り立つ断崖の下には紺碧の太平洋が広がります。ここで戦闘があったんです。「海を埋め尽くす艦船」、「鉄の防風」「集団死」というけれど、まだまだ想像の世界です。
 日本政府・日本軍の無責任さ加減には本当に憤りを感じるけれど、「戦争になったら人間は尋常ではいられない。だからとにかく、戦争を起こしてはいけない!」。戦跡をめぐれば、それだけは誰にでもわかります。問題はそのあとです。戦争を起こさないためにはどうするか、その方策をめぐって意見が分かれるのです。その違いを、憲法第9条に引きつけて理解させること。それを講義でどこまでできるか。おおいに工夫しなければなりません。
 
沖縄といえば、米軍基地の存在を忘れることはできません。
 日本国土の1%に満たない沖縄県に、日本にある米軍基地のなんと75%が集中しています。
 嘉数高台の展望台からは普天間基地がよく見えます。座喜味城趾からはゾウの檻=楚辺通信所が、基地の中に立てられた読谷村役場が、沖縄国体のソフトボール会場となった野球場が見えました。役場には「憲法第9条の碑」がありました。
 安保の丘からは嘉手納基地に離発着する軍用機を眺めていました。尾翼が二つのF15、垂直離着陸機ハリアー、旅客機改造の空中給油機、ギャラクシーの次の輸送機、普天間基地から弾薬を受け取りに来たヘリなどなど。地元テレビ局も撮影しています。ガイドさんは、爆音からも機種を識別します。機影も素早くみつけます。
 時の経つのを忘れていましたが、ふり返るとHが警備の警官と話をしていました。「ヒマか?」と、向こうから声をかけてきたそうで、大人に仕方なく付き合っている子どもに見えたのでしょう。
 国道58号線の両脇はほとんどが米軍基地で、Yナンバーの車が目立ちます。一緒には走りたくないと、みな思っているそうです。
 
いわゆる観光と呼べるのは、残波岬、座喜味城趾、首里城くらいでしょうか。
 そうそう、朝の連ドラ『チュラさん』のロケ家屋を見、石畳の道を歩きました。あとは戦跡と基地ばかり。それでも時間切れで、健児の塔と海軍司令部壕へは行けませんでした。アブチラガマも、ライトと長靴の店が休みで壕内には入れませんでした。
 Hは、ガマに入っても出口までは到達できなかっただろうと言います。事実を、彼なりに受けとめたための言葉だと思います。ガイドやわたしの説明もよく聞き、疑問も口にし、意見も言いました。若いのに感心だと、ガイドさんも言ってくれました。
 Hが一人歩きをしたいというので、三日目は国際通りで分かれ、那覇の街をそれぞれに歩きました。わたしは県立博物館を見学したあと、郵便局めぐりをしました。ハヤオは、修学旅行の長崎では迷いまくったそうですが、地図を頼りに夕方にはホテルにたどり着けました。
 宿泊したロワジールホテルは、二階に大浴場があります。フロント回りは都市ホテルなのに、ここは完全に温泉旅館。朝食会場に当てられた宴会場では、スリッパの客も珍しくない。肩の凝らない旅館?でした。
 
飛行機も楽しいな?!?

      
          【JAL904便はディズニー塗装のJA8084】

 1979年以来の搭乗でしたが、空港の手続に戸惑い、客室での案内が簡素化され、乗務員の言葉遣いがずいぶんとフランクになっているのに驚きました。それだけ飛行機が大衆化したということなのでしょう。
 初の一人旅で、ソウル乗り継ぎのクライストチャーチ往復を体験したHは、機内でも余裕の態度でした。しかし、鼻の乾きには難渋していました。
 わたしは、友人から寄せられた飛行情報をはじめとする情報を点検すべく、窓から外を見、ガイドブック類をめくり、せわしく過ごしました。新幹線よりははるかに揺れが少なく、乗り心地はよいのですが、たまの揺れ・振動が不安をあおります。気を紛らわすために、忙しくしていることが必要でした。
 東京・那覇はラックレートでは5万円を超えます。しかしツアー料金は三泊のホテル代も含めて4万円。どう頑張ってもツアーには勝てません。不思議な現象です。
 次は航空会社、決め手はマイレージクラブ。わたしがよく利用するホテルは、JALのマイル加算施設になっていたからです。
 しかしマイルは貯まるでしょうか? イヤ、貯めましょう。そのためにも、残した戦跡の見学とビーチを堪能しに、夏も沖縄に行くぞ〜ッ!!
 今度は、誰がつきあってくれるかな? (了)