◆ 戦争体験を語り継ぐ

 学部のころ、ある先生が「戦争体験を君たちに伝えることがわたしの使命である」と述べられた。当時のわたしには、自分が同じことを言うようになるとは想像できなかった。当時のわたしは、人権の歴史やプライヴァシーの権利の生成過程に興味をもち、与野党対立の先鋭な第9条問題からは距離を置いていたからだ。大学院でもそのスタンスは変わらなかった。

 それでも「法学(日本国憲法を含む)」の講義を担当するようになると、第9条の立法過程や解釈改憲の推移を避けては通れない。年を重ね、憲法の立場から近代日本の歴史をとらえ直す講義を試みるようになった。「憲法」ではなく「憲法史」の講義である。

 高校である程度の歴史を学び、美術で自分を表現したいと望む学生たちは、想像力を働かせて戦争イメージをつくっていたようだし、日本国憲法の平和主義と日米安保体制との矛盾、政府の憲法解釈のまやかしを理解してくれたレポートや答案がたくさんあった。

 中規模の総合大学に移ってみると、こちらの言わんとするところを理解してくれる学生は少なくなった。アメリカ支援の名目で「戦争のできる普通の国」になるための法案が次々と成立し、日本国憲法第9条が骨抜きにされているとき、また人権侵害侵害の危険性の大きい法案が次々と成立しているとき、わたしの気持ちははやるばかりであった。

 だが、学生は戦争そのものをイメージすることができなくなっていた。世の中が右旋回し、小中学校では戦争をテーマにした授業をすること自体が異端視されるようになっている。教科学習を受験のため、単位取得のためとしか考えない雰囲気が蔓延している。高校で日本史を学んでこなかった学生も多い。だから無理からぬことではある。しかし、「加害者」としての戦争をどうとらえるかの方法や実践が深まる以前に、「被害者」としての戦争をさえ知る機会がなくなっているのだ。

 かくして「戦争を知らない子どもたち」よりももっと「戦争を知らない若者たち」が無関心でいるうちに戦争法規がつくられている。それによって動員され、米軍支援のために戦地へ送られるのは若者たちなのだ。

 そこで講義は、戦争の実相を知ることからはじめる。
 山口のF君や広島にいたM君から示唆され、手ほどきを受けてテレビ番組を録画してきた200本近いビデオテープがある。これまでの講義では法規範の解説ものやドキュメンタリーを多く使ってきたが、いまでは映画もドラマもアニメも使う。その際、ここを見てほしいというポイントをつかませるために、内容のチェックリストも配布する。だから1本のビデオを流すには事前に3〜4回の試聴をくり返すのが常である。

 番組を選ぶ際には、「昼食の前だから残虐なシーンは避けようか」などと考えることもある。だが沖縄・石垣島出身の学生が「実相を伝えるには、事実をありのままに提示するのがよい。高校では慰霊の日には、ウジのわいた死体の写真など、エグイものも展示していた」と教えて
くれた。

 番組を導入や素材として、明治憲法の構造、軍部、政党、メディア、民衆の立場などについて考える。03年度はここまでで前期が終了した。
 後期は、ポツダム宣言受諾、新憲法の制定、解釈改憲の歴史をたどる。学生たちに最終的に考えてもらいたいことは、国家の政策として戦争という手段を選択するかどうかである。

 「戦争には反対だ」「二度と起こしてはならない」という点で一致するのはたやすい。だがその先、国家の政策として戦争という手段を放棄するかと問われれば、意見は分かれることだろう。今春、アメリカの対イラク先制攻撃の直前、週末には反対運動が盛り上がった。だが6月6日の武力攻撃事態対処法成立時には、反対運動はさほど盛り上がらなかった。メディアが報道しなかったばかりではないだろう。

 これらの反対運動の盛り上がりぶりから、戦争には反対だが、「国家の手段としては放棄しない」という考え方を見てとることができると思う。世論としてはこちらの方が優勢なのだろうか? 

 だが、そう考える理由は何だろう? 「経済大国になったから国際貢献だ」「備えあれば憂いなし」「ミサイル攻撃の危険が差し迫っている」などの宣伝に踊らされてほしくない。時代遅れだと排斥するのでなく、戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認を掲げる憲法第9条を正確に理解した上で結論を出してほしいと思う。

 近い将来にあるかもしれない「憲法改正国民投票」においては、平和憲法をふまえて投票してほしいと願う。
 そのための第一歩は戦争の実相を知ることだ。わたしも学びつつ、学生とともに考えたいと思う。

03.08.31記