1997−1998:A Year In Pop Music
| 1文化的中心のない時代 . | 2.シングル・チャートの復権 | 3.ブラック・ポップ | 4.エレクトロニカのハイプ |
ポップ・ミュージックの90年代は、おそらく「post-whatever
era」と呼ばれること になるだろう。ポストロック、ポストパンク、ポストグランジ、ポストヒップホップ、
ポストハウス、ポストテクノ....何であれ「〜以後」の時代。実際、90年代には、はっきりとした文化的な焦点もなければ、中心となるムーヴメントも存在していない。
かつて、ロバート・クリストガウは、「60年代のロックンロールはカルチャーだったが、70年代のそれはサブカルチャーだった」と語った。ロックンロールはひとりひとりがその音楽に反応する以上の何かを感じさせるものだ、という前提ないし幻想を人々が共有していた60年代、大雑把なサブスタイルとしてのジャンルは存在していたものの、人々はモータウンやスタックスのソウルから、ビートルズ、ボブ・ディラン、サイケデリックまで、分け隔てなく寛容に受けとめた。ロックンロール・ラジオは、無差別で雑多なヒット曲の巣窟だった。しかし、お芸術ぶった腐れスノッブたちが、注目に値する「優れた」ロックを選別しはじめ、ソウルを「コマーシャルだ」と非難するのがヒッピーの決まり文句になった60年代末に、聴衆の分裂は始まった。70年代になると、たとえあるレコードがマルチプラティナム・セールスを達成したとしても、それは数百万の人々がそれぞれバラバラに反応しているという単なる事実でしかなくなった。ロックンロールは、アート・ロック、シンガー・ソングライター、カントリー・ロック、サザン・ブギー、ファンク、ディスコ、パンクといったジャンルに分裂し、それぞれのジャンル(よりイデオロギー的な親類、ムーヴメントほど有害ではないにせよ)が聴衆を選別することを通じて自らを肯定しはじめた。80年代は、70年代の分裂が生き方にまでなった時代だった。ヒップホップからインディ・ロック、ヘヴィ・メタルからニュー・エイジまで、さまざまな部分集合が出現し、それぞれの音楽にそれぞれの態度を投影して、そこに帰属する者たちに共通の価値観をあてがう一方、マス・セールスを上げるポップはもはや単なる音楽ではなくひとつの資本形態とみなされるようになり、音楽のポピュラリティの基盤は聴衆から市場へと変質した。90年代とは、このような変化の後を受けた時代なのだ、ということを確認しておく必要がある。
今の音楽だけでなく、それと肩を並べて過去の考古学がCDショップの棚を飾るようになって、音楽のオプションの幅がかつてないほど拡大し、ケーブルTVステーションからインターネット、CD−ROMからファンジンまで情報を供給するチャンネルが多様化した90年代は、分散と細分化がさらにとめどなく亢進していく傾向にある。ポップ音楽がコミュニケーションの形態や生き方とも関わるようになった結果、その関わり方そのものに著しい個人差が生じており、なにかひとつの価値観のようなものを多くの人が共有するような状態がますます成立しなくなるのは自然のなりゆきなのだ。
情報が少ないために誰もがそれに飛びついた時代には、音楽専門誌を中心に概念上のコミュニティのようなものが成立することも可能だったが、アメリカに数えきれないほどのオルタナティヴ・ロックやヒップホップのファンジンが誕生したように、活字中心のコミュニティのようなものが成り立つのは、もはやジンやミニコミの次元でしかなくなりつつある。アニー“ファック・ユー”ディフランコのようなインディ・アーティストたちは、マスではなくファンを重視し、アリーナではなく小規模のライヴハウスで彼らとコミュニケートしようとする。クラブ・カルチャーにしても、様々な人種、民族、階層からなるニューヨークやロンドン、パリのようなコスモポリタンな都市では社会的な他者のパーティとしての機能があるにせよ、それ以外の場所では、ミドル・クラスが音楽的な趣味や嗜好を共有する無数のカルト・サークルを形成している。
一方で、レコード会社や音楽雑誌のような文化産業は、無数のサブサブサブカルチャーが渦を巻く拡散した状況に、一極集中型の中央集権的な構造を維持すべく、偽りの中心を捏造しようと、「〜が時代の音だ」という相も変わらぬ愚劣なハイプにいそしみ、以前は均質化されたマス・カルチャーとの違いを示していたはずの「インディペンデント」、「アンダグラウンド」、「オルタナティヴ」といった形容を、口当たりのいい空虚なマーケティング・タームに変質させた。
もちろん、ポップ音楽は、その時々の「瞬間の言語」であり続けている。それを耳にすることでもたらされる満足感は、それがポピュラーであるというステイタスと、いまでも何らかのかたちで関連していることも間違いない。しかし、それは、単なるトレンドではなく、多様な文化形成のたゆまざる過程として捉えねばはならないのである。
97年のアメリカの音楽シーンで、なにか際立った出来事があったとすれば、それはシングル・チャートの復権に尽きるだろう。もちろんチャートが中心としての役割を果たしていたわけではない。ただ、画一化されたサウンドに支配されるのではなく、多様な価値観が行き来する公共空間、というロックンロール・ラジオの黄金時代以来久しく失われていた本来の機能をシングル・チャートが回復したのである。
MTVとモダン・ロック・ラジオ・フォーマットがシングル・ヒットを蘇生させ、ヴァース/コーラス/ヴァースのシムプルなソングフォームが、好景気の追い風を受け、グランジやギャングスタ・ラップの宿命論的なシニシズムにうんざりしていた人々に、猛烈なフックのスリルをもたらした。
ジャクスン5のポップ・ソウル・クルーン、アフロ・ポップのギター・アルペジオ、リフ・ロックを交配したハンスン“MMMBop"は、“I
Want You Back"に負けないくらいやみつきになるティニーバップ・シングルであり、“Mmm
bop,ba duda dop..."というフックは、リトル・リチャードの“Wopbopaloobopalopbamboom"に匹敵するロックンロールの呪文となった。スパイス・ガールズ“Wannabe"は、ヒステリックなフェミニストの潔癖症とも、ロック芸術主義者の潔癖症とも距離をおいた「ガール・パワー」讃歌。チャムバワムバ“Tubthumping"は、“I
get knocked down!But I get up again!You're never gonna keep me down!"というフックが社会的な効力を発揮するアナクロ・パンク宣言。ハッピーなネオ・スカ・リヴァイヴァリストのスマッシュ・マウス“Walkin'on
the Sun"やシュガー・レイ“Fly"。ポップ・アイロニストのベン・フォールズ・ファイヴ。スウェーデン出身のブリル・ビルディング・ポップ・リヴァイヴァリスト、カーディガンズも、“Lovefool"でその音楽スタイルの生誕の地に上陸を果たした。
“Never Say Never"をヒットさせたLAのバンド、ザット・ドッグのサード・アルバム《Retreat
From The Sun》は、アメリカのロック批評家が完璧なデビュー・アルバムの例として挙げるマーシャル・クレンショウ
《Marshall Crenshaw》に匹敵するピュアな白人ロックンロール・アルバムだ。ソングクラフトに長けたアナ・ワロンカーは、チューンフルになるのをあえて避けようと、ヴァース後のコーラスを省いたりするが、明快な会話体の詞と情緒のないメロディをタイトなビートに委ねている。ロックンロールとは、ビート・オリエンテッドな音楽であり、メロディやリリックはタイトなビートがもたらすディシプリンに従って、はじめて息吹を与えられるのである。
これらのシンプルなロックンロール・シングルの復権と、多くの批評家が97年のベスト・リイシューに選出したハリー・スミスの《Anthology
of American Folk Music》にはシンクロニシティが見出だせる。40年近く昔に「フォーク・リヴァイヴァル」を触発したアンソロジーに収められた曲の多くは、1930年代に非主流市場向けに録音された商業音楽だが、たとえば、アンクル・デイヴ・メイコンの“Peg
and Awl",“A Lazy Farmer Boy",“Moonshiner's Dance",“King Kong Kitchie
Kitchie Ki-Me-O"といったノヴェルティ風情のオールドタイム・カントリー・ナムバーは、“MMMBop",“Tubthumping",“Wannabe"のまごうかたなき祖先である。スパイス・ガールズやハンスンは、シンプルでエネルギッシュなソングフォームというこの伝統が進化した成果なのである。
シングル・チャートが復権したとなれば、アルバム志向のファンク作家たちが君臨した70年代を除くと、一貫してシングル・オリエンテッド・ミュージックであり続けたブラック・ポップは、当然のように活気づき、90年代で最も華やいだ一年となった。あのマライア・キャリーさえもが、エキサイティングなレコードを作ったのだから!!
ブラック・ポップの場合、30年前にジェイムズ・ブラウンがヴァムプのみのソングフォームを創出して以来、ヴァース/コーラス/ヴァースの伝統的なソングフォームは必ずしも尊重されないようになった。しかし、リズミックなディシプリンにのっとった音楽という価値観をアメリカ大陸にもたらしたアフロ・ディアスポラの末裔たちが、ビートを軸にタイトなサウンドスケープを成型する感覚を失うはずもない。
なかでも驚くべき革新的なレコードは、ティムバランドとミッシー・エリオットのオノマトペ・ダブ・ファンク・プレートだった。サムプルに頼らずにビートを組み立てる彼らは、位相の歪んだダブ・サウンドスケープをミニマリストの構造感覚で成型した「オーラル・アーキテクチュア(aural
architecture)」とでも呼ぶしかないソングフォームを確立した。そのサイバー・ファンクは、優れたブラック・ポップの例に漏れず、アフリカン・アメリカンの伝統とそのモダニティとの間の緊張を体現している。
「ルーツ」というコトバを抽象的なドグマとして金科玉条のように振り回し、ポップ音楽をまるで民俗音楽のように扱う評論家もいるが、どんな音楽にもルーツはあるに決まっている。しかし、そのルーツとの関わり方、反映の仕方は一様ではないし、むしろ重要なのは、その伝統とモダニティとの間の緊張であることを全く理解していない。そもそも、民俗音楽にしたところで、なんらかのかたちでモダニティとの接触が起こるならば、その緊張が音楽に反映されないはずがないではないか。
それはともかく、アリヤー“One in a Million"、ミッシー・エリオット“Rain(Supa
Dupa Fly)",“Sock It 2 Me"、ティムバランド&マグー“Up
Jumps Da'Boogie"と、弾性のあるベースとクリック・ドラムが催眠的な、ティムバランドのルードボーイ・マシンガン・ビートは、パフ・ダディ“It's
All About the Benjamins"やバスタ・ライムズ“Put
Your Hands Where My Eyes Could See"に盗用されただけでなく、エリカ・バドゥ“On
and On"やジャネット“Got Til It's Gone"、マライア・キャリーのエロティックな“Honey"もそのクリック感覚を共有している。
ハードコア・ヒップホップのリアリズムを愚弄するように、抽象的な弁証法を駆使するミッシーと、彼女より伝統的で、ブルーズのトナリティとクプレットの形式を操る神秘的なアフロセントリスト、エリカ・バドゥは、尊大でもなければ、自分を卑しんでもいないポジティヴな女性像に叡知とユーモアを織り込んだ。ジャネットは、持ち前のビート感覚に加え、ニュアンスと声色の微妙さを習得し、彼女より能力的に恵まれたシンガーたちよりもはるかに実のあるコンセプチュアルなアルバムを作った。
彼女たちのみならず、ライオット・ガール・バンドからスパイス・ガールズまで、ここ数年の女性アーティストの活躍に、若い女性たちは自己イメージを逞しくした。肩をいからせず、女性であることを楽しもうとするこのソフト・フェミニズムに対し、黒人男性ヴォーカル・ポップは、自分の肉体を彼女の肉体に重ねるLSG“My
Body"から、ネクスト“Butta Love"、アッシャー“You
Make Me Wanna..."、ブライアン・マクナイト“You
Should Be Mine"、サムシン・フォー・ザ・ピープル“My
Love Is The Shhh!"、マイルズトーン“I Care'
Bout You"、そして、百万人女性大行進に協賛までしてしまったH・タウンの“Woman's
Anthem"まで、肉欲の次元で真摯な男性のセクシュアリティのイメージを提供し、R&Bチャートのみならず、ポップ・チャートの上位にもクロスオーヴァした。ソフト・フェミニズムに対する、いわばソフト・マチズモである。
女性たちのお眼鏡にかなう肉体を提供できる、と自信たっぷりに誓うこれらの曲は、自分の元に戻ってきてくれと懇い願う「お願い」モードのソウルでも、嘆きを意味するバラッドでも、ましてやソウル・バラッドでもなく、ただスロウ・ジャムとしか呼びようがない。ポストファンク・ファルセットを駆使するサムシン・フォー・ザ・ピープルを除くと、彼らは、声の筋肉をアスレチックに誇示する形式として曲を解釈していく(そんな声のエクシビションの媒体であるために、楽曲のクォリティは著しく低いが)。「ソフト・マッチョR&B」とでも命名したくなるこの公式は、同じような肉体の持ち主だという自己イメージを得られるために、男の子たちにも支持される仕掛けだ。
教会の衰退とラップの隆盛のために絶滅すると思われていたドゥワップ以来のR&Bヴォーカルの伝統を維持するこれら男性ヴォーカル・ポップは、ファンク革命以降のR&Bとしては、唯一、歌謡性が色濃く残ったサブ・ジャンルである。それだけに、アフリカン・アメリカンの伝統とモダニティの緊張が乏しいか、さもなくばうまく反映されないため、音楽的なスリルに乏しいのは否めない。「家族の価値」を重視する保守中道のクリントン時代に符合するかのようにチャートを支配してきた現代のスティーヴン・フォスター、ベイビーフェイスの感傷的なメロドラマが、ネオコンサヴァティヴ・ブルジョワジーのパーラー・ソングであるように、結局、このサブ・ジャンルでは、セーリヌ・ディオンのMORやリーアン・ライムズのカントリーポリタンと同じく、こってりとした情緒をなによりも優先する機能が重視されているからだ。
むしろ、カントリーのガース・ブルックスと共に、スペシャリスト・マーケットの音楽としては未曾有のクロスオーヴァ・サクセスを達成したゴスペルのカーク・フランクリンのほうが興味深い(ゴスペルが草の根音楽であることを考えると、ショウビズ・カントリーのブルックスよりも、ブルーグラスのアリスン・クロースの成功と比較されるべきかもしれない)し、その文化形成は見過ごされるべきではない。
バンドリーダーとしての才能と、ステージで輝くカリスマ性を兼ね備えた、この「ファンクを神に捧げたジョージ・クリントン」(グレッグ・テイト)は、民衆主義的なクワイアの賛同を引き出しつつ、ソロ・ヴォーカルの有り難みで罪深き者たちを圧倒するゴスペルの思慮深い戦術を、ヒップホップのループや、バスタ・ライムズやシャバ・ランクスのヴォーカル・リフの引用と接合した。これにより、フランクリンは「逆レイ・チャールズ」(キャロル・クーパー)、すなわち、40年前にゴスペルの形式をポップに応用するコンセプトを確立したチャールズの逆を成し遂げた。貧困、両親の離婚、私生児のためにトラブルを抱えたティーネイジャーの琴線に、同様の背景からはい上がった彼のジープ・ビートにのったプリーチ“Stomp"は触れた。また、彼の導きで、かつてのアル・グリーンのようなゴスペルへの転向をライヴ・ステージ上で表明したR・ケリーも、“I
Believe I Can Fly"で、信仰のない世界の虚しさを歌い上げた。
97年は、アメリカのメディアが、初めて「ヒップホップは死んだ」と宣告した年でもあった。もっとも、これまで何度となく「ロックの死」が宣告されてきたように、これはイソップ童話の狼少年のようなものだが、85年から89年にかけて絶頂期を迎えた後のヒップホップが、メインストリームに取り込まれていくにつれ、次第に密度が薄くなってきた印象は否めない。ギャングスタ・ラップのショウビズ・アウトローたちが暴れ回って以降、メイジャー・レーベルと破格の契約を結ぶようになったヒップホップ・アクトは、80年代のR&Bアクトのように、セールスのみを求めるプレッシャーに押し潰され、多くのラッパーたちが、即興的なフリースタイルを捨て、ミュージック・ヴィデオと全く同じ動きと響きをライヴ・パフォーマンスで再現するようになった。
その結果、97年には、まるで遠心分離器にかけられたかのように、メインストリームのヒップ・ポップ(hip
pop)と、その周縁に位置するインディ・ヒップホップという、80年代のアリーナ・ロックとインディ・ロックにも似た両極が見受けられた。
そんな状況だからこそ、ラキムの5年ぶりのカムバックは、市場の論理から自由なヒップホップ、という英雄的な空想を満たし、そのアート・フォームとしての非商業主義的な価値を改めて確認させるものとして期待された。ラキムは、ライムの美学的理想の体現者として、いわばヒップホップにおけるボブ・ディランにあたる存在であり、エリック・B&ラキム時代の“Follow
The Leader",“I Know I Got Soul"は、ヒップホップが生んだ最も革新的なポエムである。なめらかさと荒々しさを魔法のように溶け合わせたトーンで、ビートのアタックを機敏にかわしていく、微妙なリズムのニュアンスに満ちた彼のヴォーカルは、その後のヒップホップのヴォーカル・スタイルを決定づけた。なによりも、彼の詩的革新は、白人ロックンロールにおけるディランがそうだったように、サウンドや態度よりも、リリックを重視するファンや批評を生み出した。
しかし、ラキムのアルバム《The 18th Letter》
には、彼のライム・アートに見合うだけの想像力豊かなサウンドスケープが欠落している。このプロダクションとのミスマッチという問題は、ナスからジェイ・Zまで、多くのハードコア・ラッパーにつきまとう。彼らの多くが軽くポップなトラックを用いるのは、ヒットを求める商業的な圧力のためだが、リリックさえ素晴らしければいいのなら、フォークと変わらぬ言語中心主義に陥ってしまう。そして、このディレンマに深く影を落としているのは、97年3月に狙撃されてこの世を去ったノトーリアス・B・I・Gの存在である。
94年のデビュー作《Ready To Die》、そしてはからずも遺作となった《Life
After Death》と、ハードコアなスタッフとコマーシャルなR&Bを混ぜ合わせた彼のアルバムは、商業的成功を焦る東海岸のMCたちにとって公式となった。冷笑的な調子とユーモアをあわせもつドライな語り部であるビギーは、冷酷で、痛ましい、迫真のストーリーを、パフ・ダディのヒット狙いのR&Bフックと、おどけたようにこすりあわせる。この絶妙のバランス感覚が、他のラッパーたちには欠落しているために、彼らのレコードはどれも中途半端なものになってしまうのだ。
だから、ヒップホップが死んだかどうかはともかく、少なくとも、97年は、「ヒップホップ=ハードコア」という図式が機能不全に陥ったことは間違いない。マーヴィン・ゲイやスティーヴィ・ワンダーらかつてのファンク作家のように、内省をダウンビートで濾過して普遍的な感情に高めた、コモンのソウルフルな情報ハイパーテクスト《One
Day It'll All Make Sense》は数少ない例外だった。アフリカのグリオのドラムとチャントによる叙事詩を思わせるソングフォームと、サムプラーをまるで彫刻刀のように操るRZAのシネマトグラフィックなサウンドスケープが相変わらず幻惑的なウータン・クランは、かつてのP・ファンクのように、もはや、それ自体がひとつのジャンルないしコンテクストを形成しているが、CD2枚組のアルバムは少しばかり冗漫だった。
チャンネル・サーフィングのように無数のレコードから素材を自由自在に抽出し、想像力豊かにグルーヴと戯れ、新たなソングフォームへと変形していく《Return
Of The D.J., Vol.U》やエグゼキュショナーズのようなターンテーブリスト、ローカス・レーベルのカムパニー・フロウや《Sound
Bombing 》、あるいはラティーフ&リリックス・ボーンなど、メインストリーム・ヒップホップの現状に失望した人々の注目を集めたインディ・ヒップホップは、むしろ、DJ・シャドウやドクター・オクタゴンのようなアブストラクト・フォーマリストの影響を強く感じさせた。
もちろん、97年のブラック・ポップの台風の目は、パフ・ダディをおいて他になかった。彼は、フージーズのワイクリフ・ジーンやトラックマスターズと共に、まるで20年近くに及ぶヒップホップ・プロダクションの革新の歴史などまるで存在しなかったかのように、ヒップホップのソングフォームを過去のポップ・ヒットに依存したものへ単純化した。たとえば、盟友ノトリーアス・B・I・Gに捧げられたR&B版“Candle
in the Wind"として三百万枚以上売れた“I'll Be Missing
You"は、ポリスのストーカー・ソング“Every Breath You
Take"のリズム・ループ、インストゥルメンタル・リード、改めて歌い直されたコーラスを用いているが、これは、かつてMC・ハマーがリック・ジェイムズ“Super
Freak"を“U Can't Touch This"に、ノーティ・バイ・ネイチャーがジャクスン5“ABC"を“O.P.P."に、クーリオがスティーヴィ・ワンダー“Pasttime
Paradise"を“Gangsta Paradise"に利用したのと同じ手法である。だから、7年前にハマーを血祭りに上げた連中は、もちろん、パフィたちも非難しなければ筋は通らない。
ラッパーとしても、ダンサーとしても月並みなパフィの才能は、ポストモダン・フォーキーのベック同様、抜け目ないパスティーシュをやすやすと構築するところにある。ベックを過大評価した連中がパフィを無視するのは、もちろん、人種差別である?
“Can't Nobody Hold Me Down"はグランドマスター・フラッシュ“The
Message"の情けないカラオケだが、“Been Around the
World"はナイル・ロジャーズ、“Don't Stop What You're
Doing"はヤーブロー&ザ・ピープルズ、ノトリーアス・B・I・G“Mo
Money Mo Problems"はダイアナ・ロスのゲイ讃歌“I'm
Comin' Out"と、パフィはヒップホップの封印されたディスコ・ルーツにたちかえり、はからずも、映画《Boogie
Night》のヒットが引き起こすディスコ・リヴァイヴァルを先取りしたかたちになった。実際、シムプルなリズム・スペクタクルである彼のヒップ・ポップと、それまでのヒップホップとの関係は、ディスコとそれまでのファンクとのそれにどこか似通っている。
しかし、97年最高のラップ・シングルは、70万枚を売り上げたB・ロック&ザ・ビズの“MyBabyDaddy"だった。エモーションズ“Best
of My Love"を効果的に用いたこのマイアミ・ベース・トラックは、父親に逃げられ、ひとりで子育てをしなければならない女性の悲劇をジョークに変えた“Who
dat is? Dat's just my baby daddy"という珍妙な深南部訛りのフックが最高におかしい。また、DJ・クール“Let
Me Clear My Throat"のスマッシュ・ヒットは、ワシントン・DCのローカルなファンク・スタイル、GO−GOの健在ぶりを改めてアッピールした。
サウンドトラック・アルバムも、クロスジャンル・プロモーションの手段以上の魅力を発揮した。シカゴを舞台に、ネオコン・ブルジョワでもギャングスタでもない黒人ボーホーの若者たちの姿を描いた映画《Love
Jones》のそれは、ローリン・ヒル“The Sweetest
Thing"、カサンドラ・ウィルスン“You Move Me"、ディオンヌ・ファリスのブルーズ“Hopeless"を収めたボーホー・ソウル・コンピレーションとして傑出した内容になった。また、B・ボーイのオナペットだったリル・キムは、“Not
Tonight"をリミックスして女性讃歌に変え、今やむしろ映画俳優として知られるウィル・スミスは、ポップ=ジャズ・スウィング曲“Men
in Black"で、そのラップ・キャリアを蘇らせた。
メイジャー・レーベルとの結びつきがほとんど無くなったレゲエだが、ハーモニー・グループのモーガン・ヘリテイジや、シズラ、アンソニー・Bのようなボーボー・ドレッドと呼ばれるシングジェイなど、新たなルーツ・レゲエの台頭が、ラスタファリアニズムを蘇生させている。これは、ウータン・クランやエリカ・バドゥがファイヴ・パーセント・ネイションの哲学をブラック・ポップに取り戻したのと同じく、アフリカン・スピリチュアリティの深みを音楽にもたらすものだ。
ニルヴァーナ“Smells Like Teen Spirit"により、ギャングスタ・ラップと並ぶ90年代前半の中心的現象としてメディアに持ち上げられたオルタナティヴ・ロックは、衰退の影に怯えており、今や空虚になったその名札にかわって、アメリインディという80年代のそれが復活しつつある。自意識過剰な耽美主義者がロックンロールを支配する、というロック芸術主義の退屈な理想は、有り難いことに、またしても潰えたのだ。
もっとも、これは、アメリインディが、音楽性よりもむしろ、資本形態化したアリーナ・ロックに対抗し、マスではなくファンを重視する姿勢と、カレッジ・ラジオやクラブ・サーキットといった自立的なネットワークで結ばれたサブカルチャー、という本来の姿に戻った、ということでもある。80年代のX、ブラスターズ、リプレイスメンツ<ハスカー・デュ、ソニック・ユースの位置を、今はヨ・ラ・テンゴ、ペイヴメント、スリーター・キニーが占めるわけだ。なかでも、音楽とセックスと愛について情熱的な熱弁をふるい、突進し、飛びはねる興奮したはしゃぎっぷりが素晴らしいスリーター・キニーは、パンクがリズミックなディシプリンを白人ロックンロールに取り戻したことを改めて確認させてくれる。
97年、レコード会社やケーブルTV、音楽雑誌といった文化産業が、失速したオルタナティヴ・ロックのオルタナティヴとして売り出そうともくろんだのが、イギリスやヨーロッパ大陸では十年以上前からサブカルチャーの一大勢力だったエレクトロニカ、すなわち、テクノやドラムンベースをはじめとする、エレクトロニック・ダンス・ミュージックだった。インディ・ロックのアナログ・フェティシズムと、ハードコア・エレクトロニカのディジタル・ディストピアとでは、一見正反対にも思えるが、プロセスやテクスチュアに対する執着と、DIY(do-it-yourself)、ホーム・レコーディング、ロウ・ファイデリティにこだわり、アンチパーソナリティの匿名性を求めながらも、エリート主義のスノビズムに到達する逆説を共有しているのはたしかだ。
しかし、80年代、反ロック主義(anti-rockism)のために、ギター・バンドさえもロック・バンドではないようなふりをし、ダンス・ミュージックがメインストリームの一角に食い込んだイギリスと、アメリインディがガレージ・ギター・バンドの美学をひたすら追求したアメリカ、という対照が生じたあたりから、ビートルズからセックス・ピストルズまでの時代と違って、両者の間には次第に共有するものがなくなっていく。90年代に入っても、グランジとギャングスタ・ラップに沸くアメリカに、イギリスは、レイヴ・カルチャー、ドローン・バンド、ブリトポップを次々と売り込もうとしたが、ことごとく失敗した。エレクトロニカ「革命」も、その例に漏れず、不発に終わった。
プロディジーとケミカル・ブラザーズだけが例外的に成功したのには理由がある。レイヴ・カルチャーから登場したプロディジーは、アリーナ・ロックの身振りを取り込んだロック=テクノ・バンドだった。サイモン・レイノルズが指摘したように、テクノとレイヴは必ずしも同義語ではない。レイヴは、他の連中とは違って耳が肥えているという差別的な特権意識を持った聴衆が集うクラブ・カルチャーのスノビズムに反発した、ティーンネイジャーのパンク的な性格を持った現象であり、派手な照明やレーザーが飛び交う、ある意味でアリーナ・ロックにも似たスペクタクルだったからだ。
一方、ビッグ・ビートと呼ばれることになるケミカル・ブラザーズの場合、典型的なテクノが、うなりを上げるベースをボトムに、ブリープ音をトップにと、音響的な極限を追求しているのに対し、中音域を多彩なニュアンスの音で埋めるために、ポップ・リスナーにとっては親しみやすかった。80年代に残したその909ドラム・マシーンとヴォーカルだけの荒削りのトラックが、今やブレイクビートの宝庫として崇められているフィラデルフィアのラッパー、スクーリー・Dの、“Back
with another one of those block rockin' beats"というヴォーカル・サムプルをフックにしたシングル“Block
Rockin'Beats"は、まるでボム・スクワッドの未発表トラックのようだ。
そもそも、テクノがアブストラクトなフォーマリズムであるのに対し、ロックは基本的に表現主義だという、根本的な違いがある。R&Bにしろ、ジャズにしろ、ヒップホップにしろ、カントリーにしろ、アメリカのポップ・ミュージックは概ね表現主義であり、テクノやハウスがアメリカで誕生しながら、生誕の地ではアンダグラウンドな現象にとどまり続けているのは、おそらくそれが抽象的な形式主義の音楽だからだ。
さらにまた、ハードコアなダンス・ミュージックが、基本的に、ダンスフロアというコンテクストと相関してはじめて機能する性質を備えていることもある。たとえば、イントロやアウトロで延々と続くシムバルとハイハットの反復など、クラブDJにしか意味を持たないため、ダンスクラブ以外の空間では、単なる冗漫でしかない。
スウィング・ジャズからロックンロールから、テクノやヒップホップまで、どのように独特の解釈を与えようが、所詮そのビートは借り物に過ぎなかった英国にとって、ジャングル/ドラムンベースは、はじめて手にした自前のビートである。だから、ロニ・サイズのアルバム《New
Forms》に対する、英国のメディアの多分に気負った過大評価は理解できなくもない。実際、誇大妄想狂じみたパラノイアックな過剰さに淫したゴールディ(98年最初の世界規模のメディア・ハイプを伴った《Saturnz
Return》は、英国アート・ポップの悪しき伝統であるエゴという名のウンコの垂れ流し)とはちがい、サイズには、ア・トライブ・コールド・クウェストやディアンジェロ、ザ・ルーツといったポストモダン・ブラック・ポップ作家たちにも通じるミニマリズムの感覚があるし、やつぎばやに3連符をたたみかけるリズムはまるでビバップ・ジャズのようだ。
しかし、リズムはただのリズムのまま、いかなる構造生成も示さぬまま、アルバムは終わる。そこがチャールズ・ミンガスやマイルズ・デイヴィスとは異なる。全体が未分化のプロセスというのは、いかにもポストモダン理論におあつらえむきの状況だが、実際は、形式感覚が不足しているだけだ。その証拠に、いくつかあるヴォーカル・トラックでは、伝統的なソングフォームを無視するのはいいとしても、ジェイムズ・ブラウンからウータン・クランやミッシー・エリオットまでの革新的なブラック・ポップがそうだったように、リズムを軸に、新たな構造を生成し、結晶させるのではなく、ソウルUソウルやマッシヴ・アタックの過大評価された伝統に従って、カフェ・バーがお似合いのムーディなアムビエンスに逃げ込んでしまう。この朦朧漠然主義は、さらに遡ると、過小評価されたシャーデーに行き着くわけだが、彼女たちには形式感覚があった。
UKのメディアがジャングルという名称を処分し、ドラムンベースに改名して以降、ダンスホール・レゲエを吸収したサウンド・システム文化としての側面よりもむしろ、「アムビエント」、「ジャズ」、「インテリジェント」、「サイエンス」といった抽象的で知的なニュアンスが強調されるようになった(この背景には明らかに英国特有の階級問題がある)。アート・ロック的なアルバム志向のスクウェアプッシャーやエイフェックス・トゥインは、ドラムをミックスの奥に引っ込め、彩りとして用いて、ドラムを西洋音楽の前面に押し出したジャングルのラディカルさをはっきりと拒絶した。不吉なドローンと歪んだベース・リフに貫かれたインダストリアルなテクスチュアのテクステップがダンスフロアを支配すると、多くの黒人聴衆が、ハウスとジャングルのハイブリッド、スピード・ガレージに流れた。プロダクションの精密さを早弾きギタリストまがいの妙技として讃えたり、抽象的なコンセプチュアリズムを持ち込んだりと、エレクトロニカは、新たなプログレッシヴ・ロックに変容していく傾向にある。結局のところ、それがシリアス・アートの伝統を持つヨーロッパの流儀なのだ。
ロックとは、ロックンロールとちがって、自分たちの形式は芸術だという自意識を持った、どこかわざとらしさのつきまとう音楽であり、サイモン・フリスが喝破したように、アンチ・コマーシャリズムというコマーシャリズムの音楽、そういうポーズを売り物にしてきた音楽のことだ。97年は、そんなロックの仰々しさをUKのギター・バンドが独占した年でもあった。オアシス、レイディオヘッド、スピリチュアライズド、ヴァーヴと、その大元の親玉であるU2といったUKギター・バンドは、大言壮語をもったいぶってわめきちらすロックの鼻持ちならない気取りの家系を見事に受け継いでいる。彼らはロックの「前衛」を自負し、エレクトロニカと連動して、伝統的なソングフォームの束縛を壊すと誓った。しかし、実際は、伝統的な形式の束縛を壊すどころか、それを単にダラダラと引き伸ばしただけの、締まりのないソングフォーム、大げさで陰気な音作り、自意識過剰の詞からなるロック・メロドラマという、アメリカの概念で言うなら、AOR(アルバム・オリエンテッド・ロック)の特徴を見事に受け継いでいる。
ポーティスヘッドをはじめとするトリップ・ポップ(trip-pop)もまた、このAORの悪癖を持ち合わす。ヴァース/コーラス/ヴァースという伝統的なソングフォームをたるませながら維持しつつ、飾りとしてブレイクビートを添える。ビートをリズミックなディシプリンではなく、単なる装飾としか捉えていないあたりは、いわゆるシンガー・ソングライターと呼ばれるフォーク・ポップと本質的に変わらない。UKは、エヴリシング・バット・ザ・ガールからベス・オートンまで、ヒップな装いのフォーク・ポップの量産地でもある。ジェイムズ・テイラーやカーリー・サイモンのような、70年代のシンガー・ソングライターのわざとらしくもったいぶった音楽を聴いて育った世代が、フィオナ・アップルも、ポーティスヘッドも好きなのは、だから、当然なのだ。
つまり、重要なのは、ビートとソングフォームの関係なのだ。リズミックなディシプリンが音楽に焦点をもたらし、タイトにする。シンガー・ソングライターやAOR、プログレッシヴ・ロックといったパンク以前の70年代白人音楽を聴いて、その音楽的価値観を形成した人々が、この関係に対して最も鈍感である。トリッキーは別として、トリップ・ホップがヒップホップに対するUKからの解答だ、という考え方は根本的に馬鹿げている。そう主張する者は、ブラック・ポップのビートとソングフォームの関係をまるで理解していない。
ポーティスヘッドも、レイディオヘッドも、音の細部への病的なまでのこだわりを持ち合わす。もちろん、コムピュータ処理されたサウンドの無限のパレットは、聴覚にたえまない変化をもたらすばかりでなく、たった3秒ほどの音を5分間ループしたトラックを十年以上聴かされてもいれば、ディテイルに対する新たな意識が芽生えてくる。音のしみや、静電気や、録音された環境に敏感な耳を持つようになるのは自然のなりゆきだ。そこからプロセスとテクスチュアに対するこだわりも生じてくる。これは、一見すると、アイデアや伝統や物語はイメージや表層に還元され、ニュアンスに富んだ表現はビットやサウンドバイトに圧縮されるポストモダンな情報環境を反映した、全てが細部からなり、はっきりした全体としてのかたちを持たない音楽の出現であるかのようだ。だが、実際は、たるんだソングフォームやコンセプチュアリズムが、プロセスやテクスチュアをトリミングするフレームになっている。彼らのプロセスやテクスチュアに対する執着は、ブライアン・ウィルスンやピンク・フロイドのそれと大差ないのだ。
また、このいわば音に対するポルノグラフィックな感覚に淫していると、細部にばかり意識がいってしまい、音楽の全体像が捉えられなくなる。実際、頭の悪い評論家たちが讃えるディジタル折衷主義の多くは、アイデアや情熱の欠落をごまかすスタイルの痙攣に過ぎない。一応、ヒップなビートやサウンドを研究し、取り込んではいるが、決してその感受性は取り込まないために、彼らの音楽は記号的な多様性はあるものの、それだけで終わってしまう。真の折衷主義とは、あるスタイルだけでなく、その感性をも吸収するために、見分けがつかなくなり、あたかもはじめからその本質であるかのように思えるもののはずなのである。
たとえば、コーナーショップの場合、70年代ファンク・ブレイクから、気取った60年代のイージー・リスニングまで、まるで多元文化的ジングルのような見てくれに目を奪われるが、その軽快なソングフォームは、シタールの存在とは無縁であり、むしろ、フィーリーズ(“Brimful
of Asha")、ミーコンズ(“Good To Be on the Road Back
Home")、ハウスマーティンズといった80年代のカレッジ・バンドを連想させる。ステレオラヴがクラウト・ロックのエレクトリック・ドローンを構造原理としているように、アングロ・エイジアン率いるこのバンドは、そうとは識別しかねるくらい、カレッジ・ロックンロールのスタイルのみならず、その感受性をも吸収している。
それまでの陰欝なグランジやギャングスタ・ラップ、トリッキーやダークサイド・テクノのパラノイアに対する避けがたい反発として、97年は、ハンスンやスパイス・ガールズのバブルガム・ポップから、西海岸のネオ・スカ、ミッシーのオノマトペ・ファンクやパフィのヒップ・ポップから、フランスのディスコ・ハウスや、UKを支配したビッグ・ビートとスピード・ガレージまで、おさえきれない歓喜が爆発したように、ロックンロールへのリジュヴィネイションに満たされた。リズミックなディシプリンに基づく音楽のもたらす快楽を愛する者にとっては、97年は最高の一年だったのだ。
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このドキュメントの最終更新日は1998年3月10日です