2002年のヒップホップは、もしかしたら決定的な転回点を迎えていたのかもしれない。おクラ入りになったとはいえジャズに挑戦したQティップから、ソール・ウィリアムズ、モス・デフのロック・バンド、ブラック・ジャック・ジョンスン、そして本稿の主役シーロまで、アーティストたちはヒップホップの形式的限界を打ち破り、生楽器を手にとって、未知の世界に旅立った。かつてのロックンロールがそうであったように、白人がラップを乗っ取る一方、黒人は全く新しいスタイルを創造しはじめるターニング・ポイントだったのかもしれない。
なかでも、アトランタのヒップホップ・ユニット、グッディ・モブの巨漢MC、シーロ・グリーンのソロ・アルバムは傑出している。もともといかにも歌えそうなド迫力ヴォイスの主ではあったが、シーロはこのアルバムで自分がヴォーカリストとしてはもとより、ソングライター、プロデューサーとしても、傍目にはちょっと想像がつかないくらいの凄い才能の持ち主であることをはじめて明かしている。正直言って、グッディ・モブより全然いいぞ(笑)。
アル・グリーン、ボビー・ウォマック、CL・フランクリン、仏陀、シュガー・フット(オハイオ・プレイヤーズ)を混ぜ合わせたような存在が、アトランタのどこかでシャツを脱いで、ハッパを吸い、ファンカデリックのリフを歌っているのを想像すれば、シーロ・グリーンの美学になる。弾けるベースに対して木琴が泡立ち、ジャグバンドのリフがシムバルの飛沫を迎え入れ、ロック・ギターがフィドルと手に手を取って踊り、トラムペットがスティールドラムに跳ね返り、アムビエント・ノイズと肉体から遊離した声がミックスの縁を幻覚のように横切る。ソウル、ブルーズ、ヒップホップ、ロック、ラテン、アムビエント、テクノ、カントリーといった多彩な音楽がヘヴィなギター・ファンクに重心を見出だし、ゴスペル・ミュージックの知識がシーロのヴォーカルにありふれたラップ・シングソング以上の厚みのある色調や抑揚をもたらしている。シーロは、ルイス・ジョーダンからリトル・リチャード、ジェイムズ・ブラウン、スライ・ストーン、ジョージ・デューク、プリンスまで連綿と続くR&B奇人の長い系譜に自らを位置づけている。それらの先駆者たち同様、伝統の連鎖におけるリンクとして自らをみなしているが、彼らの影響の圧制の前に身をすくめることはない。シーロには自らのペルソナがあり、このアルバムは個性的で、創造的で、意外性に満ちている。
なによりもまず、このアルバムには、はっきりしたテーマがある。居場所のない世界で生きる若い黒人男性、いうのがヒップホップのありふれた主題であり、時としてそれがヒップホップのネガティヴな側面と結びつくわけだが、このアルバムのテーマはそれ以上の、ポジティヴで独立独行のものだ。すなわち、自分が必要とされていない社会で成長すること、自分の居場所のない社会で成功すること、そんな社会のなかで愛を見つけること、黒人男性のアイデンティティを骨抜きにしようとする社会のなかで自分を見出だすこと。これらはどれもこれまでのヒップホップのなかでははっきりと示されてこなかったテーマなのだ。事実、ヒップホップは、その反逆的なイメージにもかかわらず、実際のところは、驚くほど保守的な世界であり、その一見反抗的な身振りさえも予めコード化されたものであって、たとえば、2パックはそんな社会システムを攻撃するというよりも、逆らうことを諦め、ルールを挑発するのではなく、道理にふるまい、むしろ受容していた。パックが社会に規定されるがままの一般的な黒人のステレオタイプに忠実であったのに対し、シーロはありとあらゆるやりかたでルールを挑発し、個であろうとする。生楽器を選び、音楽的にも作詞的にもカテゴライズされることを拒み、この巨漢はその体重をかえりみずまるでマクスウェルのように踊る。
本体のグッディ・モブやアウトキャストといった他のダンジョン・ファミリーも、デビュー当初から一貫してブラックネスの限界を押し広げているが、シーロは最も余裕たっぷりでソウルフルにそれをなしとげている。ヒップホップの轟く低音の震動を実存的なポリリズムのメトロノームに削ぎ落として、アウターホップのためのファンキーな説教壇とし、ジープビートとしても怒れるヘッドフォン・ロックとしても機能させる。以前、うわっつらだけのパッチワークを”ミクスチャー”とかなんとかもてはやすバカげた風潮があったが、そんなうんざりするような底の浅いツギハギとちがい、ソウルやファンクのみならず、ドアーズ、モトリー・クルー、ヴェルヴェット・アンダグラウンドも愛するシーロは、様々な要素をそうとは気づかせないくらい完璧に自分の美学に融合している。シーロの身に染み込んだ南部のブルーズン・ソウルの美学が、この絶品ガムポ・スープを仕立てる触媒として機能している。たとえば、ラリー・グレアムを下敷きにした(6)では、B−3オルガンのプリズムを通じてクラシック・メタル・リフを再生利用し、倍速のバウンス・リズムでガタガタと回転させる。晩年のマイルズ・デイヴィズに通じる雰囲気のある(13)は、アウトキャスト"SpottieOttieDopaliscious"が追求したダビー・サイケデリアの世界に入り込む。
アルバムに収められたひとつひとつのトラックが、シーロのリリックを強調する音の快楽であり、当然のように教会のカデンスに根ざした音楽的なアタックだ。シーロはこれまでもつねにヒップホップの世界にもゴスペルの影響が及んでいることを思い出させてくれてきたし、シーロほど見事にヒップホップに教会を持ち込む者も他にはいない。これは教会でくつろげない人々のための生粋のチャーチ・ミュージックであり、シーロはまるで、風変わりな楽器編成にもとづき宇宙空間に展開したマザーシップ・ジャムにのって、とりとめのない説教を繰り広げる錯乱した福音伝道者のようだ。シーロはラップとシングソングを見事に融合し、矢継ぎ早のフロウとゴスペル・メリスマを神秘的なくらい鮮やかに切り替える。メアリ・ジェーン・ガールズを本歌取りし、ハワイ風の木琴がメロディを紡ぎ出すパーカッシヴ・ファンク(1)の素晴らしいウェイル、デスファンク・ギター・リフとフィドルがクランク・リズムの上で交錯する(5)のしわがれたシャウト、汗まみれのオルガン・フィルに声を逆立てる(6)。ラッパーとしてもシンガーとしても表現力豊かなシーロのしゃがれ声は、オルガンやクワイアとコール&リスポンスを繰り広げ、波打つようにうねるアレンジメントと驚くほど繊細なフレージングは、ゴスペル・クワイアボーイだった少年時代に帰って自らの得難い信念と成熟をテスティファイするステッパーズ調の(12)といい、抵抗するのも無駄なくらい見事な(4)といい、ゴスペルのエンジンでひたすら高揚する。実際、ラッパーであれ、シンガーであれ、(4)の増幅されたスタックス・グルーヴをこれほど誇らしく乗りこなす者はちょっと想像できないし、そのブレイクダウンは全くの輝かしいゴスペルだ。仰天するくらいおかしなマイク・スキルの披露(8)では、やみつきになるレゲエ・ビートに"Atomic Dog"の吠え声を投下する。ピアノ、ハープ、ティファナ・ブラス調のホーンズがベース・ドラム、ハイハット、ハンドクラップと絡み合い、人間が呼吸するのに十分なスペースをビートの間に残すよう全てがミックスされている。このアルバムはホンモノのファンク・ミュージックであり、ソウル・ミュージックであり、ヒップホップ・ミュージックであり、ロック・ミュージックでもある。素晴らしい。(2003.1.12) A