人生と音楽における80人のコラボレーターたちの顔のミニアチュアが、くそまじめに物思いにふける禿頭に髭をたくわえたコモンの上に並んだカヴァ・アート。デッド・プリッツ、ブラック・ソウトといったラッパーから、ジル・スコット、メアリ・J・ブライジのようなR&Bシンガー、ルイス・ファラカーンのような文化的偶像まで、まぎれもないボーホー黒人の人名事典であり、コモンが支えられ、導かれ、教えを乞う人々である。しかし、このアイデアそのものは借り物だ。まず、誰もが連想するのはビートルズの≪Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band≫だろう。たしかに、サイケデリックなファズ・ギターやテープ逆回転、夢幻的なスペース・バチェラー・ポップ・サウンド、ボーズ・オブ・カナダを彷彿させる無秩序だがどこか牧歌的なシンセ・ノイズなど、ジェイディー、クウェストラヴ、ジェイムズ・ポイザーのフィラデルフィア=デトロイト・コネクションの指揮下、ヒップホップ・アルバムではあまり出くわすことのない多彩な音のパレットを駆使した大胆なサウンドスケープが展開し、愛、スピリチュアリティ、ヒップホップの没落、革命の必要を説くアルバムの内容からすると、意識的にアート・ロックの伝統にみずからを位置づけようとしているようにも思われるが、ブラック・ポップにもマーヴィン・ゲイ、スティーヴィ・ワンダー、アース・ウィンド&ファイアといった幻視者たちによるコンセプト・アルバムの規範があり、もちろんこの二つの伝統の中間にジミ・ヘンドリックスがいる。忘れてはならないのは、いずれの伝統にしても、ジャンルを気にしない啓蒙されたリスナーシップという、もはや現実には存在しない聴衆を相手にしている、ということだ。ジャンルは、一見マーケティング・トゥールでしかないようにも思われるが、今となっては全世界的に横断するそれぞれの趣味の部族に支えられている。逆に、この種のジャンル折衷的なコンセプト・アルバムは、もはやひからびた理想でしかない「普遍性」を目指しており、エヴリマンないし、あらゆるアイデンティティ・ポリティクスの下に隠されているはずの人間としてのコア、という嘘臭い概念に基づいている。もはや今となっては、この手のレコードはそれ自体がジャンルと化している。
しかし、このカヴァが模倣しているのはそれだけではない。ヒップホップの歴史もまた反映している。ア・トライブ・コールド・クウェストは、93年のアルバム≪Midnight Marauders≫のカヴァを自分たちの仲間たちの顔でしきつめており、これはそれに対するあからさまなオマージュなのだ。そして、トライブこそ、コモンがつねに張り合おうとしてきた存在なのである。アルバムのファースト・シングル(6)は、さながらトライブのクラシック"Bonita Applebum"の続編のようであり、コモンはほぼ完璧にQ・ティップを演じ、プロデュースしたネプチューンズはいかにもヴィテージな92年っぽいビートで彩る。暖かみのあるオルガンと輝くベルがけだるいドラムズと調和し、メアリ・J・ブライジの声を押し殺したヴォーカルがこのラップの過去の記憶をたどる郷愁に血を通わせる。そしてまた、ピート・ロック&CL・スムーズ≪Mecca And The Soul Brother≫のように、アルバムの個々のトラック間をインストゥルメンタル・ビートで充たしてもいる。
(2)の押しまくるドラム・ピストン、(3)の催眠的なシンセサイザーの旋回と、プロデューサーのクウェストラヴは惜しみなく音の細部に注意を払っている。単なるビートを越えた、テクスチュアのあるトラックであり、ロック、ジャズ、ソウルの影響をひとつに編み合わせて挑発する。アルバムの美学的革新は、プリンス、ヘンドリックス、マーリーのような偶像破壊的なやりかたで黒人音楽の幻視者に対するコモンの憧れにフィットしている。それでも、タイトなビートとジャズ奏者の機敏さで滑るフロウのコムビネーションは揺るぎなく、むしろ前作≪Water Like Chocolate≫のサブリミナル・グルーヴの深化とも言える。これは眺める角度によって異なって見えるプリズムのようにふるまうアルバムであり、ところどころ奇跡的であり、ところどころ鼻持ちならないが、ほとんど退屈させることがない。アフリカの祖先崇拝の儀式(1)から、亡霊じみたゴスペル主義(13)まで、コモンのアーティストとしての大胆さが印象に残る。(1)のインストゥルメンタル・イントロダクションはまさにソウル・ミュージックそのものだし、(2)のしっちゃかめっちゃかのグルーヴは前作を貫いた心地よいアフロファンクを思い出させる。ビラールとエリカ・バドゥのキャミオが熱いアフロサイケデリア(3)は、単なるアイデアでしかなく、スケッチにとどまるが、60年代に立ち返り、サンターナ風のよたつくバックビートとファズ・ギターにのって寛容とコミュニティを嘆願する。UKソウルのオマーが参加した(5)のコーラスはまるでパーラメントのよう。ステレオラブのレティチア・サディエールがさえずる(7)の夢見るようなメロディシズムは、オルガン・フィルがさほどレイ・マンザレクっぽくないにしても、60年代後半の”サンシャイン・ポップ”の現代化として十分通用する。雰囲気が行きつ戻りつする変化の演出も見事だ。バックでプリンスが恍惚としてギターをこすり、"Erotic City"のキーボード・ラインをひねった(8)は、テレフォン・セックスの激しく揺れるシミュレーション。シャッフル調の(9)は、コモンのくつろいで羽をのばしたリリカルなフロウと、ブルーズ・ハーモニカ、ピリっとしたオルガンがコントラストを描き、ネプチューンズのクランク・トンク・ビートの肌理と驚異にマッチする。三部構成になった感情と精神の解放をめぐる瞑想(10)は、60年代後半のロック・サイケデリアを探究しながら、コモンは自分がゲイだと明かした子供時代の友人に対してどうふるまうべきかに思いをめぐらす。アルバムの白眉と言えるのが、偉大なるドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァナ・バンドを彷彿させるキャムプなスウィングのパスティーシュ(11)。うなるミュート・トラムペットと湯気を立てるシンコペーションに彩られたジャイヴダンス・トラックだが、コーラスで甘くさえずるジル・スコットのコケティッシュなヴォーカルは、過小評価された名手コーリー・デイの再来かと思うほどだし、ニコラス・ペイトンのトラムペットもルイス・アームストロングの印象を与える。100bpm以上でバップするヒップホップとジャズの融合のトップ・フォームであり、軽快な40年代のスウィングをパラフレーズし、コモンはダシキを着たキャブ・キャロウェイを演じる。その洗練と弾力感がコモンの抑揚にぴたりとハマっている。
もちろん、実験作ならではの失敗もある。サイケデリック・ロックのあてどないぶらつきや、ヘヴィメタルのメロディの無い装飾符といった最悪の過去を受けとめた結果、だらだらと長いだけのコンセプト・ジャムはしっちゃかめっちゃかの混乱に終わっている。焦点が見出だせないとすると、目的がないからだ。エリカ・バドゥとの絶望的にヒドいシンギング・デュエット(12)は、コモンのぎこちないクルーンがファズ・ギターに乗って8分以上にわたり吠えまくるサイケデリックな悪夢。シュールリアリスティックなヘンドリックスに対するオマージュのようだが、結局のところ、うつろなダビング以上のものにはなっておらず、収録すべきではなかった。ドアーズのようなキーボードとヘヴィなギターが最後の審判の日のようにとどろく(4)は、闇夜に叫ぶコモンのイメージ(想像し難い)とコーラスの地獄のようなうなり声で叫ぶコモンのサウンド(聴くに耐えない)を中心に回転する。(13)は狙いはよく理解できるが、ハッパの美学と、ポエトリー・スラムに似せるお手本であるライトニン・ロッド≪Hustler's Convention≫のヒップスターの抑揚にあまりにも多くを負っている。(2003.8.17) A MINUS