ザ・ルーツの4作目となるアルバム≪Things Fall Apart≫は、スパイク・リー監督の90年の映画≪Mo'Better Blues≫のサムプルからはじまる。デンゼル・ワシントン演じるバンドリーダーが、黒人たちはそうすべきなのにジャズをサポートしない、と不満をもらす。それに対して、ウェズリー・スナイプス演じるサックス奏者は、そんなのは彼らが聴きたいと思う音楽をやらないクソったれの言うことだ、と噛みつく。ルーツは、このかつてジャズが抱えたディレンマに今ヒップホップが直面している、と認識する。
ザ・ルーツは、ヒップホップの創造的な極限を追求し、その商品としてではなくアートとしての可能性を最大限に生かそうとするアーティストたち、ドラマーのクウェストラヴが「ネクスト・ムーヴメント」と名付け、同士であるシカゴのラッパー、コモンが「ソウル・ヒップホップ」と呼ぶムーヴメントの中心にいる存在である。彼らを筆頭に、ブラック・スターの2人、デトロイトのスラム・ヴィレッジ、アトランタのアウトキャストとグッディ・モブ、ローリン・ヒル、ポストヒップホップ・ソウルのエリカ・バドゥ、ディアンジェロと、一見全くスタイルの異なる面々を結びつけているのは、オールドスクール・ヒップホップ、ソウル、ファンクに対するリスペクトと、ギャングスタ・ラップの紋切り型を越えたテーマに挑もうとする姿勢である。コモンいわく、それは「ありきたりなサムプルに頼ってもいなければ、マネー、ビッチ、ホーといったありきたりなトピックを扱ってもいないプログレッシヴな」音楽のことであり、「物質主義を越え、若者たちに良い影響を与えるポジティヴな」音楽のことである。ヒルは、自分たちのことをオルタナティヴ・ヒップホップとは呼んで欲しくない、と言う。なぜなら、ヒップホップの世界でそう呼ばれることは、すなわち、「スキルがない、ということと同じ」だからだ。
これだけなら、よくある商業主義に対峙するアンダグラウンドな芸術至上主義、というお決まりの図式に過ぎないわけだが、事態をややこしくしているのは、“Act Too(Love Of My Life)"に客演したコモンが、そこで“When we perform,it's just coffeeshop chicks and white dudes"と神経質そうに舌打ちするように、アートとしてのヒップホップの可能性を追求すればするほど、自分たちが聴いてもらいたいオーディエンスから離れていくことであり、それが自分たちの抱え込んでいるディレンマだと彼らがはっきりと自覚していることだ。実際、ヒップホップ界きってのライヴ・バンドとして知られるルーツだが、年間200日を数えるというそのライヴ・パフォーマンスは、ヨーロッパを中心としているのだ。だから、ルーツはコマーシャルとアンダグラウンドという亀裂に対してひどくアムビヴァレントに反応していくのであり、むしろ、彼らが英雄的だが単細胞なアンダグラウンドの救世主という役割を避け、≪Mo'Better Blues≫の論争のどちらの立場にもはっきりと与していないのは信用がおける。もちろん彼らはアンダグラウンドを擁護してはいるのだが、自分たちのアルバムが34万枚以上売れないのは納得がいかないし、それ以上売れる可能性が自分たちにはあると確信してもいるのだ。このような複雑な立場が彼らを興味深い存在にしている。
≪Things Fall Apart≫は、ゆっくりとためらうようにはじまるが、“The Next Movement"のくつろいだソウル・グルーヴに蹴り入ると、それ以降だらけることはない。“The Next Movement"は、DJジャジー・ジェフの巧みなスクラッチを用いているが、これはルーツがはじめてDJを起用した記録であるのみならず、自分たちの生まれ故郷の音楽的な遺産とのつながりを誇示したトラックでもある。このシティ・オブ・ブラザリー・ラヴとアイデンティファイした感覚は、フィラデルフィアの落ち着いた、ゆっくりしたペースを吸収したアルバムを通じて繰り返しあらわれる。スクーリー・Dのパーカッシヴな"Saturday Night"(1987)が、カウベルが荒れ狂う"Without A Doubt"の骨格を形作り、荒削りで寂寞としたオールドスクール・ヒップホップのフィーリングを喚起させる。
それ以上に印象に残るのが、ギャムブル&ハフのシグマ・サウンドに対するリスペクトぶりで、当時のフィリー・ソウル・クラシックを彩ったラリー・ゴールド指揮のストリングスが、“Act Too(Love Of My Life)"のストリートコーナー・ソウルを彩っている。レイゼルのクールな口音トラムペット・リフをザップ・ママのマリー・ドルヌが繊細なしゃっくりでくるみ込み、コモンが忘れることのできない手に負えなかった昔の恋人としてのヒップホップという自分のクラシック“I Used To Love H.E.R."の中心的な隠喩を再び持ち出すこの曲は、一風変わったラヴ・ソングであり、ラッパーのブラック・ソウトは“Hip-hop,you're the love of my life"と何度も同じ結論に立ち返る。このようなヒップホップに対して誓われる永久の愛こそ、ネクスト・ムーヴァたちを他と区別する要素のひとつである。多くのラッパーにとって、ヒップホップとは彼らが唯一知っているゲームであり、他にやることもないというやむを得ないキャリアにすぎない。それに対して、ジャズや絵画、文学にバックグラウンドをもつルーツの面々にとって、ヒップホップはあくまで自らの意志で選んだアーティスティックな選択なのだ。たとえば、クウェストラヴは、50年代にドゥーワップ・シンガーとして活躍した父親(!!)のリー・アンドリューズがアトランティック・シティで開くオールディーズ・ショウのバッキング・バンドの一員としてドラム・スキルを磨いたのであり、彼の九千枚近いレコード・コレクションはほとんど全てのジャンルをカヴァしているし、彼とブラック・ソウトは、ジャズ・ベーシストのクリスチャン・マクブライドと同窓でもある。
シグマのストリング・カルテットは、はりつめたペシミスティックなスロウ・ジャム"You Got Me"で再び姿を現わす。これまたロマンティックなラヴ・ソングのかたちをとったヒップホップに対する愛の告白であり、形式よりも雰囲気が傑作という感じの曲だ。スネアのかりかりしたクリック・ビートと甘く切ないスパニッシュ・ギターを従え、ブラック・ソウトのドニー・ハサウェイに対してイヴがロバータ・フラックを演じ、まるでビリー・ホリデイの亡霊のようなエリカ・バドゥの思慮深い声が、ルーツのスポンジのように沈むパルスを愛でるように粘っこいコーラスを歌う。そしてクウェストラヴが叩き出すジャングル・ブレイクが、つかの間の脆い平穏をかき乱す。
ヒップホップMCの多くは、ビートのアタマばかりだったり、オフビートにひきのばしてばかりだったり、韻律の取り方が変わらなかったりと、テムポに対するアプローチがひとつに偏りがちだが、ルーツのブラック・ソウトとマリク・Bはちがう。敵に対して離れてバランスを保ち続けるボクサーのように、2人はひっきりなしにフレージングを変化させ、厳格なシンコペーションでたたみかけるかと思うと、辛抱強くタメをつくったりする。たとえば、"Step Into The Relm"の緊張感は、ヴァースは煽り立てながら、コーラスはビートに隠れるように柔らかくするなど、ドラマティックに変化するポイントを心得た彼らの語り口からもたらされたものだ。彼らが音節をひきのばすと、次に何が起こるか予測するのは不可能に近い。この感覚は、クウェストラヴ率いるリズム・セクションによってさらに増幅される。淀みないフロウと言うには程遠いスタイルだが、展開の読めないリズム・セクションと互い違いに交錯し、ジャブを繰り出す。だから、曲の中盤でバックビートをすばやく変化させ、グルーヴをそれまでとは違う軌道に引き入れるリズム・セクションこそ、このアルバムの真のスターだろう。収録曲のほとんどはヒップホップお決まりの中テムポだが、鋭くパルスを打ち出すドラムズ、たくましいベース、ジャジーなフェンダー・ローズ・ピアノの配置を骨格に組み立てられたアレンジメントに、ジャズのシムバル・パタンのかすかな残響や、テクノの泡立つ回転、様々なパーカッションのアドリブがちりばめられている。
なんと言っても、グループのコンセプトを定めるクウェストラヴのスタジオ・プロダクションの習熟ぶりが、≪Things Fall Apart≫をこれまでになく生き生きとしたアルバムにしている。これまでスタジオでのルーツは自信なさげだった。前作≪Illadelph Halflife≫で、インディからのデビュー作≪Organix≫、メイジャー・デビュー作≪Do You Want More?!!!??!≫の全くのライヴ・バンド・サウンドから、そこに欠けていたループとサムプルを取り入れてはみたものの、ぎこちなくスポンティニティに欠ける出来に終わった。ところが、このアルバムでの彼らは、ライヴ・パフォーマンスのダイナミックな波動をスタジオのディシプリンで捉える方法を見出し、ライヴ・バンドの熱気とスタジオ・テクノロジーの精密さを融合することに成功したのだ。
自称完璧主義者たちは、このアルバムのために145トラックを完成させ、そこから18曲に絞り込んだ。イコライザーを駆使した4チャンネル録音による三次元サウンドによって、ドラムスティックがカチカチ鳴る音、アップライトベースの弦をこする音、ギターをかき鳴らす指が実に鮮明に聞こえてくる。クウェストラヴは、痛ましい幕切れの"Return To Innocence Lost"で、ディアンジェロの弾くローズ・オルガンの上にマイクを宙吊りにして、オルゴールの子守歌のような効果をもたらすなど、まるでアシッド時代のビートルズを彷彿させる実験を試みている。だからと言って、レナード・ハバードのスウィングするベース・ヴァムプを筆頭に、≪Do You Want More?!!!??!≫を特徴づけていたビバップの軽快なリズムが失われたわけではない。スパッと空を切るような鋭利なスネアがのっそりと這いずるベースをピシャピシャはたき、がちゃがちゃしたカリムバが歪んだタムバリンや、朦朧としたアシッド・キーボード、切れ込むターンテーブル・スクラッチともつれあう、くぐもったサウンド・クラッシュの濃密さとノイズに対する傾倒を新たにしたということだ。
いつものように、アルバムのハイライトはルーツらしい芸術ぶったシュールレアリスティックな瞬間とともに訪れる。ファンキーな熱で融け出すベスト・トラック“Dynamite!"は、クウェストラヴのドラム・プログラムではないかと勘違いするほどソリッドでメトロノームのようなビートと変拍子に対して、トニ・トニ・トニのスパンキーがバーニー・ケッセルのようになめらかなジャズ・ギター・ヴァムプを重ね、ブラック・ソウトがビバップのソロイストのように立て続けにフロウを爆発させ、ヴァースごとに“Touch this illa5th dynamite"というユニゾンのチャントがアクセントをつける。
≪Things Fall Apart≫は、ひとつひとつのトラックが曲としてのかっちりした輪郭をもたず、諸行無常なタイトル通りに(?)全体にルーズで流動的に移ろいゆくような感じだから、クラシックと呼ぶのはためらわれるかもしれないが、思わず引き込まれずにはいられないアルバムであることは間違いないだろう。
ただ、いくらルーツがライヴ・パフォーマンスに定評のあるバンドだからと言って、ライヴ・アルバムが素晴らしいとは限らない。先頃リリースされた≪The Roots Come Alive≫は、他のジャンルでも繰り返されてきたライヴ・アルバムをめぐるこのパラドクスをはからずも証明したかたちになった。観に行ったことがある人なら知っていることだが、彼らのショウには、ヒップホップ・クラシックのメガミックス・リヴュー、メムバーひとりひとりの長いソロ・パフォーマンス、レイゼルとスクラッチのビートボックス・バトルといったところがつきものなのだが、このアルバムにはそれらの痕跡がまるでない。その代わり、アルバムの大半が、"You Got Me","Silent Treatment","The Notic"というクロスオーヴァ・ヒット曲のマラソン・メドレーに費やされているばかりか、そのパフォーマンスには火を噴くようなスポンティニティが感じられず、まるで長いトゥアーに疲れ果てたかのように、虚ろで機械的なルーツの姿が記録されている。そのだらけた音楽はヒップホップ・ラウンジコアとでも形容するのが相応しいもので、彼らのサウンド・チェックのブートレグ盤があるとすれば、おそらくそちらのほうが激しくロックしているだろうと思わせるていたらくだ。ボーナス・ソングとして収められたスタジオ・トラックの"Lesson 3"が、ブラック・ソウト、マリク・B、ダイス・ロウが突進するピアノのメロディを荒っぽく削り、それまでのライヴ録音に欠落していた熱気を伝えているのは皮肉な話だ。
≪Things Fall Apart≫で最も楽しい瞬間のひとつは、"Double Trouble"の終盤でアドリブに入ったゲストのモス・デフが、ラン・DMCの“Here We Go"(“Here we go,here we here we here we go")、“Rock Box"(“Let the poppers pop and the breakers break")、そして“Sucker M.C.s(Krush-Groove 1)"(“Two years ago,a friend of mine")を呼び出し、トラックがフェイド・アウトするにつれて、カーティス・ブロウ“The Breaks"(“And these are the...")を放り込むところだろう(オヤジだけかもしれないが…(^^;))。
モス・デフは、インディペンデント・ヒップホップが生んだここ数年で最も輝かしい才能を持つカリスマ的なMCのひとりだ。デ・ラ・ソウルのクラシック“Stakes Is High"のリミックス・ヴァージョンに起用されて注目され、その後何枚かのシングルを発表、昨年タリブ・クウェリと組んだ秀作≪Mos Def And Talib Kweli Are Blackstar≫をリリースした。そんなデフのソロ作≪Black On Both Sides≫も、ここ何年かで最も挑戦的なデビュー・アルバムと言えるたろう。
≪Black On Both Sides≫を、ローリン・ヒルの≪The Miseducation Of Lauryn Hill≫に対する回答だとみなすこともできる。どちらのアルバムも愛の教えであるからだ。しかし、ヒルのレッスンが失意や背反といった個人的な関係の領域からはじまるのに対して、≪Black On Both Sides≫は、自分のコミュニティと密接に絡んだデフ自身の政治的かつ精神的な健康に焦点が当てられる。デフはある疑問を投げかけることからアルバムをスタートさせている。「もしヒップホップが人々にまつわるものだとしたら、人々を取り巻く状況が良くなければヒップホップも良くならない。ではどうしたら人々を取り巻く状況は改善されるのか」と。ヒップホップの現状はどこか間違っている、というネクスト・ムーヴァたちに共通する認識に対して、モス・デフはこのアルバムを通じて答えを示そうとする。
くつろいだ会話調の気さくさで歌い、スキャットし、韻を踏むデフは、ギル・スコット=ヘロンから、ウェルドン・アーヴィン、ブギー・ダウン・プロダクションズまで多彩なスピリチュアルな遺産、アクティヴィストの遺産を呼び出し、88キーズのジャズ・オルガンからDJプレミアのとどろくファンクまで、多彩なサウンドで挑発する。MC自身が奏でるベース、コンガ、パーカッションから構成された震えるように沸き立つグルーヴにのった朗々たるバリトンは、ヤスリで磨き上げられたように明晰で精確なライムをふくらませるだけでなく、嘲るような歌声でコーンやリムプ・ビスキットをディスしたラップ・メタルのパロディ(“Rock'N'Roll")、スポークン・ワード(“Umi Says")、ソウル・シンギング(“Climb")といった試みへと広がりをみせる。それらの野心的な試みがどれも成功しているとは言い難いが、パーティ・トラックにふさわしいエネルギーをもって転がりながらも、社会不正を告発する最新シングル“Mathematics"や、ヒップホップのパワーと限界をめぐる哲学的な瞑想“Hip Hop"のようなトラックは、ヒップホップの啓蒙し、エンタテインし、興奮させる能力を呼び覚ますものだ。複数のプロデューサーを起用したトラックも、どれも力強くメロディアスでタイトな仕上がりをみせ、アルバムとしてのまとまりを損なってはいないばかりか、70分が短く思えるほどだ。
自分の生まれ故郷に対する力強いオマージュ“Brooklyn"は、このアルバムのコンセプトを最も良くあらわしている。デフは、ロイ・エアーズのムーディなヴァイブやノトーリアス・B.I..G.“Who Shot Ya?"のインストゥルメンタルを口寄せに、ブルックリンの音楽的伝統に寄せたヴァースを縫い上げることで、この街は彼の情熱、外見、矛盾を映し出す鏡に変貌していく。“Ms.Fat Booty"のロマンティックな記憶の祝福から、制度的な人種差別(“Mr.Nigga")や環境的な人種差別(“New World Water")の告発まで、アルバムのトピックは驚くほど多岐にわたっているが、それらをひとつに収斂させるいわばレンズの焦点になっているのは、モス・デフという個人の感性なのだ。彼はアルバムを通じて、自分自身、黒人の歴史、黒人コミュニティ、そして何よりもヒップホップという文化に対する無償の愛を捧げている。PM・ドーンを別にすると、ラップ・アルバムとしては他に例をみないほど「ラヴ」というコトバが頻出するのは、デフが、ジェイムズ・ボールドウィンのように、歴史的に自己憎悪に苛まれた黒人たちが直面している問題の中心にあるのは、「愛することができない」ということであると信じているからなのだ。ルーズな≪Things Fall Apart≫とタイトな≪Black On Both Sides≫、99年のベスト・アルバム・オブ・ジ・イヤーとしてどちらも甲乙つけがたい作品だ。ちなみに、クウェストラヴとモス・デフは、ビギーというヒップホップ/ビッグバンド・ジャズ・プロジェクト(!?)を組む予定だとか。(1999.12.12)
順にA、B MINUS、A