古い千円札

最初の結婚に終止符を打ち、数年後一回り下の女房と出会う。成人を迎えたばかりの娘を離婚歴のある三十男が騙したとの非難の中、略奪に似た形での婚姻、そして長女が誕生した。形式や世間体を重んじる女房の親族へ仕方なく子ずれでの挨拶回り冷笑の波が押し寄せる。
そんな中で、最後の一軒、浅間山がすぐ目の前に見える山村で八十才になるおばあちゃんがしわくちゃの手で、出迎えてくれた。家族の反対の中でただ一人、孫娘が選んだ男に間違いはないと、朝早くからよもぎをつんで作ったという餃子に似た形の草餅、その中には、今でも畑に出ているんだと、自分で育てた小豆のあんこがたっぷりと入っていた。
一口ほおばるたびにじっと覗き込み、私の反応にその都度うなずく、しわの間からやわらかな優しい光が注ぎ込まれる。地獄のような挨拶回りが一瞬のうちに消え去った。二十歳の娘が両親にとってどれだけ大切なものか考えてみれば、三十を過ぎた離婚歴のある男は否応無しに拒絶するのが当たり前であり、そんな当たり前の事を三十過ぎてまで弁ず、他人が大切にしているものを無神経にもぎ取る行為は、いくら正当化しようとしても出来るものではない。
己の行為は棚に上げて冷 ややかな視線に悪意を覚える私こそ犬畜生にも劣る中途半端な人間であったのだ。自己中心の自分がこんな風に考えられるようになったのは、あの日のおばあちゃんの”こころ”の存在があったことは否めない。あれから十数年、子どもは、女の子ばかり三人になった。九十才を過ぎてもかくしゃくとして野良着に身を包むおばあちゃんとの久久の再会が訪れた。
谷川のせせらぎが小気味よく聞こえるわらぶき屋根の軒下で、おばあちゃん自慢の花豆に舌鼓を打ち、子供たちの仲間に加わり、ひとときの童心を貪る。居心地のよい、この時間の中にいつまでも浸っていたいと言う未練を断ちきって帰路に就く。
遊びつかれた子供たちは車中ですぐに夢人となる。末娘の腕に抱かれたバスケットが半開きになり、中から四っに折った紙幣がのぞいている。広げてみるとそれはかなり古い聖徳太子の千円札である。現在この紙幣を使用するものは、おそらく一人としていないであろう。上の二人の娘のバスケットからも同じ千円札が見つかった。おばあちゃんが持たせたに違いない。
今の千円は、子供たちにとってもそれほどの金額と思えないが、おばあちゃんがこの紙幣を手に入れた当時は、かなりの大金であったはずである。そして、それをずっと大切に持っていたのだろう。
それから三年後のおばあちゃんは九十三歳で帰らぬ人となったが、あの時の見慣れぬ千円札にとまどった三人の娘たちの財布の中で今でも聖徳太子の千円札は、お守りのように眠っている。そして、それは単なる一枚の千円札では無く、人間の限りなく大きな”まごころ”がある事を娘達はそれぞれ感じているらしい。私たちを取り巻く一つ一つすべてのものに素晴らしい”こころ根”がある事に気ずいたとき、人は、限りない幸せに酔えるのかもしれない。



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