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無辜の不処罰

 「10人の罪人を逃しても、1人の無辜(むこ=無実の人)を処罰することなかれ」ということわざがある。近代刑事手続きの原点である“無辜の不処罰”を象徴する言葉だ。“無罪推定の原則”や“防御権の保障”など近代刑事手続きの諸原則はこの原点を実現するためと言ってよい。それゆえ、現代の刑事手続きが語られる場合にしばしば引用される重要なことわざである。
 ただ残念なことに、日本では、警察や検察はもとより裁判官や多くの法学者が、このことわざを本当に重要なものと考えているとは思えない。ある裁判官は、無罪判決を出す時に「犯罪者を取り逃がすことになったら」と心配するそうだ。「野放しの犯罪者が犯罪を繰り返したらどうする」と詰め寄られた時に、「それでも無実の者が処罰されるよりましだ」と言い切る者が何人いるだろうか。
 それどころか、日本の現状は、“処罰された者が無辜ではあってはならない”とこのことわざを転倒させ、再審の門を固く閉ざして誤判の訂正と無辜の救済を拒否している。
 国家権力の規制を目的とする憲法の下に刑訴法が存在する以上、その目的は「犯罪者」をいかに効率良く処罰するかではなく、十分な証拠もなしに片端から犯人扱いしかねない国家に、でたらめな処罰させないということでなければならない。だから、検挙率や有罪率の高さは日本の刑事手続きの欠陥を示しているのだ。
 しかし、日本の刑事手続きの関係者は、そうは考えず、より効果的な捜査のためと称して、警察の拷問的取り調べや職務質問の強制、盗聴など違法な捜査手法を次々に合法化し、防御権を踏みにじってきた。その彼らに、このことわざを語る資格があるだろうか。(写真は1789年のフランス人権宣言の楯)