「カタクリ家の幸福」

pic





 監督:三池崇史

 出演: 沢田研二、松坂慶子、丹波哲郎、西田尚美、武田真治、忌野清志郎







 三池崇史。

 職業、映画監督。
 米「TIME」誌で非ハリウッド系で最も期待される監督の1人に選ばれた事は記憶に新しい。









 「職人」 という言葉を辞書で調べると こう書いてある。

 「主に手先の技術で物を作る職業の人。例、大工、左官、建具師等」

 また「職人気質」という言葉には

 「職人(の社会)に特有の、粗野、偏狭で気分に支配されやすいが実直といった気質」という意味がある。


 古来から日本の社会を形成した原動力は江戸時代の身分制度で言うならば 圧倒的多数の農民と 都市部にわすか存在した工商である町人であると言っても大袈裟ではない。
 確かに法制度の確立、秩序を司ったのは武家であるのは疑うべきもないが江戸時代中〜後期にもなると武家中心の時代から米、商品作物などの流通を通し財を成した商人が武家を圧倒したのは周知の事実である。
 彼ら豪商と言われる商人がさすがにわずかとしても 都市部に在住する商人と密接な関係を結んでいたのはいわゆる各専門分野の職人である。


 のっけから 日本史の講義めいてしまったが、結局、何が言いたいかというと 高度経済成長期以前(または戦前まで)の日本において職人と言われている人たちがどれだけ経済的な発展に寄与したかということである。
 だが、大量生産、大量消費、そして効率を美徳としてきた高度経済期以降の 日本において 職人の存在意義は見失いつつあった。

 そんな職人の世界が継承され続けている世界の1つ......それは映画界であると断言出来る。
 いわゆる撮影システムが確立された初期の頃から撮影所は分業、分担がはっきりとしていた。
 撮影、音声、編集、脚本、衣装、結髪 etcと一本の作品を作る上で それぞれ関わる仕事は専門化されている。
 そしてその最たるものが映画監督と言われる職業である。
 確かに監督と脚本、または製作、編集、はたまた音楽まで幅広く兼任する映画監督も多い。
 が、映画監督の本分はあくまでも現場の代表、大工で言えば頭領、オーケストラで 言えばコンダクターである。高度に専門化された職能を有する”職人”である 撮影、音声、編集、脚本、衣装、結髪らで構成される集団の先頭に立つ監督も 間違いなく職人であると言えるだろう。

 さて ここでようやく映画監督 三池崇史である。
 彼の映画界との接点は 今村昌平監督が校長をつとめる横浜放送専門学校(現:日本映画学校)に入学したところから始まる。
 しかし、「映画は芸術である」という講義に幻滅した三池はすぐに学校には行かなくなり校長である今村監督の撮影現場などに下っ端の助監督などとして潜りこむことに成功。
 彼の本格的な映画人生はここから始まったと言える。
 現在の若手映画監督のほとんどがそうであるように 彼の初監督作品もオリジナルビデオ作品、いわゆるVシネ(「突風! ミニパト隊−アイキャッチ ジャンクション」)だった。
 そこからはもう怒濤のビデオリリース。だが どれもこれもバイオレンスとアクション、極道ものに集中しがちで ある作品に出会うまでは三池作品に正直、興味が持てなかった。

 その作品「Dead or Alive 犯罪者」は 今や、伝説化、カルト化された作品であるがラストシーンのStory、設定、何もかも全てを破壊し尽くす(これホント)映像表現に唖然としたと同時に自分の中で”三池崇史”という映画監督が最重要人物となったのは言うまでもない。
 それから彼のフルモグラフィティを調べると、意外にもSpeed主演の映画「アンドロメディア」や椎名誠原作の「中国の鳥人」、アイドル格闘物「天然少女萬」など いわば非三池カラーの作品も過去作られていたことで興味がより深くなっていったのだ。
 そんな三池監督は昨年〜今年、精力的に映画を制作(「Dead or Alive Final」「殺し屋1」「荒ぶる魂」) その中でも 今回見た「カタクリ家の幸福」はアクションでもバイオレンスでもない、いわば非三池カラー作品なれど 突き抜けた作品となっていた。
 元々、この「カタクリ家の幸福」は韓国映画「クワイエットファミリー」のリメイクということであったが(ちなみに「クワイエットファミリー」は未見) それをミュージカル仕立てとするという"凡人ではまず思いつきそうもない”アイデアを導入したことで 既にオリジナルを超えた(らしい....重複するが「クワイエットファミリー」は未見)。



 長年務めたデパートをリストラされたカタクリマサオ(沢田研二)は、友人にそそのかされ人里離れた山の中にペンションを建ててしまった。
 しかし幹線道路からも遠く離れ、観光名所があるわけでないこんな場所に客など寄りつきもしない。そんな無謀な行動に出た夫に甲斐甲斐しく寄り添う妻 テルエ(松坂慶子)、未婚の母でもある娘 シズエ(西田尚美)とその子 ユリエ(宮崎瑶希)、会社をヤバめな事でクビになった息子マサユキ(武田真治)、そして霊界の話をし始めたら止まらない!!!祖父 ニヘイ(丹波哲郎)らも文句を言いながら父と共にあった。
picそんな客は来ない、お金もないというナイナイづくしのところにようやく訪れた客(映画評論家 塩田時敏)もその日のうちに自殺。
 これが大っぴらになれば、このペンションに悪評が立ってもう二度と客は来なくなるだろうだろう。とマサオらは客の死体を近くの溜池近くに黙って埋めてしまう。だが これがけちのつきはじめという訳か、次にやってきた人気力士 歌の海はグルーピーらしき女の子を同行していたものの、SEX中の心臓発作(いわゆる腹上死というやつですね)で死亡。
そのあおりをくらい下の女の子も圧死。仕方なく 今回も一家は一致団結して死体をようやくの思いで担ぎ出しまた同じところに埋めたのだった。
 ペンションにやってくる次々とやってくるヘンな客、そしてシズエに近づく イギリス国王の血をひくアメリカ軍人??のリチャード佐川(忌野清志郎)、逃走中の殺人犯(遠藤憲一)など、エンディングまでペンション「白い恋人たち」から目が離せない。



 死体がどんどん出てきて 主人公たちがそれによって右往左往するというのは韓国版オリジナルを踏襲しているにしても 冒頭と中盤、ラスト近くのヘタウマなクレイアニメーション(多少残酷な感じはMTVの「セレビリティデスマッチ」に似ていなくもない)、突然始まるマサオ&テルエ(沢田研二&松坂慶子)のDuet曲カラオケ風プロモV(歌詞入り)、M・ジャクソンの「スリラー」モロパクリのダンスシーン、三池映画常連な竹中直人の大激笑としか言いようがない怪演ぶり、リチャード佐川なる怪人物を実在のモデルをも超えた(?)飄々とした演技でこなした清志郎。
 それから これを忘れてはいけない。どの撮影現場に行っても撮影スタイルに変化なし丹波哲郎の他とズレ気味の踊りも笑いを大いに誘うなど オリジナルとはかけ離れたものになっているようだ。
いうなれば このデタラメさ加減もいつもながらの三池流。
 地球が爆発しようが(「DOA」)、ヤクザがサイボーグで蘇ろうが(「フルメタル極道」)、臓物がどうみても豚の腸とモロわかり(「殺し屋1」)のデタラメさは もうこの人のスタイルとして定着しつつありこのスタイルに興味を抱き三池ワールドに足を踏み入れた自分のような者にとっては 今回のどちらかというと暗くなりがちな題材をミュージカル仕立てとする事で「何かやってくれそうな」という予感を十分満足させるものであった。




 このレポートの前半、私は撮影、音声、編集、脚本....という職人の集合体の先頭に立ち、指揮を執る映画監督も職人であると書いた。
 職人とは その言葉の持つイメージから、かなり限定された作業内容とそれを守り続ける頑固な姿勢、伝統に裏打ちされた技術力の高さを感じることが出来るのだが こと映画監督を職人として見いだすと現在では 多少、趣を異にする。
 言葉通りの職人としての映画監督なれば どんなテーマの映画であっても一貫して自分のスタイルを貫くことであろう。正に正統派な職人監督だ。
 だが、現代では製作資金、上映形態の変化、観客の質etc.... により自分のスタイルをあくまでも守り続けるというのも困難な時代になっている。従って 監督自身が望むも望まなくも自分のスタイルを投影しやすいテーマの映画ばかりは撮ることは出来ず自然と撮る映画の分野もバラバラとなる。
 三池監督は 意図的に題材の分野を固定せず、それぞれの現場で培った経験を蓄え、日々前進しているような気がする。
 だが ヤクザ、バイオレンス、アイドル、ホラー、ミュージカルと扱うテーマは違えど スタイルはどこを切っても三池カラー。
 正に彼のようなスタイルが 現代の職人映画監督と言えるのではないだろうか。
 次回作の公開も待ち遠しい限りである。





pic 88点






button