監督:大林宣彦
原作:芦原すなお(河出書房新社刊)第105回(1991年度)直木賞受賞
脚本:石森史郎
音楽:久石 譲
出演:林 泰文、大森嘉之、浅野忠信、永堀剛敏、佐藤真一郎、柴山智加、滝沢涼子、原田和代(及森玲子)、高橋かほり、ベンガル、根岸季衣、岸部一徳
公開(1992.10.31)から既に13年余り。この映画の魅力は未だ色褪せる事はない。
「高校生が仲間を集め、バンドを組む」という青春音楽群像劇は「So What」「ロックよ静かに流れよ」「ザ・コミットメンツ」etcと
映画ではもはやお馴染みのテーマである。
しかし この映画が他の作品と一線を画し今も魅力的で有り続けるのは「原作の良かったから」ばかりではないであろう。
大林監督はこの映画を数台のカメラ、それも16ミリ手持ちカメラで
同時に撮影、それを編集の段階で一旦、細切れにして繋ぎ直すという
手法で見せている。ゆえにカット数も多く、映画冒頭から目まぐるしい
場面転換に辟易をもするのだが、それが後半になればなるほどカット数
は減り長回しの撮り方になっていく。
これは主人公達の気持ちの揺らぎやその成長ぶりに比例しての大林監督ならではの技法であるが、まるでドキュメンタリーを見ているかのような映画の質感は主人公達と同化するには充分すぎるぐらいの効果を与えていた。
現役も含め楽器経験者、バンド経験者なら、この感じ、判ってもらえると思う。
あらすじ
1965年、僕は15歳だった。
無性に「何か」をしたかった。でも「何か」が何であるのかが判らなかったんだ。
そんな時、ラジオから流れる1曲のロックが僕の目を覚ました。
僕の身体は”感電”したまま動かなくなった。完全無欠のKOパンチ、取り返しのつかない強烈なセンセーションだった。
とにかく、その電気的ショック=『パイプライン』を聴いた瞬間から僕の人生は大きく開けた。
「バンドをやらなきゃいかん!」もちろん電気ギターと電気ベースとドラムのロックバンドだ。でもいざ実際にバンドをやるというのはなかなか大変だ。
特に1965年、四国の観音寺市で高校生をやっている者にとっては.......。
まず同じようにロックに”シビレた”ヤツを見つけるのが先決。
運良く出会った3人を即バンドメンバーにした。次は当然、楽器を手にいれなくちゃならない。
夏休み中、僕らは工場で汗水垂らし、一生懸命働いた。もちろん昼飯は
さぬきうどんである。
そして ひと夏のアルバイトの苦労が実を結び、遂に夢にまで見た、ピカピカのGuyatoneのギターとベース、ドラムが僕らの手元にやってきた。
「デンデケデケデケ〜〜〜!」
ヘビーでダイナミック、そしてメロウなサウンドが胸にズキズキ突き刺さる。
それが今、僕と一体化した電気ギターから出ているだからもうたまらない。
何度弾いてイイものはいいのだ。もう誰にも僕らのロック狂いを止める事なんて
できやしない。
練習場所だって、墓地でも河原でもどこでもOK。僕らにとってそこら中がスタジオだったのだ。
資金不足で手に入れられなかったアンプも機械いじりの得意な仲間が作ってくれるわ、クラスメートの女の子のハートだってがっちり掴めるっていうのだからもう最高の気分。
今、僕らは、眩いばかりに輝いている。
友情、恋、そしてロック ! ロック ! ロック !
「何か」をはっきりと見つけた僕らは、一直線に青春を突き進んでいくのだ。
(当時のチラシから加筆、転載)
「原作」 と 「映画」 - その幸福な出会い -
時は1965年。
ここ日本ではベンチャーズの来日と共にエレキブームに火がついた。
当時学生であった原作者、芦原すなお氏もそんな”電気的啓示”を受けた一人であった。
そして、ベンチャーズのエレキギターの音を『テケテケ』ではなく、
『デンデケデケデケ』と聞いていた氏が後年、自分の言葉で紡いだ
物語が「青春デンデケデケデケ」であり、あの頃の思いを
「デンデケデケデケ」という言葉に込めた”拘り”を受け継いだのが
映画「青春デンデケデケデケ」である。
その”拘り”とは何か?
と問われれば後年、大林監督が述べていたように「この物語が”ロックに出会わなければ不良になったかもしれない少年達”の話ではなく、”ロックをやらなければ単なる優等生で終わったかもしれない男の子達”の話である事が重要であった」という事に尽きると思う。
この監督の拘りが巷によくある「不良少年のロックによる更正物語」ではない「ロック好きのごく普通な少年達のごく普通の日常」を切り取り、光を当てる事に成功したと言える。
確かにロックの成り立ちを考えれば「ロック=不良」という図式が成立するのも頷ける。特に今のようなメディアが発達していなかった30数年前なら尚更であろう。
またロックの持つメッセージ性、例えば反体制、反権力というイメージは初期のロックンロールから、ハードロック、パンクロック、ヘビィメタル、グランジロック、ミクスチャーロック..と時代と共に移り変わっても普遍的である。
ゆえに「ロック=不良」という固定観念は少なからず未だ、年長者には色濃く残っているに違いない。
しかし、ロックとの出会いをメッセージよりも先に純粋に音楽として時に強力なりズムや軽快なメロディに魅惑され、心惹かれた者にとってはロックに夢中になる主人公の気持ちを自分の事のように受け取る事が出来たのである。
映画の冒頭、林泰文ふんする主人公がラジオから流れてきたベンチャーズの「パイプライン」を聞き「デンデケデケデケ」と”電気的啓示”を受け「どうしようーに」と興奮する場面は最もそれを象徴している。
ロックが奏でる音の持つ純粋な魅力が人の心を捕らえて離さないというのは今も昔も変わりなく、「不良でない普通の少年」があの時代にあってもロックの魅力に取り憑かれて..というのは全く普通な事であったのだ。
ただ 普通の少年の生活を普通に描くというのは予想以上に難しい。
例えばロックと出会い、仲間を集めバンドを組み、コンテストを目指し前向きに生きよう(時にはその仲間がバイク事故で亡くなったり、不祥事を起こしたりというアクシデントが有るなど)という画(え)にし易い『不良少年達のロックによる更正物語』なら判りやすいと思う。
しかし、その主人公達の姿に全ての人が自分の姿を重ね合わせるような共感を持つことが出来るかと言えば甚だ疑問である。
多くの人からより広く共感を得るにはと考えればこの「青春デンデケデケデケ」のようにどこにでもいる普通の高校生がある日、ロックに目覚め、自分達の好きな曲を、自分達の唯一なものにする為に楽器を持ち、バンドを組んで最後の檜舞台として学園祭に出て披露するという”ささやかな夢”を追いかける方が真実味が有り説得力も有るのはないだろうか。
そして映画全編を通してこのバンドメンバー達の心に、仲間を思い、愛しく思う気持ちが徐々に芽生えていくという課程がこの物語のテーマであり、最も重要な部分であると思う。
だからこそ映画のラストで”ささやかな夢”を成し遂げ虚無感に囚われた主人公を心配し仲間達が”終身バンドリーダー”の称号を与え励ます場面が私達の心をとらえるのだろう。
このように、普通の少年達の思いを『テケテケ』ではなく『デンデケデケデケ』という表現に込め、拘った芦原氏と不良少年達の更正物語よりも「ロックをやらなかったら単なる優等生で終わったかもしれない男の子達」の話に拘った大林監督の幸福な出会いが監督言うところの「懐かし印ではなく元気印」の映画として”昔の若者”、そして今の若者の心をもとらえたに違いないと私は感じている。
(初出:OBsClub通信9号(1997.4.30発行) 大林映画大全集 1977〜1997 / 加筆・修正:2004.12)
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浅野忠信
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永堀剛敏
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90点
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