ガンダムデザイナー列伝
第一作
大河原邦男 1947年12月26日生 東京都稲城市出身 造形大学 テキスタイルデザイン科卒 |
言わずと知れたガンダムのメインデザイナー. 一部ガンダムファンの間では神格化されているが、実は基本デザインから手掛けたものはさほど多くない.(安彦氏や富野氏のウエイトが大きいメカが多々ある.) しかし、ガンダムという非常に狭い枠内だけで氏のデザインセンスを批評してしまうのは不見識以外の何ものでもない. シリアスなメカ物からヤッターマン、ドラえもんなどのギャグ・コミカル物まで幅広い仕事をこなす氏に比肩しうる才能を持つデザイナーがアニメ業界にどれほど存在するであろうか? また、氏はアニメーション制作という共同作業の中での自己の役割を熟知し、「1スタッフに徹して監督の持つイメージを具象化したものを創る」というポリシーを貫き通している.後半、富野氏のラフのクリンナップ作業が中心になっても(デザイナーにとってこれは非常に面白くないことなのであろうが)、それを黙々とこなした氏の姿勢は十分に賞賛されるべき事柄である. デビューから30年近くを経た、最新作のガンダムSEEDにおいてもそのスタンスは変わることなく、業界の第一線で活躍されている。 |
安彦良和 1947年12月9日生 北海道紋別郡出身 弘前大学入学 |
キャラクターデザイナーとして知られる氏だが、ガンダムやドムのフィニッシュワークは安彦氏によるものであり、MS特有ののバランスやディティールを生み出したのは安彦氏であることは間違いない. 虫プロ養成所第2期生で、入社当時から「天才」との呼び声が高かったという. ライディーンの作画用クリンナップ稿も氏によるもので、メカ・キャラを問わず絵の巧さは当時第一級であった.当然、氏の才能は引く手あまたで、担当した「さらば宇宙戦艦ヤマト」のラスト30分の原画はプロデューサーの西崎氏から修正厳禁命令が出たという逸話がある. 「ヴィナス戦記」を最後にアニメーション制作から漫画へと活動の場を移し現在に至っている. その総決算が「マンガ」としてのジ・オリジンなのであろうか. |
富野善幸(現・由悠季) 1941年11月5日生 神奈川県小田原市出身 日本大学芸術学部卒 |
第一作のドムより後のMS/MA基本デザインは監督自身によるものである. 水陸両用MS、ザクレロのように前時代的なヤラレメカデザインも多いのだが、エルメス、ジオングのような傑作も多い.特にジオングは足ナシ、メカ剥き出しの未完成品という、演出家ならではのデザインコンセプトを盛り込んだものとなっており興味深い. 富野氏はイデオンにおいてもメカデザインに対する詳細なコミットを行っており、重機動メカのほとんど全てのラフを担当したと言っても過言ではないだろう. |
大河原氏にしろ安彦氏にしろ、アニメ業界に入ったのは結婚して子供ができ生活の糧を得る必然にせまられた故だったそうです.(富野氏が虫プロに戻ったのも似たような理由)
それだけにこの世代のデザイナーは職人的な責任感も強く、様々な意味で大人の仕事的なスタンスが感じられます.
MSV
小田雅弘 1960年12月26日生 東京都渋谷区出身 成城大学経済学部卒 |
モデラー集団ストリームベースの中心的人物. MSVの仕掛人である安井尚志氏の知己を得てバンダイの商品企画に加わわる.バンダイMSVシリーズの設定解説、設計監修、試作で参加. 以後、日本サンライズ作品の模型企画に大なり小なり関係をもつことになる.ゲルググキャノンを初めとしてフルアーマーガンダム、ガンキャノンIIなど氏が基本デザインを行ったMSVは多い.MSの魅力の一側面であるミリタリー性を最も良く認識していた方であり、各MSVの設定解説は絶妙の一言につきる.またオリジナルのガンダムの世界観を極力崩さないように設定の組立を行っているのは見事である. 氏のすごいところは、ミリタリマニアでありながらも商品企画としてのガンダムをちゃんと考慮しているところであろうか. (特にGディフェンサーは氏がゼータ登場以後のMK−2関連玩具のプレイバリューを考慮して企画・デザインした好例であろう) これらMSVの功績により氏は「業界の治外法権」と自称させるほどの地位を得、一時期はモデラーというよりも業界ウォッチャー的な立場を取ることもあったようである. Z、ZZでもMSデザインに関わりを持ち続け、ZZのザク3、ザクデザートのように彼のデザインになるMSもTV画面に登場した. ZZ中期以降、何故かガンダム業界との関わりを断ち(体調不良のためという説もある)、個人的な交友のあった永野護氏のファイブスターのガレージキットを海洋堂で手がけたり、模型制作の通信講座、フリーライターなどを経て’91年頃には業界活動を休止. 1999年現在で東京宝くじサービス(株)に勤務されている. |
近藤和久 1959年4月2日生 愛知県出身 |
ガンダム漫画の第一人者. デビュー以前はヤングマガジンに投稿を行いながら守村大氏のもとでアシスタントをされていたという.メカが描けるというところからコミックボンボンを紹介され、ためしに持ち込んだ作品が第一回ボンボン新人賞を取ってしまった事で氏の運命は決まっていたのかもしれない. 「血を吸うマンション」(ホラー)でデビューを果たした氏は、早速「MS戦記」を担当することになる.この作品に登場するMSアレンジは衝撃的であった.アニメ作画用の極めて単純なラインしかもたなかったガンダムの設定画に精緻な書き込みを追加した近藤ディティールは業界の話題となり一世を風靡したのである. その後ZのMSデザインに関わり、Zのコミカライズを担当することになる. その際もオリジナルのキュベレイ、Gディフェンサーなどを登場させ、マニアやモデラーからは高い評価を受けた. 氏自身はガンダム専業になってしまったことに不満を持っていたフシもあるのだが、需要のあるままにガンダム作品を描き続けた. しかし、’87年頃からは小林源文氏の作品に酷似した絵柄を描くようになり、個人的な趣味(ジオン軍をドイツ軍そのものにしてしまうような)が強く出るようになったのは同人誌的な退行と言えるのではないだろうか. その後もガンダムのコミカライズ、パッケージアートなどを手がけ現在に至る. |
増尾隆幸
1955年9月30日生 京都市立芸術大学美術部 デザイン科卒 |
’81年にガンダム2哀戦士編グラフィックブックでMSなどの彩色をされたのが初のガンダムの仕事という. それまでも「ブルーノア」「ギャバン」「ゴライオン」で特撮・アニメ関係の仕事をされていたようだ. 当時、「バイファム」「ボトムズ」等で多忙な大河原氏になり代わりMSVのデザインやクリンナップ作業を務めた. MS06−R2ザクの背面、06RPなどを担当していることが判明しているが、もっとたくさんのデザインを手がけているハズである. また、’83年11月からコミックボンボンで連載された絵物語「GUNDAM MSV エースパイロット列伝」の作画を担当したのも氏である. |
MSV以降は若手世代の独壇場となります.モデラーからデザイナーにスライドするのもこれ以降を考えると決して珍しいことではないようです.
MSVでは他にも板野一郎氏がパーフェクトガンダムの原型を描いたり、高橋昌也、川口克己、草刈健一氏などもデザイン的なサジェスチョンを行っていました.
Zガンダム
永野 護 1960年1月21日生 京都府舞鶴市出身 拓殖大学入学 |
天才. 拓殖大学在学中(5回生)の’83年、友人の富樫真氏に誘われてサンライズへ入社.氏は本来ロックミュージシャン志望だったという. バイファム、ゴーグのメカデザインなどを手がけた頃に描いていた企画「ALON」が富野氏の目にとまり、これが「重戦機エルガイム」となる. その鮮烈なセンスは「聖戦士ダンバイン」で一線引退を考えていた富野氏を現場に踏みとどまらせる原動力となったという(現在でもデザイナーとしての富野氏の評価は日本一).永野氏は世界観を構築し、設定として消化したデザインを行える数少ないデザイナーの一人である. 枝葉的な例となるが、つま先と踵の分離、間接構造等など彼がエルガイムで取り入れたロボットの見せ方はその後のリアルロボットのスタンダードとなったと言っても過言ではないだろう.永野氏の登場以後、ロボットのデザインは劇的に変化したのである. 「エルガイム」のキャラ、メカデザイナーを担当したのち、Zガンダムのデザインワークスを担当.デザインワークスという名はデザイナーの領域を超越した彼への称号である(世界観の構成をも任されていた訳である). しかしながら、これは彼の卓越した個性をガンダムという狭い価値観の評価に閉じこめる結果となったのではないだろうか? そして、氏はガンダムをデザインしながらも「永野護」から外れるデザインは決して行わなかった、やがてこれははガンダムというブランドを商業的に利用する立場の人たちとの衝突という形の終局を迎える. ZZのゲゼ原案を最後に氏のMSは表舞台から姿を消した. (その後も百式ノイとか逆襲のシャア用のデザインなど水面下でのデザインはありますが) ガンダムから解放された氏はライフワークである「ファイブスターストーリーズ」を発表.近年では再び富野氏と組んだ「ブレンパワード」でメカデザインを担当. 未だに根強い信者を持つカリスマデザイナーである. |
藤田一己 1964年9月9日生 静岡県浜松市出身 |
高校卒業後、アニメーターを志して上京、中村プロから日本サンライズの斡旋で伸童舎へと入られたという. アニメーター時代はボトムズの第二原画を担当.伸童舎ではデュアルマガジンでボトムズのイラストを手がけており、これが後のベルゼルガ物語へと繋がってゆく.その後、弱冠19歳にして「Zガンダム」のメカニックデザイナーに抜擢. 当初は大河原氏のクリンナップ担当だったが、各氏のデザインの取りまとめるうちにメインメカニックデザイナーとなる. Zではメッサーラで初のオリジナルデザインを手がけ、ガブスレー、バイアラン、パラス・アテネと氏独自のMSデザインを展開した. 「ZZ」のズサと幻の永野版ZZのクリンナップを最後にアニメのガンダムから外れ、その後復帰することはなかった.以後はZMSV、タイラントソード、ベルゼルガ物語などを手がけ、氏独自のデザインラインを進歩させていった. 実力のあるデザイナーであり、バイクをモチーフとしていると思われる流麗なデザインラインは見事である. しかし、’88年メインデザイナーを担当していたマクロス2の作業半ばにしてアニメ製作の表舞台から姿を消す。 (氏デザインのデストロイドなどのデザインもお蔵入りに…) その後、F91のアレンジデザイン、ゲーム、玩具企画などを手がけるがアニメ業界の前面に出ることは無かった. 本来ならば’90年代を代表するにたる力量を持っておられる方なだけに残念である. |
小林 誠 1960年7月13日生 東京都出身 |
’84、モデルアート社刊「HYPER WEAPON」でデビュー. この作品は模型を使ったSFで2001年から2984年の未来世界を扱ったもので、後の「迷宮都市」などにも繋がる小林誠ワールドの発端となった作品である. 同年、金田伊功が参加したことで話題となったOVA「バース」にメカデザインとして参加.これが氏のアニメ業界初仕事となった. ガンダムでは多数のデザイナーに依頼が出されましたが、氏もその中の一人でした.氏が描いたMSにはマラサイ、ジオ、ガザC、バウンドドックなどがあるが、そのデザインラインは、他のデザイナーの作品と比べても極めて異色であったといえる. 親交のある横山宏氏のSF3D(ホビージャパン連載)の影響を色濃く受けており、一見普通のMSに見えるマラサイも氏の原画はSF3Dメカそのものである.(MSっぽく見えるのは藤田氏のアレンジメントの妙であろう) それゆえ旧来のMSファンからはアレルギー的な拒否反応を示されていた部分もあったようである. しかしガンダムに関わった当時のデザイナーで世界観と呼べるほどの独自の個性を持っていたのは氏と永野護氏ぐらいではなかっただろうか. 氏と永野氏の最大の相違点はクライアントへの対応の仕方であろうか. ZZの永野氏降板という大混乱の中、スポンサーの意向を汲みつつ玩具会社の変形デザインをそれなりに見栄えのするデザインにまとめあげた(それもごく短期間で)力量は大いに評価されるべきであろう.おまけにその模型(それも展示に耐えられるレベルの)までフルスクラッチで制作してのけるバイタリティーと技術力はまさに3Dイラストレーターの感がある. 氏自身、ファンたちの間でガンダムという作品の概念が固定化していくのを憂いていたフシもあり、自由な発想を展開できるオリジナルな作品制作を求めていたようである. それは’88に氏が監督をつとめた「ドラゴンズ・ヘブン」である意味はたされたのかも知れない. |
Zガンダム編続きます