おげまるさま
フル・コンタクトな書込み、ありがとうこざいます。
>自動翻訳機能
日記では、茶化してしまいましたが、こんなこともネットで、できるのか
と、ちょっと感心してしまいました。幾つか単語がわからないだけなら、結
構使えるかもしれません。
>あなたもクィーンになれる
って、可笑しいです。ダネイは、こうやって勧誘したのか。
> それにしてもなぜデヴィッドスンとスタージョンだったんですかね?
> 「筆力があって貧乏なもとい不遇な作家」だったら、他にも大勢いた
> はずなのに、なぜSF作家だったのか。
代作自体は、無論誉められることではないけど、
考えるほどに、この2人を代作者に選んだクイーンの眼力は、
さすがだったと思います。凝った文章家で、一種の韜晦趣味の持ち主
だった点は、共通しているのではないかと。
デイヴィッドスン「10月3日の目撃者」(朝日ソノラマ文庫)の
後書きで、仁賀克雄が「第八の日」の代作に触れて、
「クイーンとは同じユダヤ人として親しくしていたのかもしれない。
その作品の怪しげな宗教の雰囲気はたしかにディヴィドスンのタッチ
である」と書いています。
(後にデイヴィドスンは、日本の天理教に改宗したらしいんですが、
変わった経歴の持ち主ですねえ)
「THE TRAGEDY OF ERRORS」に、リーの息子、ランド・B・リーが
エッセイを寄せていて、ちょっと聞き捨てならないことを書いていま
す。
父親が教えてくれて自分は、SF好きになったというくだりがあり、
SF好きゆえ、愛好するクイーン作品は、長いこと「第八の日」
だったと。(親不孝者!)
この人は、SF誌に短編も書いているらしい
「THE TRAGEDY OF ERRORS」をみると、クイーンのシノプシスは、
相当にがっちりしたものだったようで、代作者は、単にタイプライ
ターがわりだったという考え方もありえますけど、「第八の日」の
神韻ひょうびょうとした雰囲気、後期作品に関して北村薫がいっ
た「どこか遠い所で不思議な音が鳴っている」感じというのは、
二人の代作者によるところも大きいのではないかという気がします。
>どうせならファーマーに『恐怖の研究』を代作してほしかったです。
ホームズ・パロディも書いているファーマーなら面白そうですね。
>ディック筆の『九尾の猫』というのも読んでみたかったなあ。邪悪
なカザリス博士がエラリイを「あっちの世界」に追い込んでしまうヴ
ァージョン。
こら凄い。でも、何を書いても暴走してディックになってしまったかも。
ペーハーバックオリジナルのジャック・ヴァンスのクイーンというのも、
気になっているのですが。
>#スタージョン
> 余談ですけどSturgeonというのはチョウザメのことですわね(最近知ったんですけど)。
>てことは、スタージョンの紹介に際して引用されてた「キャヴィアの味」という評言は、
>たんなるベタなギャグだったんでしょうか?
これは、知りませんでした。そうなら「キャヴィアの味」というのは、
スタージョンにだけ許される誉め言葉なのですね。
お笑い翻訳で、「スタージョンの法則」(あらゆるものの90パーセ
ントはクズである)について書かれたものをやってみました。
「チョウザメの法
prov. 「90パーセントのすべてが大便である.」
サイエンスフィクション作者セオドアSturgeonによる引用文から,
派生している. 一度「勿論, 90%のサイエンスフィクションはcrudである」
と言った. That's 「90%のすべてがcrudであるので.」 Sturgeonのもので
あるときに, 奇妙にも, 法はそうする. 引用されていて, 最終的な単語は,
‘排便'のためにほぼ不変的に変えられる. 比較Hanlonのかみそり}, {90時90分定規}.
これである. 格言がSF fandomで起こって, ほとんどのハッカーがそれを認識して, いる.
その真実にすべて気付き過ぎる. 」
「クズ」じゃなくて「大便」ですか。
#「スタージョンの法則」って、本人のどの小説よりも、有名だと
思いますが、典拠を調べてみたことがあるけど、よくわからない。
あるSF大会での発言だったというのだけれど、どういう文脈でい
われたのか。
ちよっと、長くなりましたので、「少年小説」については、簡単に。
>『新宝島』の刊行と同時に少年小説の歴史がカットアウトしたわけもなくて、
>昭和30年前後(一説では27、8年頃)が分水嶺だったように思えます。要する
>に視覚文化の隆盛が活字文化を圧迫した、という耳タコな図式になるんですけど。
戦前の余光は、まだ続いていたはずであるとは思います。実際、「少年少女
譚海」とかの厚さ、字のつまり具合は、ある種、感動的でもありますよね。
子供がこんなもの読んでいたのかと。
マンガもそうだけどTVの影響も大きいでしょうね。明朗小説などの小説が
消えていったのも、TVドラマがその機能を代替していった部分も大きいので
はないかと思います。
>「大衆少年小説」が本当に滅びたかどうかは、たとえばソノラマ・コバルト経由の現在
>のライトノベルの繁栄をどう捉えるか、というあたりで、人によって見解が異なるでしょ
>う。同じ意味で「文学的児童文学」だけが生き延びたかどうかも。まあ、評論に視野を
>限れば、「大衆少年小説」の歴史は戦前の少年倶楽部で終っているわけですが。
ライトノベルというのは、確かに、「大衆少年小説」といえないこともないですね。
この辺りの水脈というか、面白そうだが、難しそう。
>メディアとしての影響力の衰退を括弧にくくるとして、「少年小説」のエッセンスは、
>昭和40年代の矢野徹や梶原一騎に受け継がれていたと思うのですけど、思ってるだけです。
>論証するには準備が足りません。
矢野徹はよくわからないけれど、梶原一騎は、明らかに、そうかもしれません。我々
の世代は、猿飛佐助や真田十勇士は、よく知らないけど、伴宙太や力石徹は、誰でも
知っており、「引用」され続けられているわけで、梶原マンガは、戦前の「立川文庫」
に相当するかもしれません。
>ああ、なんだか小難しい文章だ。これだけ書くのに三日かかってます。すっげえ長文に
>なっちゃったんで削ってたのよ。
大変お疲れさまでした。またお越し〜。
[2000年12月16日 9時7分1秒]