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2021年の読書 / 2022.01.16 (執筆中)

裏世界ピクニック 怪談 旅行 鉄道 SF 日本 生き方

 2021年に使った本代は、紙の本(辞書を含む)と電子書籍を合わせて10万5000円(約120冊)ほど。新規購入が3割減った2020年から回復し、2019年の水準に戻っています。家族のことで、かつてなく辛い一年でしたが、読書が私を救ってくれました。

 読むのは引き続き紙の本が主流ですが、全体の4分の1にあたる30冊近くが電子書籍です。昨年初めて導入したスマートフォンでも何冊か読んでみたものの、目が疲れてしまうので、元々持っているKindleに戻りました。スマホを持ち歩くのは遠出(秋葉原など)の際だけで、普段は天気予報を見るのによく使います。

裏世界ピクニックのこと

 今年最も楽しませてもらったのが「裏世界ピクニック」(宮澤伊織/ハヤカワ文庫)でした。単に楽しませてもらったというより、一番苦しい時期に私を支え、この先に楽しみが待ってるよと引っ張っていってくれた、恩のある作品です。

 存在を知ったのは、アニメ新番組一覧などウェブサイト。小説を知る前に、1月に放送が始まったテレビアニメから入っています。タルコフスキーの映画「ストーカー」が好きで、原作「路傍のピクニック」も読んでいるので、その世界観と題名が元ネタというのはすぐ気付きました。人がいたような痕跡はあるのに、誰一人いない。危険に満ちた恐ろしい場所のはずなのに惹かれるのは、小さい頃から持つ廃墟願望かもしれません。

 アニメの第1話を観て書店へ走り、原作を読んでドはまり。既刊を夢中で読み、その後も再読を重ねました。加えて、コミカライズ版の絵柄が大変緻密。続きを買いに行くのがもどかしく、Kindle版を読み、さらに紙の本で読むという、二重買いをすることに。原作者による巻末の小篇も、小桜という大人の第三者から二人への眼差しが毎回面白く楽しみです。BD-BOX上下巻も購入、BD-BOXを買ったのは「ななついろドロップス」以来3年ぶり。サントラCDは大のお気に入りで100回以上、ドラマCDは短いのが残念ですが相当聞いています。アニメの最終回、俯瞰した裏世界へ溶け拡がっていく「街を抜けて」にはシビれました。

 作品世界を理解するキーワードが「認識」で、語り手・空魚の言う「認識しなければ、そこには何もない」とは、般若心経の「空」に通ずるものを感じます。銃の扱いに長けたヒロイン・鳥子の「自分で何でもしようとして、自分しか頼れない状況に追い込まれてはいけない」も、覚えておきたい言葉です。

 中毒的な魅力を持つ裏世界が舞台装置なら、二人の関係性とその変化は物語そのもの。想いが届かない悲しさ、想いを受け止めきれない苦しさが、何度も描かれます。第5巻の表紙、空魚を見つめる鳥子の目が凄い。いつか決着の付く日が来るのか来ないのか、来たら最終回なのか。その時、裏世界の謎は解き明かされるのか。何でも白日の下にさらせば良いというものでは、無論ありませんが。

怪談のこと

 「裏世界ピクニック」は実話怪談をモチーフにした話を中心に書かれていますが、その幾つかの元ネタとなったのが「新耳袋」(木原浩勝・中山市朗/角川文庫)シリーズで、今年に入り全10巻を読了。書き手は聞き手に徹し、あるがままに淡々と文章化されているのが特徴です。つい一言加えたくなるのが人というもので、このスタイルを貫徹できたのは偉業だと思います。

 実話怪談は私も好きなので、ほかにも以前から続く「怪談狩り」(中山市朗/角川ホラー文庫)シリーズをはじめ、「ほぼ日の怪談。」(ほぼ日刊イトイ新聞/ほぼ日ブックス)、「恐怖実話」(吉田悠軌/竹書房文庫)シリーズなど色々読んでいます。竹書房の名は「裏世界ピクニック」にも出てくるので、空魚の愛読書かもと想像すると楽しいですね。そうした元ネタを参考書的に概観できるのが「つい、見たくなる怪異な世界」(朝里樹/王様文庫)。丁度「裏世界ピクニック」BD-BOXの発売と時期が重なりタイムリーでした。

 体験と創作の間に位置すると思われるのが「祝山」(加門七海/光文社文庫)。体験を元にしたホラー小説には、体験の地続き的な怖さを創作で倍加する効果があるようです。肝試しで馬鹿やって酷い目に遭い、挙げ句に無関係な人を巻き込む、そういう生きた人間が一番怖いです。

 創作怪談では、「岡本綺堂全集」に収録されている「番町皿屋敷」を初めて読みました。怪談の古典的名作として大変有名ですが、それはほんの一部を取り出して脚色したもの。全体は江戸初期の歌舞伎者(放埒で軽薄な人)の話で、男女の恋の行き違いが悲劇をもたらし破滅を招く恋愛譚です。怪談という形で消費されてしまうにはもったいないものでした。

 「恐怖と哀愁の内田百閒」(内田百閒/双葉文庫)は、怪談というより怪異譚。びっくり箱的な怖さではなく、行く先々に現れたり、取り囲まれていたり、気付くと自分もその一部であったりする、死の影のようなものが付きまとっているのが百閒の怖さです。

旅行のこと

 百閒と言えば、鉄道好きにとっては「阿房列車」(新潮文庫)シリーズで、全3巻を何度目かの再読。事実のみを記すのが紀行文、という訳でもないのが百閒で、シリーズが進むにつれ、次第に怪異らしきものが忍び寄ってきます。

 百閒の鉄道紀行を継ぐ形になったのが阿川弘之で、今年は「空旅・船旅・汽車の旅」(中公文庫)を再読しました。旅の中心は戦後まだ貧しかった日本ですが、白眉はゴア紀行。今はインド西部の州のですが、当時はポルトガルの植民地でした。帰路は鉄鉱石を輸送する船に3週間も揺られ、精神が疲弊していく様が描かれますが、それが何とも可笑しい。一度くらいはそんな無為の時を送る旅があって良いかな、と思うものの、果たして耐えられるかどうか。

 阿川弘之担当の編集者として、紀行作品を世に送り出したのが宮脇俊三。退社後に鉄道紀行作家として立ち、数多の作品を残しました。実のところ、鉄道趣味など児戯に過ぎないと著者は公言しているのですが、その作品が鉄道好きを大いに楽しませているのですから不思議なものです。

 今年、その中で「夢の山岳鉄道」がヤマケイから文庫化。単行本を持っていますが、改めて文庫版を購入し、再読しました。観光道路による自然破壊や大渋滞に業を煮やした著者が、実地に踏査して道路から鉄道への転換を考察。時刻表まで作って想像の列車に乗り、旅を楽しみます。

 空想鉄道は妄想鉄とも呼ばれる鉄道趣味の一分野で、私も十代の頃をピークにとてもハマりました。環境への負荷が小さいとされる鉄道に、もっと目を向けてほしいし、この本がその契機になれば嬉しいです。

 空想でない現実の時刻表を題名にした作品が、宮脇俊三の代表作のひとつ「増補版・時刻表昭和史」(角川文庫)で、これも何度目かの再読。日本には珍しい成長小説(教養小説)だそうで、昭和8年から23年にかけて、著者の幼少期から大学生までが世相の変化とともに描かれ、読者はそれをなぞって、当時を追体験していきます。鉄道好きだった著者にとって、記憶をたどる拠り所が時刻表なのですが、その題名のために鉄道の変遷を時刻表から概観する内容だと誤解され、あまり売れずに一時は出版目録から消えていたとか。それを乗り越え、増補という形で戦後の混乱期を文章化してくれたことに歴史的意義を感じます。

 近年、新幹線開業前後や「ヨン・サン・トオ」など国鉄の歴史的瞬間を記録した時刻表が相次いで復刻され、時空を超えた空想の旅を誰でも手軽に楽しめるようになりました。中高年に鉄道旅行を勧める「シニア鉄道旅の魅力」(野田隆/平凡社新書)にも取り上げられていて思わずニヤリ。もちろんフルムーン旅行や過去の旅をなぞるなど、積み重ねた時の長さがものを言う旅の形も提案されています。こうした本がもっと色々出て、コロナ後の日本中に多くのシニアを引っ張り出してほしいものです。

 より実践的というか、出張のついでなど実際の小旅行を沢山収録し、読者に勧めるのが、ラジオの放送原稿をまとめた「乗り鉄教授のとことん鉄道旅」(宮村一夫/潮出版)。一緒に旅をしている気分になる楽しい本です。日本は旅をするには十分広く、気候も文化も多種多様。それを伝えるのがこの本の狙いだと思います。

 国内でも飛行機が広く利用される昨今、寝台特急どころか定期の夜行列車すら「サンライズ」を残すのみとなり、華やかだった国鉄時代を知る者には寂しい限りです。「ブルートレインはなぜ愛されたのか?」(松本典久/交通新聞社新書)は、その誕生から終焉までを体系的にまとめた本で、ブルートレイン(ブルトレ)の盛衰が、戦後日本社会の変遷を映していたことが分かります。

 私はブルトレを利用する機会がついにありませんでしたが、東海道線をはじめ各地でその姿を見掛けるのはわくわくする瞬間でした。東京口最後のブルトレとなった「富士・はやぶさ」の最終列車を牽引して上京した電気機関車EF66が、東京機関区で職員の人達と記念写真に収まるところを、秋葉原へ向かう列車の窓から偶然にも目撃。客車の入れ替えをしていた2両のディーゼル機関車DE10も、夕陽に照らされて佇む姿を帰りの列車から眺め、しっかり記憶に留めています。

 昭和から平成にかけて消えていったのはブルトレばかりではなく、ローカル線もそうでした。その痕跡をたどるのが「廃線跡巡りのすすめ」(栗原景/交通新聞社新書)で、これも旅のひとつの形でしょう。かつては地図を頼りに踏査するしかなかった廃線跡が、デジタル時代の今は自宅の机上でパソコン、現地ならスマートフォンを使って出来てしまいます。その手法を紹介する本でありつつ、けれども現場に勝る楽しみはないとの想いが伝わってくるのが面白いところ。下調べはデジタル、仕上げはアナログ、という訳です。

 私もだいぶ以前、石川県にあった尾小屋鉄道の廃線跡を訪ねたことがありますが、平行するバスの窓から遺構を見つけ、終点に残された駅舎を眺める程度でした。遠方へ出掛けなくなって久しいので、最近は南武線貨物支線跡(矢向・川崎河原間)の細長い遊歩道を歩き、矢向側の横浜市に入るところでばっさり切られているのを確認したりしています。

鉄道のこと

 もちろん鉄道そのものを主題にした本も読んでいます。

 まず、「こんなものまで運んだ!日本の鉄道」(和田洋/交通新聞社新書)は、旅客輸送と違って地味な荷物・貨物輸送をまとめた内容。昭和の時代は、用途に特化した実に様々な客車や貨車が日本中を走り回っていましたが、私がその面白さに気付いた頃には大量廃車とコンテナ化が進み、今日、客車は観光列車、貨車はコンテナとタンクくらい。この本には国鉄を中心とした「モノを運ぶ、かつての鉄道の姿」が記録されていおり、特に郵便車や新聞輸送の全盛期の裏話には胸を熱くするものがあります。私も旅の途中あちこちで目にした光景で、あの頃の鉄道は本当に活気に満ちていたと懐かしく思い出します。

 同じ著者による「客車の迷宮」(交通新聞社新書)も再読。こちらは長い歴史を通して様々に分化していった客車を迷宮にたとえ、その魅力を解き明かしていきます。中でも私が特に好ましいと思うのは、その静粛性。モーターやらコンプレッサやら騒音源を持たない旧型客車は、駅に停車すると物音ひとつしなくなり、息が詰まるほどの静けさに包まれたものです。今日の鉄道から失われた音風景のひとつでしょう。

 神奈川県川崎市に住む私が小学生の頃、埼玉県大宮市(現さいたま市)のおばあちゃんを訪ねて、上野で東北本線の一ノ関行き客車鈍行に乗り換えるのが楽しみでした。東北本線は電気暖房でしたが、客車ならではの蒸気暖房が楽しめる路線は一層味わい深いもの。南武線尻手支線(地元民には浜川崎線)を通る、電気機関車EF58牽引の急行荷物列車が、暖房の蒸気を噴き出しながら「シュババババ!」とSL列車のように駆け抜けていくのを、夜、近所の踏切に立って見送ったものです。

 蒸気機関車が静態を含めて意外に多く保存されているのに対し、客車は絶滅寸前にまで数を数を減らしてしまいました。少しでも客車が残っているうちに、より多くの人々の記憶に留めておいてほしいですね。

 その「客車の迷宮」を再読中に、「鉄道ピクトリアル2021年7月号」(電気車研究会)を衝動買い。狙い澄ましたような旧型客車特集です。幾つかある鉄道趣味誌の中でもピクトリアルはとりわけマニアック。知らなかったことが沢山あって驚きの連続でした。幾多の変遷を経て複雑に入り組んだ来歴ひとつを取っても、私が小さい頃から親しんできた旧型国電を遙かに凌ぎ、掘っても掘っても尽くせない奥深い世界です。

 そうした旧型客車や旧型国電を含む国鉄車両のカラー写真を豊富に収録したのが「国鉄色車両ガイドブック」(誠文堂新光社)。昭和期に刊行された白黒写真と三面図による「国鉄車両ガイドブック」シリーズの流れをくむ本で、判型も合わせてあります。令和の今になってこうした本が出るのは、単に懐かしむためだけでなく、正確な資料として読者に保存してもらうのが目的でしょう。

 歴史を重ねた実在の車両に対し、構想だけで実現に至らなかった車両も少なくありません。そのような車両をまとめたのが「先を見過ぎた鉄道車両たち」(富田松雄/イカロス出版)。よく知られるのは、国鉄最後の蒸気機関車になりそこなったC63で、これには実際に走れる模型が存在します。在来線より大きい車両限界を生かした寝台新幹線も興味深く、新幹線961形電車の一部として試作されました。本来なら関係者しか知り得ない、企画段階で消えていったものも多く、空想の幅が広がります。

SFのこと

 空想ならSF。短編8作品からなる「星空の二人」(谷甲州/ハヤカワ文庫)には、大長編「航空宇宙軍史・完全版」の遙か未来と言える短編が収録されていて、本編を夢中で読み通しただけに寂しい終焉だと感じました。表題作は光速で1ヶ月離れた男女の恋愛譚。通常なら往復2ヶ月掛かるところ、仮想人格が代理として仲立ちをするアイディアや、本人の状況や考え方が反映(アップデート)された時の変化も面白い。宇宙開発の冷徹な現実も描かれていて、この作者らしいと思います。

 ただ、谷甲州は2018年の「工作艦間宮の戦争」(早川書房)を最後に新作が出ておらず、その後は「単独行者」「遙かなり神々の座」「遠き雪嶺」「パンドラ」など手当たり次第に。2021年は「軌道傭兵」「攻撃衛星エル・ファラド」を電子版で読みました。宇宙での戦闘は速度と質量がものを言い、アニメでよく見るのと違って地味ですが、大変えぐいです。

 そうした渇きを癒やすため(失礼)読み始めた、林譲治の「星系出雲の兵站」(ハヤカワ文庫)も2020年にシリーズが終了。2021年は架空戦記「大日本帝国の銀河」(ハヤカワ文庫)を楽しんでいます。始まりは昭和15年の日本。正体も目的も不明な異星人と、いかに付き合っていくのか。中心人物の一人がスネークマンショーに出てくる正義と真実の人と同名で、思わず吹き出してしまいました。作者は私と世代が近いのですね。

日本のこと

 一方、本当の戦争を記録した本としては「第二次大戦 残存艦船の戦後」(大内建二/光人社NF文庫)を読みました。同文庫は「日本海軍ロジスティクスの戦い」に続いて2冊目。世界初の空母鳳翔が終戦時に無傷で残存し、復員輸送に活躍していたとは。軍艦というと遠い海の底に沈んだように思いがちですが、内地で攻撃を受けて着底したものを含め、目に付くところに意外に多く残っていたことが分かります。

 この本には陸軍が上陸や補給に用いる艦船や、輸送船として戦場を行き交った民間の船も幅広く取り上げられており、読んで初めて知ったことは実に多いです。中でも物資不足から生まれた戦時設計船は、鉄道でいえば63系電車に通じ、その極限とも言えるコンクリート造りの船は興味深いものでした。

 国破れて山河あり(杜甫)。戦後残された自然は傷付いた日本人を癒やしましたが、その経済効果から俗化していく様を嘆き、本来の静けさを求めて沈潜していったのが「瀟洒なる自然」(深田久弥/ヤマケイ文庫)。名高い「日本百名山」も、かつての山への墓碑銘に思えます。

 日本人といえば、お風呂好きで知られる国民。任侠シリーズ第4巻「任侠浴場」(今野敏/中公文庫)に、「日本人には風呂につかって気分を一新するメリハリが必要」と説かれています。言われてみれば、何事もお手軽に済ませるあまり、そうした手間の掛かる習慣が失われるのと、日本が勢いをなくしていくのは軌を一にしているような気がします。

 ライトな任侠もので、もうひとつ好きなのが「侠飯」(福澤徹三/文春文庫)シリーズで、2021年は「侠飯7 激ウマ張り込み篇」を読みました。任侠とは弱きを助け強きをくじく気性のこと。いにしえの美少女ゲーム(エロゲーとも)「とらいあんぐるハート」に現れた名言「牙なき人の牙となる」を思い出します。

街のこと

 いかにも美味しそうなグルメより、自然で身体に優しい食事を指向したのが「パンとスープとネコ日和 今日もお疲れさま」(群ようこ/集英社文庫)。このシリーズも好きですが、今回は仕入れ先が健康上の問題から廃業する場面が読んでいて辛かった。この年、私の愛用している布製ブックカバーのお店が同じ理由で閉店してしまったので、当事者の悲しみが小説の中のこととは思えませんでした。

 食と街が基底をなす作品といえば「カフェかもめ亭」(村山早紀/ポプラ文庫)も。小さな奇跡で紡いだ連作小説で、いい歳のおっさん(私)が読んでも、ひととき童心に返った気分にさせてくれます。同じ作者による「コンビニたそがれ堂」「百貨の魔法」など多くの作品が、共通する街「風早」を舞台とした一大サーガを形作っていて、それらの交錯するところを見つけるのも楽しみです。

 村山作品と風つながりで、私の大好きな小説「ゲイルズバーグの春を愛す」(ジャック・フィニィ/福島正実(訳)/ハヤカワ文庫)を再読。ゲイルズバーグとは「疾風(はやて)の町」という意味です。時間跳躍ものの一種と言えますが、時を飛び越えるのは家だったり、街だったり、手紙だったり。利益や効率に押し潰されるのを拒む、積み重なった過去からの力が、胸がすくような、あるいは塞がれるような想いを読み手にもたらします。

生き方のこと

 食べることは、生きること。「はたらかないで、たらふく食べたい 増補版」(栗原康/ちくま文庫)とは身も蓋もない題名ですが、生きづらいと言われる今こそ考えたい、あくせくしない生き方の提案です。同じ著者の「サボる哲学」(NHK出版新書)も併せて読みました。欲しいもの、したいことで頭がいっぱいのあなた。知らず知らず乗せられて、自分でなく他者に都合の良い人生を送らされていませんか?

(続く)

サハロフ(佐藤純一)