伝えるということ

 これは、某日の朝日新聞に掲載された「伝えるということ」というインタビュー記事です。大野和士というのは1960年生まれの指揮者でして、現在は東京フィルの常任指揮者をつとめている人物です。
 一部編集してあります。

 ちょっと長いですが、是非読んでいただきたい(^^;。


 もし、イタリアオペラの殿堂ミラノスカラ座で、森進一が「おふくろさん」を歌ったら。
 大野和士さんは、最近そんなことを考えている。

「聴衆はまず、あの悪声にショックを受けるでしょうね。『これは何だ』と。その後、みんなで研究し出す。すると、『おふくろさん、という言葉は日本の母を象徴するらしい』とか、『演歌とは、こぶしとは、こういうことか』とわかる。歌詞の内容も知る。そうして『なるほど』と理解するわけです」

 調べれば、ここまでは到達できる。問題はここからだ。

「真の感動が得られるかどうかは、十分理解したうえで、自分の感性を通して、森進一の『おふくろさん』を総体として受け止められるかどうかにかかっています。そうすれば、実演ならではの迫力で森さんが歌う時、多くの人がインターナショナルな意味で胸をうたれると思う」

 これは、音楽に国境はない、というありきたりの言説とは違う。歌詞がわからなくても感動できる、ということとも違う。
 必要なのは、知識だけでとどまらず「すべてを自分の感性で濾過(ろか)する」という意図的な作業だ。それが普遍的な感動につながる。
 一昨年からドイツの州立歌劇場で音楽総監督をしている。

「ブラームスやワーグナーについてどんなに勉強しても、ドイツ人は私から講釈を聴こうとは思わないでしょう。言葉のハンディもある。それでも日本で生まれ育った私の職業が存在しえるのは、感性の部分で私が作曲家と結びついていると認めてくれたからだと思う」

 クラシック音楽をはじめいわゆる西洋の文化に対して、今の日本人はかなりの知識や情報を持っている。東京や大阪のコンサート会場には、CDやレコードで古今の同曲異演を熟知したファンが押し掛けてくる。

「でも、その段階で終わると教条主義になってしまう。物知りだけれど観念的な部分でしか理解していない。残念ながら、そういうファンも多いようです」

 あの楽章のあの小節のあの音の処理がすばらしかった、と実演を聞いて手紙を送ってくるマニア。

「そう言われてもどうにもならない。せっかくの豊富な知識を、ご自身の感性でもう一度濾過して、演奏に接して欲しいのです」

 この時、音楽が、文化が伝わり、受け手のものになる。

 

 しかし、それだけでは十分に「伝える」ことはできない。

 こんなことがあった。小学校の体育館でオーケストラを率いて演奏会を開いた時のこと。客は数百人の子供達。

「素晴らしい反応でした。彼らの好奇心がステージまで伝わってきた」

 大野さんは子どもたちの姿に驚いた。そして、改めて確信を持った。

「今の子どもたちにだって、原石のような感受性がキラキラした状態で存在しています」

 しばらくして、お礼の絵や作文が届いた。大野さんはもう一度驚く。

「言葉の表現が画一的なのです。単に『すごい』とか『よかった』とか。あの時の、あの表情、あの驚きの顔から察すると、もっともっといろいろなことを感じていたはずなのに」

 なぜなのだろう。実は、大人を含めた日本人自身が、表現力において変質してしまったからではないか。

「TVで感動や驚きを表すときに、『すごい』という言い方をよく聞きます。時には新聞や雑誌の批評にも登場します。でも演奏や作品を表現するのに足りることばではありません。にもかかわらず、こんなことばがひんぱんに使われてしまう貧困さがある」

 

 我々がもう一度感性を掘り起こし、ことばを取り戻すには、どうしたらいいだろうか。

「私たち大人がコンサートに来られるように努力しないといけません。社会が、まず手の届くところから『心のひだ』を耕す場をもてるようにしたい」

 どれだけ情報化が進もうとも、豊かな感性がなければ、真の意味で伝わることも伝えることも、ない。


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