Message # 16 is from: SYSOP YAMAMOTOS
Time: 96/09/24 20:54:18 Section 51:   川の戸籍、川の概況(統計等)
Subj: (佐賀市の川と橋) 同(2)中の小路井樋水路 裏十間川


      

多布施川左岸水路(2)中の小路井樋水路 裏十間川


 昭和五七・二・二に五七年度市のモデル水系に新村川とともに指定された。川の北は中の小路・中央本町・呉服本町・柳町。川の南は、松原一・二・三・四の各丁目となっている。水路(川)と直角に交わる南北道路には橋があるが、中央大通りまでの四つには親柱もなく橋名はわからない。東魚町橋辺から川幅が広くなり、昔は舟が通い物資を運んでいたという。裏十間川といえよう。

 東魚町橋 (昭一一・一〇)中央本、松原二の境。
 藩政時代、魚は魚町以外では営業が禁止されていたので魚屋は東魚町と西魚町にあった。嘉永七年(一八五四)の」竃(かまど)帳には西魚町で肴屋一一だったのに東魚町は四竃だった。なおこの竃帳で東魚町の実数三八、身分構成で町人一四竃、足軽七竃、被官一〇竃など。東魚町に明治二二年二月魚市場会社創立。西魚町に明治二〇年二月、海産市場会社創立。

 恵比須橋 (昭一四・二)中央本、松原二の境。
 佐賀城下町には恵比須像が多く、現在二百数十体あるという。恵比須橋は天神橋とともに橋名としてかなりの数がある。
 この町の恵比須祭りは二月一〇日(昔は一月一〇日)橋のそばのエベッサンの周りに幕を張り、お供えをし、お参りの人に神酒を振舞う。九日は前夜祭、一〇日は神主のお祓で始まる。子供達はおみこしを担(かつ)いで町内を回る。昼食は、にぎり、ちくわ、かまぼこの馳走、夜は慰労会。福引なども行われた。

 欄干橋 (大正一五・一〇)松原二・三丁目、呉服元町の境。
 最近、欄干は美麗なものに改造された。元文五年(一七四〇)御城下絵図に、松原社の道路を隔てた南東部に「欄干茶屋」がある。藩主の休憩所。また幕府の使節などと面接する際の迎賓舘とした。ここは内庫所の向いで呉服町の本陣にも近く応待に便利であった。欄干橋はこの欄干茶屋と関係がありそうだ。
 昔は橋はそり橋で下を通る舟は材木や魚などを運んでいた。初秋の頃は菱売りさんが欄干そばに坐って菱を売っていた。またカックンチャン(長谷川角一、杵島郡須古生まれ、昭和二七年ごろ死去)がニッポウサンマツイの時など、人通りの多いこの橋の挟で一絃の一味線をかかえて客の求めに応じ、機転のさいた即興曲や芸を披露し爆笑の渦を巻きおこした。門付(かどづけ)をもらうと銭は耳にはさみ、にぎり飯は道に転がしてから食べていた。今はこの奇特な姿も見Ibれない。

 明治橋 (昭六三・三)松原三・四、呉服元、柳町の境。
 現在の橋は改造して欄干に飾りをつけた。明治二二・四・一の『市制施行当時之佐賀市街図』にこの橋はまだ架かっていない。片田江通りは馬責馬場まで描いてある。明治橋が始めて架けられたのは馬鉄開通直前の明治三五年ごろではなかろうか。佐賀新聞社『佐賀の八十年』に、
  「諸富国道 ガータガタ 馬鉄に乗れば ツーツラツー
   はよ ねんね しんしゃいの。
 子守り歌にまで読まれた馬鉄ができたのは明治三七年二月二八日のことだった。この日佐賀市片田江明治橋たもとでの開通式には、大隈重信の頼も見えた。やがてパカパカとヒズメの音を響かせて諸富行きがスタート。沿道がどっとわいた。」
 明治三六年(一九〇三)八月、東京鉄道馬車が電車へ切り変わり、不用になった客車やレールを使って佐賀馬鉄と祐徳馬鉄が誕生。馬鉄開業の二月二八日は「東京の文明がやってきた」と大評判、約五〇〇人の乗客があり、開通式場となった明治橋は身動きもできないはどの人だかり。沿線も見物人でいっばいだった。馬鉄線路はその後、明治橋より裏門橋通り(楊柳亭の南)−松原公園前−県庁前−御幸橋−佐賀駅まで延長された。運転手は赤帽に詰め襟の金ボタン、馬車ひき出身者が多かった。古レールにすり減りがあり、よく脱線、乗客が下りて馬鉄の尻押し。諸富行きの山領停留所では馬がよく糞をたれるので、前の店は「ウマンクソ茶屋」と呼ばれたりした。初期の乗車賃は一区一銭五厘、手をあげたらどこでも乗れた。昭和四年(一九二九)市民の足はバスに替わった。

 成就院(じょうじゅいん)橋 (明治三三・一二)松原四、柳町の境。
 人もめったに通らず日のあたらない忘れ去られそうな古い橋。橋名は摩滅して読みにくいし、近所の人さえ橋の名を知らない。しかし承応三年(一六五四)の『佐賀城廻之絵図』を見ると、この位置に橋が架かっている。昔はこの橋の西北に橋名となった「成就院」があった。石橋七五郎氏は「蓮池町と柳町の境の神社を旧来の佐賀人は成就院と呼びならしている。玉垣に沿うた路地(あいやあ)も同じ呼名である。維新前、荒神めくらの坊、成就院という盲僧屋敷があって、一かどの修業場だったが、維新のとき衰滅、祭神の祠だけが神仏混淆(こんこう)の落し子となり、院号と共に残ったのを町の人達が修復して祭をつづけている。」と。
 藩政時代、橋南の馬責馬場から南は武家屋敷が続き、北方は長崎街道や絃歌さざめく芳(芦)町へ向う橋(端)でもあった。

 常喜橋 (昭一三・三)松原四、柳町。
 旭橋 (昭三三)松原四、材木一。
 両橋とも川が南へ曲る所に架かっている。常喜橋を北に行くと循誘小学校。旭橋を東に行くと牛島町、構口に至る。嘉永初年ごろ(一八五〇ごろ)の城下絵図には両橋ともついていない。明治二二年(一八八九)の『市制施行当時之佐賀市街図』には、常喜橋の場所には橋があるが旭橋はない。牛島町の西部を貫いて新道を造った時の橋である。

 劇場橋 (昭六三・二一)松原四、材木一。
 長さ七・六メートル、幅二・二メートル。橋名は、もと橋の東北隣に「佐賀劇場」があったのに因む。歩行者・自転車専用、橋上はカラー模様で舗装。平成元年一月九日渡り初め。佐賀劇場は明治末期に博多にあった演劇舘を移転、大正五年(一九一六)ごろこの地に建築した。純和式の構造で初め改良座と呼んでいたが、昭和元年佐賀劇場と名称変更、市民娯楽の中心施設として親しまれていた。時代が移るとともに昭和四一年(一九六六)閉鎖、五〇年の歴史を閉じた。

 一の橋 (明治三〇・一〇・三〇)松原四、材木一。
 承応三年(一六五四)『佐賀城廻之絵図』に描かれている。この地図に東部地域で橋がある所は(橋名はない)、一の橋、中の橋、横目橋、榎橋、了関橋。紺屋川筋で柳橋、思案橋、涼橋、潮見橋、今宿橋などである。「一の橋」はこれらの橋の中でも重要な地位を占めていたのだろう。
 大正五年(一九一六) 一〇月二四日、肥筑軌道株式会社創立事務所が一の橋改良座(佐賀劇場)前に設けられた。この軌道は佐賀駅を基点とし、高尾−蓮池−江見−豆津−久留米に至る軌道線。その後、佐賀側と久留米側の株主間の意見齟齬(そご)を来し、完成に至らず(一九二三年五月、高尾ー崎村間運転。一九三四年八月運転休止、やがて廃止)解散した。
 橋の東南に、双体恵比須像がある。一体が鯛を抱き、他の一体は右手でテボ(魚篭)を持っている。手を組み微笑している姿がはほえましい。

 材木橋 (昭七・六)材木一・二、松原四、水ヶ江二の境。
 総延長四三〇〇メートルの貫通道路が造成されたとさ、東の紺屋橋と同時に架橋、親柱も堂々としている。材木町は江戸期から明治期にかけて佐賀藩の蔵屋敷、問屋街で繁昌した。当時は有明海、筑後川を航行した船が諸富港で手こぎ船に荷かえして佐賀江を遡り、裏十間川に入り材木橋付近で陸揚げ活気を呈した。日田の木材、天天草・島原のイモ、鹿児島の木炭、京都の呉服など。商人たちは土蔵の大きさを競い合った。
 明治二四年(一八九一)鳥栖−佐賀間の鉄道開通でさびれ始め、更に新道路の貫通、架橋に伴うトラック輸送の晋及で河港の役割は完全に廃れてしまった。かって一八メートルあった川幅も一〇メートル程に埋められ、生活排水などで川水は汚れた。材木橋東の家の隣接する狭い路地を「ショウユテボノアヤー」(醤油屋と笊(ざる)屋の合間の道)といわれた。材木問屋の杉町店も昭和二九年閉店した。

 中の橋 (明治三四・三)水ヶ江二。材木二。
 明治時代の橋組みを維持している代表的な橋。橋脚、橋桁、縁の低い石欄干、橋面の石組みの露出。この橋は裏十間川のはぼ中間にあるので「中の橋」と名づけられ、西の武家屋敷道も「中の橋小路」という。橋の東南たもとに恵比須像を祀る御堂がある。像の台座に「寛政亥正月十日建」の銘がある。
 三〇〇年前の昔から続くえびす祭り。毎年正月一〇日。材木町一六班の人は「つうわたし」を行い、一年間の祭の世話役をする本通(ほんつう)一人、寄通(よりつう)三人を選ぶ。祭の日、本通の家に班の人々が集まり、商売繁昌、無病息災を祈る。後、馳走を食べ酒を酌み交わす。五月一〇日と九月一〇日は「おこもり」、えびす像の周囲に幕を張り、会食の宴。七月一〇日は「祇園」、戦前まではギオンが最も盛んな祭りであった。川の上に丸太で水上舞台を作り、踊りに歌にと夏の夜を浮かれた。『佐賀市史第二巻、民間信仰』に「材木町のえびす祭、一六班だけは現在でも催しているが、他の班では次第に廃れてしまっている。一六班の恵比須祭の時には、中の橋の横にある恵比須像の両側に、清水で洗った笹を立て、〆縄を張り、神主を呼んでのりとをあげた。(後略)」
 最近、裏十間川通り右岸(西)に柳並木が植えられ、夜は木影の鈴蘭灯も川面に映えて風情がある。

 横目橋 じろりばし 水ヶ江二,材木二。
 佐賀の橋名中、珍呼称のトップ、全国でも稀だろう。ひゃあらんさん橋(川副町東南里)、酒楽(しゅらく)橋(本庄町袋)、蒟蒻(こんにゃく)橋(中の館)、かわそう橋
(鬼丸)などもあるが、首位はこの「じろり橋」である。
 橋名を示す親柱の二つに「横目橋」と「じろりばし」と陰刻してある。仮名文字の親柱が「よこめばし」であったら何の疑問もなく、ああそうかですまされるのだが・・・。
 橋の西方は佐賀城下の武家屋敷地で藩政時代は中級武士が多かった。片田江七小路といわれ、東西に平行した道が七本通り、その間を松原川の分水路が流れ、更に一軒一軒が小川に囲まれている。嘉永の城下絵図などにはその有様が見事に表現されている。これに対して東の材木町、紺屋町は町人町、問屋街で豪商も多かった。この性格の異なる小路と町の二つを境するのが裏十問川である。そしてこれに架かったのが「じろり橋」。対立
意識をもつ人達であるが用があれば橋を渡らねばならない。狭い橋上で出会った時、正視できず横目でジロリとやぶにらみ(薮睨)しながら通る。橋上の町娘ならば下村観山の「春雨」のような風情ある絵にもなるが、侍からジロリとやられた娘なら蛇ににらまれた蛙、ぞーつと身の毛のよだつ思いがするだろう。
 『広辞苑』に「じろり。眼を転じて鋭く見るさま。気味のわるい目で見るさま」。「横目(よこめ)@横を見る目。横を見る目つき。ながし目。A他に目をつけること。心を他にうつすこと。B監視すること。また、その人。C横目付の役。」 三好嘉子『佐賀城下町竃考、身分特殊な呼名』に「横目は庄屋の行為挙動を監視し、村費の正否を監視する役で、佐賀ではジロリ(。。。)とも呼んだ」。(。印は筆者)。橋から東の材木町との交叉点まで「横目」という。
 さて、この橋近くに監視人の横目付がいたのが橋のルーツか。それとも、町民庶民が橋を通るたびに身にしみて感じた『じろり』が橋の起源か。前者だったら「横目橋」と「よこめばし」の二つでよかったはずだ。後者は「じろりばし」と習慣的に呼ばれていたのに、知恵をしぼって「横目」の漢字を当字としたと思われる。「いんにゃくばし」を「院蒻橋」と当てたよりも更に奇抜(きばつ)である。
 橋の東北に祠があって石像二体を祀る。「元禄三年午三月六日」の銘がある。(一六九〇)双体像の一つは恵比須、他は大黒のようである。「じろりの六日エベッサン」と呼ばれるように祭が正月、五月、七月、九月のそれぞれ六日の日で四回あり、特に七月の祇園祭は、川の上に舞台を浮かべ余興で夜おそくまでにぎわっていたという。祭は材木町一八班で行われていた。

 榎(えのき)橋 (昭五五・三)もとの橋は(昭六・七)水ヶ江二、材木二。
 橋の西方、会所小路に大隈重信誕生の生家と記念館がある。どの橋からも小路に入るには少し曲がりをつけ死角にしてある。これも佐賀城下町づくりの特徹である。橋の東北隅にお稲荷さんを祀る詞がある。中に「正一位榎森稲荷五社大明神」石造の御神体が安置され、側面に「慶応二年丙寅冬十一年吉日奉再建」(一八六六)の銘。昔、橋の東南に大きな榎が繁り社もそこにあった。榎橋から東への道路拡張で邪魔になるお稲荷さんを牛島天満宮へ返そうという町内(一七班)の意見、橋近くに住む中山さんの夢に、お稲荷さんが牛島天満宮に帰りたくないと。そこで橋の北側に社を移すことにしたということである。
 稲荷さん祭は正月、五月、七月、九月のそれぞれ八日で、材木町一七班で行う。昔は夏祭の祇園は盛大で、水上舞台ができ、町内の人だけでなく踊り手や商売人も見え、佐賀ニワカの田代熊一一座は人気があった。「じろりの六日恵比須」「梗の八日稲荷」「中の橋の十日恵比須」といって昔は材木町の各班で豪華さを競いあっていた。昔の榎橋は石造で反橋(太鼓橋)になり、橋下を自由に船が往来できるようにしてあった。

 了関橋 (昭四三・三)水ヶ江二・四、材木二、朝日町。
 橋名札に「了閑橋」とあるのは「了関」の誤り。「了関」は蓮池藩二代藩主鍋島直之の戒名(かいみょう)「要玄院殿了関宗勇大居士」これに因んで命名された橋。裏十間川と蓮池県道の狭くなった所に架かる。道路拡幅の為、橋も家屋も解体工事中。『蓮池日史略』に「直之侯佐賀往来の便をはかり水ヶ江、今宿間に橋を架す。世これを了関橋と称す。」とある。直之は佐賀二代藩主光茂のいとこ。寛永三年(一六二六)の佐賀城下地図には、この場所に橋がかかっている。
 『泰国院様御年譜地取』享和元年(一八〇一)一二月九日の条に、下今宿町西の橋口について「旅人道路仕上り候ては相叶わざる場所につき、西橋取除き相成る等に候えども、其通りにては町内の者共難儀に及び候由につき、西の橋口に木戸番所相建て差し明けざる様勤番致し、通り抜け候旅人相制し、夜は明け堰(せき)仕り候様、相達し置き候処、唯今には其儀なく甚だ不〆(ふしま)りの躰に相成り候由相聞え候」と記してあるが、西の橋口は了関橋のことであろう。
 古図では了関橋のところで、裏十間川(南北流)と佐賀江川(東西流)と西の南十間堀(東西の堀で今の龍谷高近くまであった)は共々川幅も広く相通じている。『市制施行当時之佐賀市街図』(明治二二年)にも南十間堀は堀幅広く残っているが、東の佐賀江に通じる所は埋め立てられ船の往来はできない。

 鷹匠(たかしょう)橋(昭三八・三)水ヶ江四、朝日町。
 了関橋の南方七〇メートル。雨時にジプをひくのを見かけていた。
 この橋の北から「裏十間川二号分水路」が東流し、室園橋から安住橋(昭三七・三)更に東して八田江湖川口近くの枝吉橋の下をサイフォンで通じ北川副枝吉の「地蔵橋」方面に送水する。また、鷹匠橋の南から東に折れ、団地橋(昭三七・三)方面にも流れる。

 室園(むろぞの)橋(大正九・七)
 もとの室園遊廓(今宿遊廓)の北入口と西入口に同名の橋が二つある。北の橋の欄干には、真松楼、酔月楼、三浦屋、三玉楼、丸吉楼、太平楼などの楼名が刻まれている。この二つの橋は室園遊廓組合の手で大正九年に造られた小さな石橋である。
 遊廓で貸座敷業が始まったのは明治二一年(一八八八)。佐賀市上芦町(高木町)は、明治一七年開庁した県庁に近いため職員の風妃が乱れるとして営業廃止された。江湖端の材木町や今宿町では、廃止されると荷揚げ船の活気を減ずると異議を唱えたため、室園の地に移転し復活した。八月一五日夜の今宿の精霊流しの時は、遊廓からも豪華な精霊船が出されこれを見るまで見物人は帰らなかったという。
 廓の女は室園橋を渡って外に出ることは許されず、請願派出所で目を光らせた。西の室園橋を渡るのは、近くの県立治療院で行われる花柳病検査のときと、身請けされて廓を去るときに限られた。

   映る灯かげは 江湖端通り 恋の今宿宵の口
   三昧や太鼓の あのさざめきも
   更くれば円い お月様
                新民謡佐賀行進曲



01恵比須橋 中央本町 松原2丁目
02恵比須橋の祠 映画館のそば
03欄干橋のらんかん 呉服元町の南入口
04旭橋より常喜橋を望む
05佐賀劇場 昭和41年、50年間の幕を閉じる
06材木橋の親柱 昭和7年6月竣工
07双体恵比須像 一の橋東隣
08中の橋と祠 明治34年3月竣工
09恵比須像 中の橋そばの祠の中
10裏十間川の川端景色 平成3年11月
11じろりばし(横目橋) そばに祠あり
12祠の双体恵比須像 しろり橋
13榎(えのき)橋 そばに榎森稲荷の祠
14室園(むろその)橋 欄干に遊郭名残る

(平成5年2月20日 佐賀市建設部監理課発行、「佐賀市の川と橋」から転載)