童話 10時03分の猫

横井 聡
 敦志は犬を飼っています。名前はパオ。もちろん、毎日散歩に行きます。夏は暑いので、夜に行くことが多いのです。敦志とパオは散歩コースの途中で、小学校の外周を通ります。そこには街灯が数本立っています。

 街灯は、歩道と、その外側の草むらとのあいだに建てられています。そのうちの一本の真下に、あるとき一匹の猫がいました。昼間、通るときにはいないので、夜だけそこにいることになります。真っ白の猫です。さすがに野生の猫だけあって、やせています。敦志が初めて見たときには、その猫は蛍光灯のうす明かりに照らされて青白く、ピタリと動かなかったので、なんだか不気味でした。でも毎日その街灯のところへ通っていると、その猫はこわくないということが敦志にはわかるようになりました。

 敦志とパオが通りすぎるまで、その猫はパオの歩くスピードにそって、顔だけを180度ターンさせます。一瞬たりとも眼を離しません。夜の黒いキャンバスに、二つの目だけが街灯の光で反射します。どう見てもその猫の目はふつうの猫のものより大きいのです。やたらとその目が印象に残ります。でも不思議と、にらんでいるようには感じられませんでした。それに犬を恐がりません。敦志は「これは珍しいな」と思いました。

 そして敦志とパオが散歩に行く時間も、日によって少しは、ずれています。たまには猫がいないときもありました。でも少し待っていると、草の中から音も立てずに現れるのです。敦志が誕生日に買ってもらったお気に入りの腕時計を見たら、10時03分でした。

 次の日も、猫が現れた時間を見たら、10時03分でした。そう、その猫は、体内時計で時間がわかっているらしいのです。決まって同じ時間に現れます。場所も街灯の下で、コンクリートの四角い土台の上とピタリ決まっていました。そして、その猫の表情を見ていると、なにかを守っているような、誰かを待っているような、そんな気がするのです。厳しい眼だけど、温かい眼です。

 少し慣れてきたこともあって、敦志はその猫に話をしてみようと思いました。敦志は、猫の目線までしゃがみ込んでたずねました。

「ねえ、きみはどうしていつもここでジッとしているの。誰かを待っているのかい。それとも、きみにはなにかが見えているの?」

 その猫は、敦志の顔のほうを確かに向いているのですが、なにも答えることなく、表情も変えません。あきらめて敦志が帰りかけたそのとき、パオが急にクンクンと鳴き出しました。それはまるで子供がお母さんに甘えるときに出す、人間にも動物にも共通の声に聞こえました。そのとき、かすかに猫の表情が変わったように敦志は感じました。

 ……お母さんの目だ……

 敦志には一瞬そう見えました。そのときから、敦志はその猫に親しみを持つようになったのです。まるで小学校を守っている管理人さんのようでもあり、パオなど猫ではない動物に対しても優しいので、敦志はその猫を「管理ニャンさん」と名づけました。

 家に帰るとすぐに、敦志はその話を、お父さんとお母さんに聞かせていました。

「あのね、小学校の外に街灯があるでしょう。そこに、いつも管理ニャンさんがいるんだ」

「なんだい敦志、その管理ニャンさんっていうのは」

 お父さんは、不思議そうに敦志の顔を見ました。
 実をいうと、敦志はそれまで猫のことは黙っておこうと思っていたのです。管理ニャンさんのことは、パオと自分だけが知っていればいいと思ったからです。でも、やっぱり話してしまいました。

「猫の管理人さん。だから、管理ニャンさんって言うんだ」

「へえ、猫の管理人さんか。で、どんな猫なんだい」

 お父さんは、優しい目で敦志に訊ねました。

「そうだ、その前にパオもここにつれてきていい?」

「それはだめよ。だっていつも外で飼っているのに、今日だけ家に入れてあげたら、癖になっちゃうでしょう。それに、そうなってから、『今度は入っちゃだめ』と言ったら、パオの方も『どうして?』って悲しくなるじゃない」

 お母さんが、そっと敦志を諭しました。

「でも、今日は特別なの。管理ニャンさんとパオとぼくが初めて友達になった日だもの」

 お父さんとお母さんは、「しょうがない子ね」と、目と目で相談してから、今日だけという約束で許してくれました。敦志はパオを庭からつれてきて、お父さんとお母さんの真ん中に二人で座りました。

「管理ニャンさんはね、初めて見たときは、静かで、眼だけ光っていて、なんとなくこわかったんだけど、本当は違ったんだ。パオが近づいたら、優しい目をするんだよ。ねえ、パオ」

 パオは、きょとんと首を傾けて敦志を見ました。パオは、まだ一歳になったばかり……というより、敦志の家に来てから、ちょうど一年なのです。犬は一歳にもなれば立派な大人なのですが、パオはまだ子供らしさも残しています。敦志が初めてパオに会ったとき、パオは敦志の小さい手でも両手を合わせれば乗せることができるほどの小さな子犬でした。

 その日の朝、まだ夜が明けたばかりのころ、庭からキュンキュンとなにかの鳴き声が聞こえてきました。敦志はベッドの中でその声を聞いて、眠い目がパチッと覚め、飛び起きて庭まで見に行ったのです。それがパオでした。茶色のブチが目の上と左の背中にあって、体は少し土で汚れていました。おなかも空いているように見えました。敦志はそっとパオを抱き上げて、家の中へ入っていきました。そうしたら、お父さんとお母さんも起きていて、玄関で立ち止まったまま、少し困った顔をしています。敦志はすかさず訊ねていました。

「飼ってもいい? このワンちゃん」

 やはり、そうきたかという表情で、お父さんとお母さんは目を見合わせました。

「ちょっと、待っていなさい」

 お父さんは、そうつぶやくと、ゆっくりと玄関を出ていきました。そして一、二分後には戻ってきて、そっとお母さんにうなずきました。その合図で、お母さんもなにかに納得したようで、その瞬間、敦志は飼うことを許されたのです。

 ……そうだ、すっかり忘れていたけれど、今は、あのときの合図がなんだったのか訊くチャンスだ!

 敦志は思いきって訊くことにしました。

「そういえば、お父さんお母さん……パオを飼うことを許してくれたときなにか合図をしたでしょう。あれはなんだったの? 思い出しちゃった」

「うん、あれか。あれはな、外にダンボールの箱がないかを見にいったんだよ。やっぱりあった。つまり、パオは捨てられたのさ。だから、そのままほかっておいたら死んでしまうだろう。まだ子供だったんだし」

「そうだったの……パオ、良かったね、拾ってもらえて」

 パオは、やはりきょとんとしていました。そんなパオを囲んで、温かい空気が部屋中を満たしてきました。



 管理ニャンさんに出会って以来、授業中でも、敦志はどうしてもあの猫のことが気になってきます。敦志は学校の帰りに、少し残しておいたお弁当を持って、あの街灯の前に走っていきました。もちろんこの時間には、管理ニャンさんはまだ来ていない、ということはわかっています。でも、見つけたらきっと食べてくれると思って、猫がいつも座っている台の上へごはんを置きました。そのときです。

「ぼく、なにをしているの?」

 敦志は一瞬ドキッとしました。そして一呼吸おいてから、勇気を振り絞って後ろを振り向きました。

 そこには高校生くらいのお姉さんが、静かに微笑んで立っていました。

「えさをあげているんだよ」

 そう答えた敦志の胸の中では、もうドキドキした気持ちは消えていました。優しそうな人で良かったと思いました。

「ふーん、えさ? でも、なにもいないじゃない」

「今はいないけど、夜になったら来るんだ」

「夜になったら来るの? ところで、なんの動物?」

「猫だよ。管理ニャンさん」

「え、管理ニャンさん? その名前、ぼくがつけたの?」

「そうだよ」

「おもしろい名前ね……お姉ちゃんの家でもね、むかし猫を飼っていたの。でも一年前に家出をして、それから帰ってこないの。わたしは今でも飼っているつもりだし、いつでも帰ってきてほしいと思っているのよ。でも、いくら捜しても見つからないの」

「お姉ちゃんも猫が好きなんだね」

「そうよ。うちの猫の名前は『はるか』というのよ」

「はるかちゃん。メス猫?」

「それがね、オスだったの。でも、名前をつけるときはメスにしか見えなかったわ。おとなしくてね。最初は、のら猫だったんだけど、家によく来ているうちに、なついたのね。はるか遠くを見つめているような目をしていたから、『はるか』にしたんだけれど、オスだってわかってからも名前はそのままにしちゃったのよ……だって、とっても似合っていたから」

「はるかちゃん、どこへ行ったんだろう」

「わたし、学校帰りには今日みたいに、いつも捜しているのよ。でも、さっぱり手がかりもないわ」

「そうだ、管理ニャンさんに訊けば、なにかわかるかもしれない。お姉ちゃん、夜10時ごろ、ここに来られる?」

「ずいぶん遅いのね……うん、わかったわ。じゃあ待ち合わせしようか」

「10時だよ、遅れないでね」

「はい、わかりました、小学生探偵さん」

 お姉さんは、はるかの手がかりを探し出そうと一生懸命な敦志に、探偵さんのイメージを重ね合わせたようです。

 敦志はウキウキして帰りました。10時近くになるまで待ち遠しくて仕方ありません。



 あっという間に10時が近づきました。そして今回はパオをつれていかないことに敦志は決めました。一人だけなら、夜10時過ぎで街灯の明かりしかない場所に行くのはこわい気もしますが、今日は、昼間会ったお姉さんも来てくれるから不安もありません。それにお姉さんと一緒なら、管理ニャンさんと話もできそうだと思ったのです。

 いつもの街灯の前に着いたのは、敦志のほうが先でした。といっても、敦志が早過ぎたのです。予定より三十分以上前に、もう着いていました。ワクワクした気分です。敦志は街灯の向かい側の草むらの中に入って、管理ニャンさんとお姉さんを待つことにしました。草の上へうつぶせになって、サバイバルゲームで隠れているような体勢です。スタンバイが整ったところで、敦志は急にひとりぼっちの不安におそわれました。でもそれは要らぬ心配でした。お姉さんも早く来てくれたのです。敦志が着いてから五分後のことでした。

「あれ、ぼく、早いのね。わたし、早く来すぎたかなと思ったけれど、ちょうど良かったわ。待ちきれなくて、家を出てきちゃった」

「ぼくもそうだよ、お姉ちゃん」

 お姉さんも、にっこりと微笑み返しました。

「そういえば、まだ名前を訊いていなかったわね。なんというお名前?」

「ぼくは敦志。お姉ちゃんは?」

「わたしは陽子。そうだ敦志くんは何年生なの」

「小学四年生」

「わたしは高校一年よ。でも、よく見つけられたわね。こんなに夜おそくにだけ、猫……管理ニャンさんが現れるなんて。いつも一人で来るの?」

「ううん、違うよ。いつもはパオと来るんだ。ぼくの飼っている犬さ」

「そうだったの。それなら今日もつれてくればよかったのに。わたし、猫も好きだけれど、犬も同じくらい好きなのよ」

「そうか、つれてくればよかったよね。失敗しちゃった」

「じゃあ、まだ管理ニャンさんが現れるまでには二十分くらいあるでしょう。それまではお姉ちゃんが、お話をしてあげるわ。わたしもそこへ入れて」

 お姉さんは、敦志がはらばいをしているとなりへ、同じように並びました。

「これが管理ニャンさんを待つ体勢なの? なかなか大変ね、草むらの中は」

「今日が初めてだよ。別に管理ニャンさんは、ぼくらを警戒してはいないみたいだから、ふつうに待っていてもいいんだけど、このほうが雰囲気が出るでしょう」

「なんだ、そうだったの。よく考えついたわね」

「ところで、お姉ちゃんがしてくれる話って、どんなの?」

「そうねえ、犬と猫の純愛物語かな」

「え、なにそれ?」

「ちょっとおおげさだったかしら。あのね、うちが飼っていた動物たちの話。猫のほうは、はるかちゃんよ、昼間に話した」

「犬も飼っていたの?」

「そう。でも正確にいったら、飼っていたとは言えないわね。その犬は、いつも家に訪ねてくる犬だったの。ご飯だけをもらいに来ていたのよ。優しくて、お行儀も良い犬なの。目は人間で言うなら女優さんのように大きくて、黒いつぶらな瞳ね。吠えたことも一回もなくて、本当におとなしいの。わたしの家族だけでなく、近所の人にもみんなから愛されていたわ……犬嫌いの人でさえ、『ここのワンちゃんだけはかわいいね』といって、頭を撫でてくれるの」

「ぼくも、会ってみたいなその……」

「ルナというのよ。雑種のメス犬。体には茶色のブチがあるの。雑種といっても日本犬の血が流れているわね。多分、紀州犬と秋田犬のあいの子だと思うわ。お父さんが、そういう雰囲気を持っていると言っていたし……だから、賢くて我慢強いはずだって」

 お姉さんは懐かしそうな目をして、そう言いました。

「そのルナちゃんとはるかちゃんの仲が良かったんだ」

「そう。でもふつうは、犬と猫の仲は悪いでしょう。それがうちのルナとはるかだけは初めからそんなことはなかったの」

 敦志は、どんどんその話に惹き込まれていきました。

「初めて、ルナが家に来たのは、はるかが住み着いてから三年目ぐらいだったわね。そのときのルナは痩せていて、食べるものも食べていない感じでね……わたしは、まだ中学生になったばかりで、学校帰りだったわ。家の前で、ルナが座っていたの。お行儀よく、お座りをしていたわ。わたしが近づくと、ルナもこっちを向いたけれど、逃げないの……それに、ごはんをねだるという感じではなかったわね。わたしは思いきって、ルナの頭を撫でてみたの。もちろんルナがどんな犬かもわからないでしょう。ドキドキしながら触ったわ。そうしたら、ルナは少し頭を下げて、じっと撫でられているの。嬉しそうにして、まるで『ありがとう』と言っているみたい。わたしはすぐにルナが好きになったわ。そして、どうしても飼いたいと思ったの」

「お父さんとお母さんは許してくれた?」

 敦志は、自分のときを思い出して、それが気になりました。

「やっぱり最初は反対だったわ。のら犬は、どうしても荒っぽいというイメージがあったみたいだし、病気を持っている可能性もあるでしょう。でもわたしは、ルナだけはそんなことはないと思いたかった」

「そうだよ、ルナはそんなことはないよ」

「そうね。でもお父さんもお母さんもルナをひとめ見たら、そんな思いはフッとんじゃったみたい。それほどルナは、だれからも好かれるかわいらしさを持っていたのね」

「そうに決まってるよ」

 敦志は、満足そうにうなずいてみせました。

「でも飼うとなったら、散歩もしっかり行かなくちゃならないし、それができるということが条件だったの」

「ぼくもそれはいつも思うよ。ただかわいがるだけじゃなくて、責任を持たなくちゃって」

「ええ、でもね、ルナは家に住み着こうとはしなかったわ。ルナが来たときの格好を、よく思い出してみると、首輪をはめていたのよ。かなりボロボロになっていて、かすかに元の色は赤だったと思えるくらい。これは、どういうことだかわかる?」

「え、前に飼われていたということ」

「そうよ、そして捨てられてしまったということ」

「あ、そうか」

「たぶんルナが家になつかなかったのは、昔のいやな思い出を、もう一度くりかえすのがこわかったからだと思うの、本能的にね……わたしだって、もしルナと同じ立場だったら、そうしていたと思うわ」

「かわいそうだね、ルナ。動物は飼い主を選べないもの。初めに飼われたところが、つらかったら、次のお姉ちゃんのところも、もしかしたらそうかもしれないと思うよね」

「いくら、わたしのところでずっと面倒をみようと思っていても、初めに持った経験のほうが強いものね」

「じゃあ、ルナはどこで寝泊まりしていたんだろう」

「そうね、夜はわからないわ。でも、昼間は家の庭でよく寝ていたのよ。縁側で、はるかがお昼寝をしているでしょう。その下を見たら、なんとルナも寝ているの。まるで二階建てアパートに二匹が住んでいるみたい。『犬と猫の共同生活だね』って、みんな言っていたわ……そのシーンだけは今でも忘れない……」

 お姉さんは、そっと目を閉じて、昔に帰っているようでした。そして、ゆっくりと言葉を続けました。

「もうそのころには、ルナもふつうの犬なみにしっかり太って、だいぶ立派になっていたわ。そして、はるかは猫だから、一日のうちほとんどはどこかへ行っているの。アドベンチャー好きなのね。ルナは、いつ家へ来るかといえば、はるかがいるときだけなのよ。はるかが留守のときは、どこかで待っているのね……これって、不思議でしょう。ふつうは猫がいないときを選んで来るじゃない。でもルナは、はるかがいるほうが安心できたみたいだし、はるかも、だんだんルナと一緒にいるほうがよくなったみたい」

「おもしろいね、二匹は良い関係なんだ」

「そうでしょう。それにごはんは、二つの入れ物を並べて別々にあげるのに、お互いにお互いのが気になるみたいで、二匹が同じ入れ物に顔をつっこんで食べていることがよくあったわ」

「へえ、すごいね。どちらも怒らないの」

「そうよ。どちらかといえばルナのほうが遠慮していたみたいね」

「そういうのを、『女房は夫をたてる』と言うんでしょう」

「よく知っているわね、そんな言葉を……そうね、はるかとルナは夫婦だったのかも知れないわね。二匹が声を出して話をしているのは聞いたことがなかったけれど、きっと言葉なんてなくても心は通じ合っていたんだわ」

 敦志の中に、はるかとルナの楽しそうな風景が、どんどん思い浮かんできました。

「そんな生活がずっと続いていたなんていいね」

「うん。でも、二年くらいでその生活は終わってしまったの」

「なんで」

 敦志は、急に不安になりました。

「ルナの意志が強かったのね。ルナは人間以上に人間らしかったんじゃないかしら……ルナは家には住み着かなかったけれど、毎日来ていたわ。もちろん、わたしたちの大事な家族の一員よ。ルナもそのことは充分わかっていたはず……あのね、ルナが家族になってから二年が経とうとしていたころ、ルナのおなかが大きくなってきたのに気づいたの」

「赤ちゃんができたんだ」

「そうよ。わたしは嬉しかったわ。新しい命が生まれて、家族も増えるし……でも、ルナはもっと現実を知っていた。自分だけでも生きるのは大変なのに、子供たちを無事に育て上げるのはもっと難しいことだって」

 お姉さんの顔は、我慢はしていましたが、悲しさに包まれていました。

「ルナは、子犬が生まれたら、わたしたち家族に迷惑がかかると思ったみたいなの。犬の子はいっぺんに五匹くらい生まれるでしょう。もし、全部飼おうと思ったら、世話だって大変よね。それが無理だったら、飼ってもらえる優しい家を何軒も捜さなくちゃいけないでしょう……ルナは、そんなことはさせられないと思ったのね。わたしは、そういう苦労ならいくらでもしてあげたのに。そんなの全然かまわなかったのに……」

 お姉さんの目から、涙がひとしずく流れ落ちました。それを見て、敦志も泣けてきました。

「ルナは子犬が生まれる直前、ピタリと家に来なくなったの。家の周りを捜しても見つからずに、途方に暮れたわ……ルナは、最後まで礼儀を尽くしたのね。わたしたち家族に対して、感謝の気持ちを表したかったのよ。だから、迷惑をかけるのが一番いやだったみたい。子供の面倒は自分一人で見ると決めてしまったの……家に住み着かなかったのは、この日が来ることがわかっていたからだったのね。ルナはわたしたちの前から、そっと姿を消したわ」

「なんで、ルナはそんなふうに決めちゃったんだろう。真面目すぎるよ、良い犬すぎたんだよ」

「悲しいのはわたしたちだけじゃなかったのよね。一番、傷ついたのは、はるかだったわ。ルナが来なくなった次の日に、はるかまで家を飛び出してしまったの…………それから、二匹とも戻ってこなかった。わたしたち家族はしばらく放心状態だったわ。いっぺんに、かわいいルナとはるか、二匹ともいなくなってしまったんだもの。どこでどうしているのかは全くわからないわ……でも、きっと二匹で元気に暮らしていると信じているの。そうでも考えないとやりきれない……ルナの茶色のブチと優しくてつぶらな目、はるかのしっぽをピンと伸ばした真っ白で爽快な歩きかたが忘れられないわ」

 言い終わるか終わらないうちに、まさにそんな威厳さえ感じさせる白い猫の姿が、敦志とお姉さんの視界に飛び込んできました。

「管理ニャンさんだ!」

「はるかちゃん!」

 敦志とお姉さんは同時にそう叫んでいました。その瞬間、二人は直感的に、今なにが起こったのかがわかりました。

 管理ニャンさんこそが、はるかちゃんだったのです。お姉さんの話にすっかりのめり込んでいるうちに、時計は10時03分を指していました。

 管理ニャンさんはゆっくりと、定位置である街灯の下に腰を下ろしました。そして、あの大きくてつぶらな瞳が敦志たちのほうへ向きました。でも、やはり身体は動かさずに、そのままの姿勢です。お姉さんと敦志も、二十分間、草の上にうつぶせになった状態で顔だけ街灯のほうを向いて話をしていたので、身体はすっかり固まっていました。そして今は、管理ニャンさんと敦志たちがちょうど正面に向き合った形です。

「そうか、はるかちゃんはちゃんと生きていたんだ。ここに毎日顔を出して」

 敦志は、なぜか小声になってお姉さんにささやきました。

「そうね、まさかこんなところで会えるとは思っていなかったわ」

 お姉さんも小声で返しましたが、その感動が敦志にも手にとるように伝わってきます。

「はるかちゃんは、お姉ちゃんのこと、わかっていると思うよ」

「そうかしら。でも野生に還っちゃっているみたいよ。表情が違うもの」

 そのとき、敦志はとっさにひらめきました。

「お姉ちゃん、手を貸して」

 敦志は、お姉さんの手を握ると「祈ってみようよ」と言いました。お姉さんはびっくりしたようでしたが、すぐにどういうことか呑み込めたみたいです。

「はるかが、なにを考えているのかがわかるように祈るのね」

 敦志はしっかりとうなずきました。二人とも、ゆっくり目をつぶりました。すると信じられない奇蹟が起こったのです。少なくとも二人にはそう感じられました。

 はるかと敦志たちとの距離が急に近づいたような感覚でした。はるかの毛なみの白さが際だって見えます。敦志は、心の声で話しかけていました。

 ……はるかちゃんは、家を出てからルナに会えたの?……

 目の前に見えているはるかは、しゃべりはしませんでしたが、その額のあたりから、白い映像が徐々に広がってきました。敦志とお姉さんはすぐに、それがはるかの記憶のかたまりで、はるかの答なのだと思いました。

 映像に現れた場所は小学校の校庭でした。その端に、ルナとはるかが映っています。敦志とお姉さんはそれを遠くから眺めている感じです。二匹の声は聞こえないけれど、内容はヒシヒシと伝わってきます。はるかはルナに戻ってくるように言っているのです。でもルナは首を縦に振りません。はるかは家の人も心配しているから早く帰ろうと言っているのでしょう。それでも話は平行線をたどったままです。

 はるかは「それなら、もう一日だけゆっくり考えて」と言う想いを残して、その日はルナのそばを離れました。その映像は、すうっと消えて、また新しい映像が浮かびました。それはルナの出産シーンでした。五匹の赤ちゃんが産まれました。場所は同じ校庭の端に立つポプラの木の下です。誰もいない夜、静かに大きな決意を持ってルナは頑張ったのです。

 実をいうと、ルナは高齢出産でした。最後の力を振り絞って五匹目を生んだところだったのです。ルナにそれ以上の力はもう残されてはいませんでした。そうなることはルナには初めからわかっていたのです。でも、授かった命は必ず「生」としてこの世に誕生させなくてはならないと、なんの迷いもなくルナは産むことを選んだのです。

 それと同時に、なぜルナが陽子お姉さんの家へ戻らなかったのかが見えてきました。産めば自分の命が亡くなります。親のいなくなった子供たちだけを、ただ残しておくわけにはいかなかったのです。もし子犬たちが生きていけるのならば、それは自然の中でその摂理に打ち勝ったときだけだと、ルナは理解していたのでしょう。

 その場面は敦志が一番見たくないシーンでした。でも、現実は受けとめなくてはなりません。ルナの魂が空の彼方へ消えていくのが見えました…………それからどれだけの時間が流れたのかはわかりません。長いような短いような不思議な感覚でした。そこへ現れたのが、はるかでした。

 はるかはその場で一瞬止まり、次の瞬間には、そっと五番目に生まれた子犬を口にくわえて、どこかへ持っていこうとしていました。お姉さんと敦志は、それがどういう行動なのかをすぐに考え始めていました。はるかはきっと、その子を生かすために安全な場所を捜しに行ったのでしょう。お姉さんと敦志は、次にはるかが戻ってくるときをじっと待っていました。

 しかしはるかは、いつまでたっても戻ってきません。敦志は残りの四匹はどうなるのだろうと、不安がこみ上げてきました。はるかは知っていたのです。命が続いていたのは五匹目の子犬だけだったと……一番新しく生まれた命だったから、なんとか生き残れたのです。はるかにはルナの気持ちがよくわかっていました。……たとえ一匹でも生きてほしい……そして誰かに託したくても、はるかにさえ頼まなかったルナの想い……産まれた子は自分の力で歩き始めなくてはならない。生き抜かなくてはならない。「どんなに厳しくても最後に頼れるのは自分の頑張りだけなんだよ」と、厳しくも温かい無言の遺言だったのです。

 でもはるかは、とにかく生きることが大事だと悟ったのです。ルナの最後の子だけは自分が助けると誓ったのでした。責任を持って……。

 映像はそこで途切れました。それで充分でした。お姉さんと敦志は、ルナのとった行動も、はるかの選んだ行動も、どちらも正しく素晴らしいものだと思えました。

 もうその子犬が、今生きているかどうかは問題ではありませんでした。冷たい言い方ではなく、ルナとはるかのとった行動の過程こそが尊いもので、その結果はあくまで結果に過ぎないと納得できたからでしょう。

 いつのまにか、また現実の世界に戻っていました。目の前には、はるかがいます。はるかは表情を変えず、黙って座ったまま動きません。お姉さんと敦志は、ようやく立ち上がり、手をつないだまま、ゆっくりとその場を後にしました。

「お姉ちゃん、はるかちゃんをつれて帰らなくてもいいの」

 敦志は、泣き声にならないように訊ねました。

「いいのよ、はるかは立派に野生の猫として自然に還ったのだから。それにルナのことを考えたら、きっとはるかは戻らないつもりだわ」

「そうだよね、立派だよ、はるかちゃんは」

 それから二人はほとんど無言でした。



 お姉さんは敦志を家まで送ってくれました。家に着いたとき「こんなに遅くなって、お父さんとお母さんはきっと心配しているわね」と、気づかってくれました。

 そのとき、パオがすぐに敦志たちに気づいて、庭の隅からしっぽを振って飛んできました。犬は敏感です。

 すると、パオの姿を見たお姉さんが驚きの声を上げました。

「ルナ!」

 敦志が「ルナじゃなくてパオだよ」と言おうとした瞬間、敦志にもその叫びの意味が見えました。そうだったのです。パオこそがルナの子供だったのです。はるかが救った五番目の子……。

 お姉さんと敦志の感動は頂点に達していました。お姉さんの目にはパオの走り方、しぐさが全てルナの生き写しに見えたのでしょう。敦志はルナの生きているところは知らないのですが、きっとパオと同じ優しい目をしていたんだと思いました。

 とても幸せな気持ちになりました。これこそが奇蹟というんじゃないかとお姉さんと敦志は思いました。パオはお姉さんと敦志に交互に抱きついて、ペロペロなめました。お姉さんは「ルナの匂いがする」と最高に嬉しそうでした。



 敦志は、ぜんぜん眠れませんでした。その夜の出来事があまりに強烈だったからです。でも、残ったのは嬉しさと感謝の気持ちだけでした。だから目覚めは良かったのです。気分爽快でした。

 さっそく、お父さんとお母さんにきのうの話をしました。かなり早口でしゃべった気がします。お父さんとお母さんも嬉しそうでした。そこで、お父さんが新しい発見を敦志に教えてくれました。パオを拾ったときのダンボールのことです。そこには猫の手のあとがついていたそうです。泥で汚れた手でダンボールを探してきたのでしょう。スタンプのように肉球の跡がついていたらしいのです。そして、ダンボールの端を口でくわえて、家の前まで運んできた跡もあったそうです。お父さんは言いました。

「もし、そのダンボールが人の持ってきたもの……つまり、ただ捨てにきただけだとしたら、飼っていたかどうかはわからないよ。でも、家の前のダンボールを見たとき、これは違うんだと直感したね。ダンボールの中に温かさが残っていた、『温もり』という名前のね」

 敦志には、そこについていた「足あと」、いや「手あと」が誰のものなのかすぐにわかりました。小学校の校庭からここまで運ぶのはどんなに大変だったか。そして一軒一軒丹念に、良さそうな家を捜したのでしょう。きっとこの家なら飼ってもらえると確信したのです。

 ……ありがとう、はるか……

 この話は陽子お姉さんにすぐに伝えなくちゃと敦志は思いました。



 それからも10時03分に街灯の前に行けば、管理ニャンさんと会うことができます。最近は、決まってパオとお姉さんと敦志の三人で行くことにしています。そこでまた新しい発見をしました。

 初め、管理ニャンさんがパオを見る目は、お母さんのようだと思ったのですが、それはルナの代わりだったからなのです。だって、管理ニャンさんはオスですものね。お父さんとお母さんの両方の役目を知っていたのでしょう。

 そしてもう一つ。管理ニャンさんは、もう「はるか」という名前は捨てたのです。大事な名前なのですが、今は自分の使命をわかっています。それは天国のルナを守ること、そして大事なパオを見守ること。

 だから、いつもこの場所に現れます。あの日の10時03分に、新しい命パオが生まれ、同時に最後の命ルナが去りました。管理ニャンさんは必ずこの時間に現れます。どんなに月日が経っても10時03分を忘れません……だからルナと最後に別れたこの小学校の校庭を見守っているのでしょう。寂しい夜にルナがひとりぼっちにならないために。

 文字どおり「はるかちゃん」は「管理ニャンさん」に生まれ変わりました。
 そのことを知っているのは、パオとお姉さんと敦志、そして君だけ。

(おわり)


【1996年 第3回盲導犬サーブ記念文学賞 入選作品】