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update 1999.10.3

1999.10.4

【生沢 徹について】

1970年代の日本レーサで「生沢」を語らずにはいられない。。正直に生に レースで見たのは1971年のJPNGPですが、、、格好良かった。 「VAN」「ペプシ」「セイコー」などなどのスポンサーに支えられ頑張って いた彼。。奥様も美人で。。

さて、彼のレース中の写真は結構あるんですが、 なかなか1970 年のJAFGPに出走したコルトF2での映像が無く、大分探しましたが見つけま したので、ご紹介します。

生沢のコルトF2 1970 JAFGPにて

このレース開始前に行われた選手宣誓が生沢選手がしたんですが、 JAF幹部への抗議となっており、、レース終了後、色々と書き沙汰 されたようです。。当時の彼は欧州でのF2参戦で忙しかったのですが、 メインのスポンサーがすべて日本企業であったことから、その後のJAF からの処分が「日本でのレース活動停止」というものであったため、 事実上、レーサとして活動を維持する為、已む無くJAFへ詫びをいれた という経緯がありました。一匹狼というイメージもこのように固められた ような時期でした。。残念ながらその後の彼はピークを過ぎていたことも あって、良い成績を上げられることができませんでした。。その後、中嶋 を育てるということになるのですが、、、(SDTM 1999.10.3)

生沢選手ですねえ、ちょうどこの年には彼は欧州でF3からステップアップして F2(ロータス69/FVA)を戦っていたんですよね。彼のピークはこのころですか ねえ、1972年にF2が2literに拡大してからはマシンにも恵まれず、ぱっとしませ んでした。今から考えると体力的に難しかったのかもしれません。中嶋選手より さらに線の細い人でしたから。F3の頃はR.ピーターソン選手とかにもそんなに引 けをとってなかったと思うのですが、F2ではこの年、C.レガゾーニ選手とホッケ ンハイムで激闘の末、2位に入ったのが最高だったと思います。 風戸選手が亜米利加のCAN-AMからF2にやってきて、桑島選手もF3からF2に上がっ て来た1974頃に欧州F2から引き上げたんだと記憶してます。この頃のF2はMarch /BMW以外は全く勝ち目が無い状態でした。確かLotusがTEXACOかどっかの支援で GMのベガエンジンか何かをチューンしたマシンを走らせましたが、E。フィッテ バルディとRピーターソンと言う、当時のF1のスーパースター2人をもってし ても戦いにならず。早々に引き上げてしまいました。(今で言えば、欧州F3000 にシューマッハとアーバイン又はハッキネン&クルサードが参加する様な物で しょうか?)生沢はGRDと言うLotusをスピンアウトした連中のマシンに乗ってま したが、あまり競争力は無かったと記憶しています。 この頃は結構、日本人も海外で戦っていました。元トヨタワークスの鮒子田選手 が亜米利加でF5000を戦ってます。彼はCAN-AMにも2戦くらいでたはずです が、どちらもマシンの不調で予選落ちだったと思います。このマシンがエンジン 4台の4輪駆動のフルオートマ車と言う、空前絶後のゲテマシンでした。 エンジン4台(大型バイクの物をドライバーの前後左右)に4台配置して、中央 のプロペラシャフトに可変プーリー(日産や富士の小型車についてる奴と基本的 に同様の方法)で動力を伝えると言うものでした。電子制御が進んだ今なら面白 いかもしれませんが、当時は悲惨だったでしょうねえ。 (情報提供:友人IWA氏 1999.10.4)

1999.5.31

実家での荷物整理で写真などの資料を発見。そこで、オートスポーツに関 するSDTM自身が撮影したものを更に公開します。

では、1971年第4回東京レーシングカーショーの画像から、、

【風戸 裕のポルシェ908】

富士スピードウェイで人気のでたグランチャンで活躍し、 そのシリーズ中での事故で亡くなった風戸裕の908。当時 黒沢、生沢、高橋と並び称される当時のトップレーサー でした。NECの重役の息子さんということでも有名だったですね。

風戸は、旧1コーナーのバンクカーブ入口で4台ぐらいとクラッシュした事故 で亡くなったんですよね。確かもう一人犠牲者いたように記憶してますが…。 あの事故を契機に、バンクカーブとS字カーブが使用中止になったんですよね。 ショートカットコースだけになって、富士スピードウエイの魅力は半減しまし たね。(情報提供:友人T氏 1999.5.28) 。

風戸裕が無くなった事故は、トップでバンクに突入したマーチ BMWの黒沢(今のFポンの黒沢選手のおやっさん)のMarchBMW高橋国光選手へ の強引な幅寄せだったかが原因で後続を含めた(多分日本レース史上最大の) 多重クラッシュになりました。 死亡したのは、風戸選手(確かCheblon/BDA)以外に、鈴木誠一選手(ローラ T292/BDAだっけ?)、中野選手(名前忘れた)Chevlon/BDAだったと思います。 他にも黒沢、高橋両選手以外に北野選手も巻き込まれたはずです。 これが原因で黒沢選手は追放処分にふされたはずです。 で、正直あのバンクは無くなって良かったと思ってます。理由は、 世界に他に例が無い高速バンクなので、外国勢が来た時その実力が発揮 できない。かつ日本人ドライバー、マシンの評価も出来ないからです。 ついでに言えば、あすこを早く走れてもほかでは何の役にも立たないし。 (情報提供:友人I氏 1999.6.1)

風戸 裕の908

【ギャランGTOのレース仕様】

三菱初めてのクーペタイプの「ギャランGTO」。 レース仕様が陳列していましたが、これはレースには 参加しませんでした。当時、ギャランは4ドアタイプ がラリーで活躍し始めたころです。篠塚健次郎もこのころ デビューし、頭角を著していました。

ギャランGTOのレース仕様

【三菱F2000コルト】

三菱はF2クラスのフォーミュラーカーを 日本GPなどに投入しておりました。 1970年の日本GPではジャッキー・スチュワートが駈ける ブラバムBT30の圧倒的な走りで終わりました。 生沢は三菱へスポット参戦して、予選2位と好順位でしたが、 リタイア。彼の車は三菱1600ccブラバムのシャーシ、ゼブラカラーと 目立つものでした。 1971年の日本GPには、三菱は2000ccエンジンを 投入し、必勝を期していました。その結果、 永松、益子の三菱ワークスレーサーの1,2 フィニッシュで終了。生沢は、コスワース1800cc搭載ロータス69 で参戦しましたが、パワーの差は歴然。3位に終わりました。 画像で判るとおり、永松の駈けるコルトは、サイドクーラーと 当時の先進的なロータス72に通じるデザイン。益子のコルトは ブラバムのコピーです。その後、三菱の2000ccエンジンは、 グラチャンで、BMWエンジンと壮絶なバトルをすることになります。

生沢が1970に載った奴はBT30のコピーですが三菱製だったと思います。 J.StewartのBT30のエンジンはFVCの1800cc(1971に生沢が使った奴の ワークス版)ですね。 三菱の2000ccエンジンってグラチャンでBMWとやりあったっけ? 岩村の記憶だと両者のバトルは殆ど無かった記憶が、、、、 1971:JAF-GPで三菱1-2フィニッシュ、生沢3位。 GC(グラチャン)、LolaT212、ChevlonB19小排気量ながら活躍。 1972:FIAのF2(レース用1.6lから市販車ベースの2lに) JAF-GPでサーティーズ圧勝。三菱エンジン(BrabhamBT36、March722)届かず。 GC、選手権は2l以下に限定。LolaT280(DFV3l)日本デビュー。 LolaT290(確か2lの三菱エンジン)大活躍。 1973:BMWがMarchと組んでF2&G5進出。 日本-GP(この年から、Formulaの旧JAF-GPが日本GPに)黒沢March722BMWで圧勝。 GC、March72S/BMW(黒沢)シリーズを席捲。 そして、運命の1974へ、、、、 で1973なんですが、この時は三菱はもう撤退していた気がするんですが、、、 少なくともバトルにはならなかった記憶が、、、March72S/BMWに対抗できたのは CheblonとLolaのBDAかFVDだった様な記憶が、、、、
BMWがエンジンを供給しだしたのは1973からです。この年のEuropeのF2Champが JumperことJ.P.ジャリエ。Marchとしては前年SurtiesのMヘルウッドにとられた タイトル(1971は712/FVAでR.ピーターソン)を最奪還したものです。これ以降 ワークス少量供給のルノーV6、ホンダV6が出てくるまではカスタムチューンを 含めてBMWの天下が続きます。 但し、EuropeのG5(スポーツカー)では73SはLolaT292/BDAに全く歯がたたず、 (まあG7とG5のレギュレーション差はあるけど基本は同じマシンですから。) (情報提供:友人I氏 1999.6.1)

1971 日本GP 三菱F2000コルト1,2

【ホンダZ】

当時、ホンダN360のインパクトは大きく、 軽自動車の市場が拡大した時期でした。 このスポーティタイプがでたのは、メーカが軽自動車の ユーザの大半が20代の若者で占められたということから、 その志向に合わせたデザインが受け入れられると 判断したからでしょう。 その後、ダイハツのMAXハードトップ、鈴木の フロンテクーペ、三菱のミニカ・スキッパーと クーペタイプが続々と市場にでて来ました。

ホンダZ GS モーターショーにて

1998.7.30

雑談のページにも書いてありますが、 オートスポーツは、金策のため中止した「鉄道模型」の穴埋めとして中学時代から 興味を持ったものです。ただ、実際にドライバーになりたい等と思った事はなく、漠 然では有りますがメカに興味が有りました。当時の日本GPやグラチャンなんかを 友人と見に行ったものです。勿論、車で行ったのではなく最寄りの御殿場線の駅か らバス或いは徒歩で富士SWまで結構時間が掛かった記憶があります。

具体的には1971年のAUTO SPORT誌を読み出したのが切っ掛けで、当時のF1に興味を 持ち始めたのです。当時は今のような中継はなく、TV放映はNHKの昼のニュースで 海外の話題に時々していたのをなんとか見ていたのが実状です。当時のジャッキー・ スチュワートは凄く強かったと印象に残ってます。そう言えば、彼は日本GPに来 てブラバムF2にのり、ブッチギリで優勝したんですよね。(1970日本GP) そのGP には行けなか ったのですが、1972年の日本GPでの映像が辛くも残っておりますので以下にお見せ します。

日本GP前座 2リッター・ツーリングカー・クラス 日産ワークスGTR 対 MAZDAワークスロータリー という壮絶なバトルには 本ちゃんのF2レースよりも興奮してみたものです。

MAZDA 1,2,3!
何周で戦われたか忘れましたが、前半のバトルからMAZDA陣営が抜け出して、 片山サバンナ、寺田洋二郎カペラ、従野サバンナの3連帯飛行となりMAZDAワークス の勝ちでした。

サーティーズF2 快走!
メインレースでは、サーティーズが自前のF2でポール・ウィンで優勝しました。 走りはそんなに迫力ある訳ではないのに他を圧倒していました。やっぱ格が違うの でしょうね。。


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