プロダクションノート

製作スケジュール(資料より)

1984年5月 ATG佐々木史朗社長から金子監督に話があり、萩尾望都「トーマの心臓」をモチーフにした企画が提出される。当初の題名は「悠からの二通の手紙」。初稿は250枚となる。

1985年末 萩尾望都さんにプロットを見せて相談。金子監督と萩尾さんは初対面。原作からインスパイアされたという形で映画化の了解を得る。当初は、学院は国家のエリートの養成所で、生徒たちは全員クローン人間というSFの構成だった。キャストも百人ほどの女の子が登場する企画だったとか。さらに今後、キャストが少年たち、母親、郵便配達人、賄婦と減らされてゆく。

1986年5月 東京千石にある三百人劇場で「ATG映画の全貌」が開催。その席で金子監督は「少年たちの午後」(この段階での題名)映画化の抱負について語る。

同年夏 金子監督が3回にわたり脚本(300枚)を手がけるが、周りを納得させられず、舞台脚本家の岸田理生が参加。本直しに入る。第2稿から「1999年の夏休み」の題名に決定する。佐々木社長辞任。ATGでの映画化は白紙になる。登場人物も4人の少年だけという設定に縮小。

同年末 エグゼ=NCP(ニューセンチュリー・プロデューサーズ)で映画化の話が持ち上がる。

1987年5月 金子監督、「恐怖のヤッちゃん」撮影中に「1999年の夏休み」の出演者オーディションを始める。オーディションには井森美幸なども参加。当初、自殺して蘇る少年(悠)役に岡田由希子を描いていた監督は、彼女の自殺に驚いたそうだ。八木さおりや後藤久美子らの名前もあがる。キャスト選びには、フォーリーブスの個性が参考にされた。(ちなみに江木=大寶智子 青山=宮島依里 おりも=中野みゆき 北=深津絵里)オーディション裏話としては、直人役の中野みゆきさんは、当初所属事務所より「男の子っぽい女の子役」と聞いていて、そのつもりでいたのがオーディション後に「男の子役」と知らされたそうです。宮島依里さんは、学校の友達に「キスシーン」がある事を知られ騒いだとか。

同年6月 エグゼが製作から手を引く。お蔵入りになりそうな予感。NCPの管理部長から「覚悟してください」と言われた監督だったがオーディションで選んだ女の子たちの髪をカットしてしまっていたそうで「やるしかない」と思ったそう。髪をショートにされて中野みゆきさんはかなりショックだったとか。

同年7月 クランク・イン1ヶ月前、キャスト決定。肉体訓練のリハーサル開始。「恐怖のヤッちゃん」完成直後からロケ・ハン開始。崖のある湖を探すのに苦心する。

クランク・イン5日前に、ソニービデオソフトウェアインターナショナルの製作参加が決まる。

7月27日 AM8:30 成城学園ミスタードーナツ前にて 「四月怪談」小中組といっしょになる(「四月怪談」パンフレットプロダクションノートより)

1987年7月29日 横浜市の大倉山記念館でクランク・イン。寮の周辺の撮影から始まった。

7月30日 横浜の山手の「セントジョセフ・インターナショナルスクール」を寮の内部に見立てて撮影。本館はもちろんベーリックホールでも撮影が行われた。撮影スタッフの高間賢治さんによれば、なんとかひと部屋くらいセットが組めないかと思ったが予算がそれを許さない。実際、ベーリックホールは当時寮として使用されていた。お誂え向きに夏休みのために空いていたので3部屋確保。(しかし、全寮制の寮に見せるため、神田の旧YMCAホテル(現在では新築されていて残っていません。)を上級生の部屋の廊下として使用。)閑静で日本離れしたこの場所は、他の映画でも使用されている。暑さの中、8月5日まで部屋を閉めきっての撮影に、関係者はうだるばかり。(撮りきれなかった場面は8月16日に撮影。)しかし、できあがった映像は全くそんなことは感じさせないくらい見事な仕上がりでしたね。

8月8日 大倉山記念館での撮影を終えて、信州は軽井沢八千穂高原でのロケに出発。

8月9日 八千穂高原(森の中)、碓氷湖(湖)などの撮影スタート。標高1200m、美しい白樺林での撮影は、天候が変化しやすく晴れていたかと思えば、集中豪雨、スケジュールの調整に苦労し、連日早朝から深夜までの撮影となる。

14日 帰京。

16日 セントジョセフで取り残し部分を撮影。

17日 新宿DO Sports plazaのプールを使用して、湖に飛びこんだ少年たちのカットを撮影。カメラスタッフもおもりをつけての奮戦。

22日 撮り残し部分撮影のため、日帰りで碓氷湖ロケという強行スケジュール。最終カットは、シーン125・湖で花火のカット)この日の撮影で、クランク・アップ。

9月1日 アフレコ。出演した俳優をふくめた20人のオーディションの結果、決定した声優キャストによって行われました。(和彦=佐々木望 薫=高山みなみ 悠=宮島依里 直人=村田博美 則夫=水原里絵(現・深津絵里)和彦に関しては中性的な男性の声という監督の希望で唯一男性が当てられた。)

9月25日 0号完成。

1988年3月26日 銀座松竹シネサロンにて一般初公開。

同年8月 ソニービデオソフトウエアーインターナショナルよりビデオが発売になる。

その後、中野武蔵野ホールをはじめ各地でロードショー及びレイトショーにて上映されたのはご周知のことである。そしてアメリカのテルライド映画祭へも招待を受け、ニューヨークやロンドンでも好評を博す。

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