わが信行の記 84 (小学校一年〜二年)


おもちつき

十二月二十九日のたけの子会はおもちつきです。朝九時五分に家を出て行きました。本行寺会館につきました。それから一かいでおばちゃんが、「おもちたべていいよ。」といいました。それで、きなこもちを2こたべました。それから上でしゅっせきをとってから、三しょうしました。それから下でおもちをつきました。きねはなんだかおもったより、とてもおもかったです。ならんだときに、じゅんばんがとてもまちどううしかったです。

それからおもちがつけたのできなこもちを2こたべました。でもまだおなかがいっぱいにならないので、からみおもちをもらいました。からみおもちには、ぼくのきらいなだいこんおろしがのっていましたが、たべてみたら、とてもおいしかったです。ごうけい、朝きなこもち2こ、昼きなこおもち2こからみおもち2こで、ぜんぶで6こたべました。からみおもちはからくないで、しょっぱかったのでへんなのと思いました。からみおもちはとてもおいしかったので、らい年はからみをもっとたべたいです。あんこおもちはきらいなのでたべませんでした。

それからかがみもちをつくりました。ふくこうとうさんにやり方をおそわりました。こなはあんまりつけないそうです。ついているところはつまんで中にいれるそうです。そしてまるめるときは、こゆびではさむようにしてくるくるまわすそうです。それから紙につつんでもってかえりました。家についたらかがみもちがこわれていたので、ふくこうとうさんに、おそわったように、またつくりました。それからお母さんが、「かたくなるからたべなさい。」といったのでたべました。とてもおいしかったです。またらい年のおもちつきがとてもたのしみです。

1984/12/29


かんそうぶんの書き方

ぼくはかんそう文はにがてです。でも日記などはかけますが、どうしてもかんそう文はにがてです。でも十二月のたけの子会では、こうとうさんがぼくのにがてな本のかんそう文の書き方をおしえてくださいました。

一つは全ぶんよんでからかくのは、たいへんだからひとくぎりよんだら、少しかんそう文をかいといて、よみおわった時にもうかんそう文ができている、こういうやりかただそうです。ぼくはそれをきいたときなんとなくこのやり方でやればかけそうだなと思いました。

ぼくはこうとうさんにならったやり方でかんそう文を書きました。そしたら去年は一さつしかかけませんでしたが、ことしは三さつかけました。でもまだ五さつにはたりません。らい年はがんばって五さつかんそうぶんをかこうと思っています。こうとうさんにならったやり方でやれば、きっとかけると思います。

1984/12/09


お会式について

10月のたけの子会ではお会式のことをやりました。こうとうさんはやっている物を途中でやめると、もとにもどってしまう物ともどらない物があるとおっしゃいました。やかんのゆはもどってしまうけど、人間はおぼえていることができるのでもどりません。

こんろんざんはほうせきの山で、くずれなければたからがとれません。どうしたらたからがとれるかというと、だいしょう人さまはこんろんざんは自分の体であり、たからをとるにはご本ぞんさまをかたくしんじてとなえることによってのみ、こんろんざんがくずれてあらわれるのが「とうたいれんげ」、ほとけのいのちだそうです。

そのことをおしえてくださったごおんにむくいていくのがおえしきです。

1984/10/14


お母さんのいなかへ行って

おかあさんのいなかへぼくたちは二年に一どだけ行きます。でもそこのうちはそうどうしゅうなので、行くと頭がいたくなるので今年はご本ぞんさまをもって行きました。どうしてか、頭がいたくなってもぼこたちのご本ぞんさまがあるへやへ行くとなおってしまいました。ご本ぞんさまの力はすごいんだなあと思いました。

ぼくたちはさいしょ海へ行きました。と中さるやしかやらくだなどがいる森もあります(※昔ここにあった動物園が廃園になった)。りきおばちゃんにじどうしゃにのせてもらい海につきました。海では貝とりをやったり、およいだりしました。貝はみんなかんたんにとるけれどぼくはふたつしかとれませんでした。川が海にそそぐ所がありました。その川が海にそそぐ所がありました。その川に小さい魚がいっぱいいました。

二日目はあおもりのほっけこうのどうじょうが、あたらしくできたのでおまいりに行きました。しばらくぶりなので場所わすれて少しさがしました。とてもよろこんでくれました。

三日目おばあちゃんが畑につれていってくれました。畑にはピーマン、じゃがいも、大こん、ナス、とうもろこし、人じん、きゅうり、まだまだいっぱいあった。じゃがいもをほらせてくれた。ぼくは一列半やった。そのあと、たき火の上になべをのっけて、中に水と、とうもろこしとじゃがいもをいれてにた。とってすぐなのでとてもおいしかった。

夕方まかどおんせんへ行った。行く時、カメラをわすれてぼくがとりにいった。バスをおくったら次のバスまで一時間あります。ぼくがバスていのそばまでくるとバスがきました。もうだめかと思ったらギリギリまにあいました。おんせんの記ねんにぼくのあつめているキーホルダーを買ってもらいました。

四日目もうみに行きました。こんどはひろこおばちゃんにつれていってもらいました。夕方にひろこおばちゃんがせみのぬけがらをとりにいってくれました。四日間合わせて二十五こぐらいとてました。そのばんかえりました。しゅう一おじちゃんがおくってくれました。みんなにさよならするときなみだがでてしまいました。あおもりでは、たのしかったです。

1984/09/09


けいろうの日

ぼくのおじいちゃんやおばあちゃんはねりまにいます。でもおじいちゃんはせんそうでしんでしまいました。おばあちゃんはとてもやさしいです。いくといつもおこづかいをくれたり、本をかってくれることもあるし、おすしやおそばをちゅうもんしてくれます。でもおばあちゃんはなにかしらないけど足がしびれていたくて、にゅういんしたことが二回ありました。

青森にはおじいちゃんとおばあちゃんがいます。おじいちゃんの家はそうどう宗なので、はやくただしいにちれんしょう宗になってほしいです。おばあちゃんはやさしいです。いったときじゃがいものとりいれにははやいけど、ぼくたちにいもをほらせてくれました。ぼくが大きくなるまで長生きしてほしいです。

1984/09/09


水元青年の家合宿をして

八月十四日のたけのこかいで合宿がありました。いなかからかえってきて二日おきで合宿でした。青年の家は思ったよりは遠かったです。とちゅう木が、五本ぐらいはえてる所にせみが二ひきおっこちているのでひろったらきゅうに手の中できゅうにあばれだしたのでびっくりしました。

水元青年の家につきました。まずアスレチックにいきました。一番おもしろかったのは、ひもにぶらさがっていくのでした。アスレチックはぜんぶやりました。おひるはとてもおいしかったです。おなかがすいていたのでとてもたべれました。おいしかったです。

つぎはひろばでサッカーをしました。一回目は二たいれいでまけました。二回目は二たい二でどうてんでした。ぼくはボールをもってきていたので、なんかやねのあるところになげてのせ、さかなのでもどってきたのをとってあそびました。かえりせみのぬけがらを八ことりました。かえってきておやつをたべたりしました。ぼくはおかしをぜんぶたべられませんでした。そのあと夕しょくをたべたり、おふろに入ったりしました。夜テレビもみました。

あさマラソンでかえってくるとききょうそうで三とうになりました。あさごはんをたべたあと、だい六かいぎしつでごんぎょうをしました。そのときつかったご本ぞんさまは、おまもりご本ぞんというご本ぞんさまだそうです。そのあとこうとうさんのおはなしがありました。せんそうのことをはなしてくれました。それから昼食をたべてかえりました。

1984/07/15


赤えりウズラ(※シートン動物記)

このものがたりはヤマウズラのはなしです。この本の主人公の赤えりは十二羽のきょうだいがいましたが、お母さん鳥のいうことをきかないので、スカンクにやられたり、きせい虫にとりつかれたりしてだんだんしんでしまいました。さいごには、お母さんと、子ども三和だけになってしまいました。でも十一月のきちがい月になって、むかしわたり鳥だったなごりからか、四羽ちりぢりになってとんでいってしまい、赤えりは一人ぼっちになってしまいました。

赤えりは冬がだんだんふかまって来て食べるものがなくなったので食物をさがしてフランク森へ来ました。そこは高いさくがはりめぐらされていて人が出入りしないあんぜんなところでした。そこで赤えりは春になっておよめさんをみつけ、まもなく十羽のひなどりのお父さんになりました。ヤマウズラのお父さんはあまりいいお父さんは少ないのですが赤えりはお母さん鳥といっしょになって、いっしょうけんめい子どもをそだてました。母鳥もりっぱな母鳥でした。

ある日カディーじいさんに出会い母鳥と四羽のひなどりがころされてしまいました。十一月のきちがい月になって三羽がいなくなり一家は四羽になりました。雪がふりつづいた夜、一家はふきだまりの上に頭をだしているカバの木の穴であたたかくやすみましたが、目をさましたら氷の板にとじこめられてしまい赤えりは一日半もかかってやっと外に出ましたが、おなかをすかせた二羽の子どもがふぶきの中にとびだしていってかえってきませんでした。一羽の、のこった子はふぶきがやんでえさをさがしに行ってカディーじいさんにうたれてしまい、赤えりはまたひとりぼっちになってしまいました。

カディーじいさんは、ふつうのやりたかでは、赤えりをしとめることはできないとわかり食べ物が一番少ないときえさをたべにくる所に一列にわなをしかけました。そのわなの一つにかかってしまいました。それでさかさにつるされて二日もくるしみました。オオミミズクにひきさかれて赤えりは一生を終えました。

なんにもしないどうぶつをうったりわなにかけたりするはやめよう。やるならひつようなだけやればいい。いきているのをむりやりころすな。バンバンうつのはやめようどうぶつだっていきているんだから。

1984/07/08


ぼくのすきな科目(体育)

ぼくの好きな科目は体育です。どうしてかというとたのしいからです。一年生の時は四月からだいたい六月ごろはきめていません。一年の時の六月から九月はプールで九月から十月はうんどうかいのれんしゅうだいたい十月十五日から二月ごろまではなわとびです。二月から三月はサッカーでした。二年生の時は四月から六月はドッチボールで六月から九月はすいえいです。

ぼくの好きなのは野きゅうとサッカーと木のぼりとキックベースです。野きゅうはうまく当たっていい所へいきます。野きゅうではいんぱんと、投手と、とうるいがすきです。たけのこかいやこてきがあるので学校の野きゅうぶには入れません。次はサッカーです。サッカーはやっぱり強い方です。今はそんなにありませんが前は二時から四時まであそんでいる時もありました。サッカーは一ばんめにすきです。だから木のぼりをしない時はいつでもします。でもとちゅうで三年生の人とか四年生の人とか五年生がかってに入って来たりすることがあるので、つまんなくなることもときどきあります。そんなことがなければサッカーはすきなんだけどなと思いました。

次は木のぼりです。ぼくたちは第一べっそうとか第三べっそうとかレゴランドZとかうつりべっそうとか、だいたい学校の木の百本ぐらいをあそびにつかっています。学校いがいでものぼれる木ならあそびにつかいます。もちろん木のぼりのあかまはいます。だいたいみんなで二十五人ぐらいいます。もっとのぼれる木をさがしてのぼりたいです。

こんどはキックベースです。キックベースというのは野きゅうとルールはぜんぶ同じで、ただサッカーボールをけってすすみます。ぼくの好きなばしょは三るいをまもっている人の一メートルぐらい右のところにフライをうってホームランするのがとくいです。ぼくの好きなのはとうるいとうつ時です。好きなじゅんじょは一サッカー、二木のぼり、三やきゅう、四キックベースのじゅんじょです。学校でやった体育でいままでやった中でのじゅんじょは、一すいえい、二サッカー、三ドッチボール、四なわとびのじゅんじょです。

いまは二十五メートルおよげます。ことしは百メートルおよげるまでちょうせんします。できるといいなと思います。それから七夕のおねがいにやきゅうやサッカーや、すいえいやキックベースや木のぼりがうまくなるようにとたなばたのおねがいにかきました。かなうといいなと思いました。

1984/06/10


けっこん式へ行って

きょうはよしえちゃんのけっこん式なのでたけの子会に出れませんでした。けっこん式へかぞくで行きました。本行寺におとうさんがきたときおとうさんは二年ぶりです。まえはぼくの七五三のとききていました。本行寺についてから三がいでさっそくよしえちゃんと写しんを二枚とりました。それから二かいでごんぎょうをして、かしきりバスでちんざん荘へ行きました。

ちんざんはさかにたっていて一かいからきてもうしろをみると三がいです。いろいろなところに行ったりきたりしたのでもうはらぺこでフラフラになりました。それからやっとおりょうりがきたと思ってナプキンをかけてまっていたらお話がしっぱい、いろいろあるのでまちきれなくなりました。やっとたべはじめです。ところがあまりりょうりが多いのでそんなにいっぱいたべれなせん。二皿ぐらいたべたあと中があついのでへやをでてちんざんそうのビルの中をたんけんしました。

エレベーター、エスカレータ、かいだんなどをとおっていろいろいって見ました。一かい、二かい、三かい、四かい、たきの方、あっちこっちいっているうちに、よしえちゃんのけっこんしきをやっているところの前のところの広くなっているところにきました。するとお父さんが出てきて、「ゼリー食べないかけんごとゆうことどうするたべる。」といったのでぼくたちはもちろん「たべる。」といいました。ちょうどおなかがすいていたのであっというまに食べてしまいました。グレープフルーツの味でした。

終わりのころキャンドルサービスのローソクをつけるときおかあさんが「ウェディングドレスのベールが、下についているからもってあげたらどうかしら」といったのでもってあげました。もちながらぼくいもうとは小さな声で、「ながいなあ。」とか「そんなにひっぱるな。」とかいいながらもってあげました。でもこの日を一番たのしみにしていたのはなくなったおじちゃんだと思いました。

終わってから下に行って、たきの下のトンネル三重のとうなどいってみました。水車をしゃしんにうつそうと思いましたがフィルムがなくてうつせませんでした。きょうはほんとにとてもすごくつかれましたが楽しいつかれる一日でした。 1984/05/03


ていしんはくぶつかんへいって 二年 しぶや けんご

きょうは逓信総合博物館に行くのでおかあさんに五時におこしてもらって六時十分に家を出ました。お寺で朝まいりをしてから八時半ごろにしゅっぱつしました。そして本じょうあずまばしからいつもぼくたちがのってかえる方に電車でやっつぐらいいって、そこから二十分ぐらいあるきました。

つきました。まずぼくたちは二かいを見ました。二かいには電話やテレビなど電きものがありました。つぎは三かいに行きました。三がいには、はがきやきってがありました。はがきやきってのクイズのきかいがありました。だからやってみました。まんてんが百てんのをやって六十点までいきました。ぼくはやったあと思いました。

こんどはまた二かいに行きました。ぼくは小じかもの語のスタンプをおしました。はん長さんが「三かいに行くぞ。」といってエスカレーターにのったので、ぼくものったら、つきそいのおかあさんが「もう三かいにはいかないよ。」といったので二かいのかいだんでまち合わせしてすこしまってもなかなかこないので一かいに行って見て、また二かいにいってやっとみつかりました。それで、「どこへ行っていたの。」と、ふみやすくんにきいたら、「えいがを見ていたの。」といいました。

つぎは字や絵を書いていれると三十びょうでセットのきかいの方へ出るというのをかかりのおねえさんがやってくれました。それはどういう時につかうかきいたら「かいしゃからかいしゃへ、いろいろおくる時つかいます。」とおしえてくれました。

それから一すんぼうしのえいがを見て、こんどは一かいに行きました。そしていろいろなきってを見ました。ぼくのもっているきっては、ほんのわずかしかありませんでした。こんどは一かいのいすのある所にあるまって、ちか二かいのきゅうけい所でおべんとうをたべました。つぎはおまちかねのおやつです。ぼくは、ガムと、チョコレートとポテトチップスをもってきました。おやつはとてもおいしかったです。

それからこうきょ東ぎょえんに行く予定だったけど休みなので、北の丸公えんに行きました。でもあそぶのをもっていかなかったので、つまんなかったでした。こんどはおわりで、でん車で本行寺へかえりました。きょうは、とてもたのしかったでした。

1984/04/30


一年間の思い出(抜粋)

はじめてのたけの子会は、四月十日でした。その時たけの子会のおやくそくがありました。一、やくそくごとはまもること。二、じゅりょうほんのちょうぎょうをばりばりあげれるようになること。三、元気よくへんじをすること。その三つでした。でもそのころは、まだふあんがありました。学校の方では、友だちが五にんぐらいできました。だんだん友だちがふえてきました。だから学校にいくのが楽しみになりました。ともだちのうちへあそびに行くようになりました。せは、百十六・三センチメートルたいじゅうは十八・一キログラムでした。いまでは、せは、百二十・七センチメートルで、たいじゅうは二十・四キログラムになりました。それでずいぶん大きくなっていることがわかります。

五月に学校のしんぞうのけんさをしておかしいといわれて、いりょうセンターにいって見てもらったら、しんぞうの左ききでした。でもふつうの人と同じことをしていいといわれました。そして、ほっとしました。心ぞうの左ききは千人に一人だそうです。でも、ふつうの人と同じことをしていいなんて、これはごほんぞんさまのおかげだと思いました。

九月はこてきたいにもはいりました。ぼくは、「たけの子会でいっぱいだからこてきにはいったらつかれちゃう。」といってないたりしていましたが、一日やっただけで楽しくなったのでかえり電車でぼくはおかあさんに「ねえねえおかあさん、きょうねちょっとやって見たら楽しかったよ。」といったらおかあさんは「そうよかったね。」といいました。

三月のたけの子会は三月十一日で、年どがかわるから、ぜんぶここではんせいするということと、自立=自ら立つということをやりました。三月二十九日から夏の登山までに、おだい目十万べんにちょうせんしてみることにしました。

一年間やって来たペーパーをメモのようにいていたけど、ていねいにかいてみると字もうまくなっていました。一年間をはんせいして見て、たけの子会のやくそくの、一、やくそくをまもるは、こうとうさんのお話し中おしゃべりが多かった。でもしゅくだいの作文はこんかいいがいはやりました。二、じゅりょうほんの長行をバリバリあげられるようになるは、まえはとばして、人がいきをつぐところでつがなかったりしたけど、いまではゆっくりまちがわないでできるようになってきました。

つうしんぼに、チャイムがなってもせきにつかない、じゅぎょうちゅうのおしゃべりがおおかったと書いてありました。それなのでこの二つを二年生でなおすようにがんばろうと思いました。たけの子会の作文はだんだん自分でかけるようになりました。だから学校の作文はかるくかけます。このあいだは家の人のことで九枚かきました。でもだいとかんけいないことまでかいたので、先生がよぶんなところを四枚ぐらいのながさにして、クラスみんなの作文をぶんしゅうにしてくれました。一年生のときの思い出としてたいせつにしたいと思います。

1984/03/01


日蓮大聖人おたんじょうえ

人間から見るとありなどはただあそんでいるのだと思っては大ちがい、そのことについてこういうお話を聞いたことがあります。

おとこの子が「ありになりたい。ありなんかただぎょうれつを作ってあそんでいるだけじゃないか。べんきょうしなくていいな。」というと、まほうつかいが来て、「ほんとうかい。」というと男の子は「うん。」と、いいました。するとまほうつかいは男の子をありにしました。ところがありになってみると大ちがい。みんなははたらいているではありませんか。ありは、一分間も休まずはたらくし、つよいてきとたたかわなければなりません。男の子はかんしんしてしまいました。でもそうしないとえさがあつまらないのです。

人間はいつでもすきな時になんでもかえます。どうぶつとはっきりちがうのは四本足、しゃべれない、どうぐをつかえない、しゅるいがちがう、毛がながい、大きさがちがう、字がかけない、頭が人間よりわるい。おなじところは生きもの、命がおしい、子どもをうむ、年をとる、ものをたべる。

いま人間でいることはありがたいすばらしいことです。だから人間でいるうちにいっぱいおだいもくをとなえなさいとおしえてくださったのが日蓮大聖人さまです。そしてしゅみで魚をつったり生き物をとったりすることは殺生をしてはいきないというほとけさまのおしえをきかないのでだんだん果報がなくなって、ふたたび人間に生まれてくることができなくなるそうです。

大聖人さまがおたん生にならなかったらみんなそのことを知らないので妙法のおしえにたてつき自分かってなやりたいことをやって、そのけっかまもられない。いつ命をうばわれるかもしれない果報になりじごくにおちるところだったのです。人るいにとって大聖人さまのおたんじょう日二月十六日は、ものすごくだいじな日でありごほう恩の法要がお寺でおこなわれる日です。

1984/02/12


みうらはんとう一しゅう

一月十六日みうらはんとうをバスハイクで一しゅうしました。朝四時半におこされて、ごんぎょうをして、五時にうちをでて、自てん車でえきにいきました。おかささんが自てん車をおいてくるあいだに、きっぷをかってまっていました。おかあさんがきたとき、おもいがけなく一本目のでんしゃにのれました。お寺についてごんぎょうをしてしっぱつしました。

しっぱつ時間は七時半でした。七時四十分かんだ川のひろいところにでて、七時四十三分かんだ川ちどうろがはなれました。すこしいくととんねるばっかしのところもありました。七時五十三分ふねのりばがちかくに見えた。八時ものれえるのせんろがあって、ものれえるがとおった。八時五分けいばがあってうまがはしっていた。八時七分ひこうきがかっそうろがあってひこうきがあった。

つぎはせんかんみかさです。たいほうは二十かしょぐらいありました。大きいのや中くらいのや小さいのといろいろの大きさのたいほうがありました。すこしいくと中にはいりました。たいほうのよこのはんどるをまわしたらたいほうが上下にうごきました。すこしいくとひもがあったのでひっぱったらカランカランと音がしたので上を見るとかねがありました。おくへいくといろんなへやがありました。

つぎはかんのんざきのとうだいです。山の上なのでのぼるのがたいへんつかれました。はんごとにとう台にのぼりました。上はつよいかぜなのではんちょうさんのマフラーがとんでいってしまいました。ぼくはこんなにかぜがつよいなら、たこあげしたらよくあがるかなあと思いました。たかさが十九メートルだそうです。おりるときかいだんをかぞえたらぴったし六十台でした。とうだいのかえりみんなでしゃしんをとりました。かえりゆきがふってきました。

次はマリンパークです。いろいろなさかなやかにやえび、ひかるさかな、さめがいろいろいました。さかなのげいもありました。一時半からいるかのげいがありました。それもたのしかったです。おわってすこしたってあすれちっくであそびました。たのしかったです。そのあとみんなにぎゅうにゅうとかを先生たちがかってくれました。

けんはとうきょうからかな川からしずおかへいって、かえってきました。とてもつかれたけどたのしい一日でしたです。おかあさんに見せてあげたかったので、かえりぼくが「いつかお母さんとぼくといもうととお父さんの四人のかぞくでみんないっしょで三うらはんとう一しゅうしよう。」といいました。するとおかあさんは、「いつかしようね。」といいました。ほんとうにたのしい一日でした。

1984/01/16


かきぞめ

二十九日かきぞめのれんしゅうのためどうぐをかいました。でもどうせ三年生になると学校で使うのです。ぶんちんとすずりはおかあさんのをかり、かみ、ふで、ぼく汁、ケースをかいました。かってきたらさっそくかきたくなりました。おとうさんが「ふでのさがかたいとおれるからふでの先をあらってやれ。」とおかあさんにいいました。

ふでのもちかたがえんぴつのもちかたとちがうんだよとおしえてくれましたがわすれて、お寺でもさいしょえんぴつのもちかたでかいてしまいました。「かるたとり」というおて本をもらって下にひきました。ただすらすらとかいたけどわりとうまくかけたと思いました。ひとりひとり名前をお寺の先生(※御住職)がなおして下さいました。あとで、先生がよくお手本をうつすように、また名前をじょうずに書くとぜん体もうまく見えるからお手本の名前しっかりうつすようにといわれました。

一月六日いもうととふたりで書きぞめをしました。かみが二十まいあったので十まいくらいかきました。なんまいも書いたのでお手本のじが見えなくなりました。なんかいもてぃっしゅペーパーでふきましたが、かいた字がにじんでしまいました。かいたのをぜんぶならべて、ご前中かかりました。かきおわったころおとうさんがかえってきたので、どれをだしたらよいかみてもらいました。おとうさんがえらんだのは字はよかったけど、名前がへただったので、おかあさんはまよって三まいえらんでおこうの日もっていきました。しまざき先生も、おとうさんのえらんだのがよいといいましたが、やっぱり名前がだめなのでべつのをはってもらいました。

きょうこおばちゃんがけんちゃん力づよくてじょうずだねとほめてくれました。しょどうがすきになり、あとで、きんじょのともだちと、いもうとのさんにんのを、おかあさんにはってもらいました。

1984/01/06


お正月について

お正月がくるので三十日の日みんなでへやのすすはらいをしました。ぼくがたんすの上ですすはらいをしました。たんすにのったついでにぼくがたんすのよこのカレンダーをとりかえました。つぎにぼくがでんきの上のすすをとりました。するとつぎにおかあさんが「ごほんぞんさまの上のかべにクモのすが、あるからとって」といったのでとりました。でもぼくのきらいなクモがいるのでしょっく!はたきは手がやすめないので手がつかれる。

このどはまどふき。おかあさんにぞうきんをあらってしぼってもらいました。いもうとのゆう子はべらんだのそうじをしました。まどふきは三がいなので下におちたらこわいです。でも半ぶんやりました。あと半ぶんの方はこわいなーと思っているとおかあさんが、「おかあさんがやってあげようか。」といったけどぼくが「さくぶんにかくからやるんだい。」といったけどこわくてやっぱりおかあさんにやってもらいました。

こんどはごほんぞんさまのまわりと中をきれいにします。いつもはあぶらをつけてやるけどことしは、あついおゆをしぼったふきんでやりました。その方がきれいになるとせいきょう新聞にかいてあったからだそうです。中のおずしはおかあさん、あとはぼくといもうとでやりました。さむくて足がこちんこちんになったので三十分ぐらいにこたつにあたりました。

それからおそなえのさんぼうをぼくがくみたてました。となりでぼくのいもうとが見ていたのでぼくが「どうだおにいちゃんつくるのうまいでしょう。ゆう子もちょっとつくるか」とはなしながらゆっくりくみたてていきました。おわったのでこたつの上においておきました。

十一時三十分になったのでぼくといもうとでふたりでおゆをわかしてこうちゃとさとうをだしてみんなのこうちゃをいれました。そしておかしをたべました。やっと十一時五十分ごろに大そうじがおわりました。

そこでおそなえをおかざりしておだいもくさんしょうをしました。あとは五十九年の正月がくるのをまつだけになりました。大そうじがおわりクモのすもとっておそなえをかざってお昼になってよくはたらいたのでおとうさんが□□というラーメンのおいしいところにつれていってくれました。おかあさんい「日本むかしばなしできいた『お正月さん』っているの。」と聞いたら「お正月さんはいないけど『正月をもてなす人はとくもまさり人にもあいされそうろう』とあるでしょ。」といいました。

元旦は六時二十一分のバスでお寺へむかいました。ほどうきょうの上ではつ日の出がでるのを見ている人もいました。西おぎくぼとおぎくぼのあいだできれいなはつ日を見ました。お寺についたらもう人がいっぱいですわれませんでした。でも二、三才の子もたっていたのでがんばりました。「正月の一日は日のはじめ月の・・・。」のぼくのしっているご書が出たのでうれしくなりました。

お寺がおわっておじちゃんの車でまっすぐおばあちゃんのところへいきました。おばあちゃんはよろこんでゆう子と二人にお年玉をくれました。おばあちゃんのおうちのおぞうにがおいしいので二はいたべました。それから、やなぎさわぶ長さんのうちへ九ちくの人があつまり、しん年のごあいさつをしました。夕がた四時半に家につきました。ぼくには一まいしか年賀じょうがきていないのでがっかりしました。

二日はえんぴつのかきぞめとすみですきな字をかきました。お年玉でかったサッカーボールでキックベースをしました。それからタコをあげをしました。高くあがりましたがぼくのが木にひっかかったので、またかってくるとそのたこが、いとがきれてとんでいってしまったのでないていると、さっき木にひっかかったのがかぜでおりてきました。

三日はさくぶんをかいて、四日ははつとざんです。

1984/01/02