わが信行の記 86 (小学校三年〜四年)


おもちつき

十二月二十九日のたけの子会は、おもちつきです。今年もおもちをたくさんたべたいな 、と思っていました。おもちつきの前に、おかきぞめのお話がありました。先生が、かきぞめは一月の二日にやるものだと、お話がありました。ぼくたちのか題は、仏の道でした。それからこうとうさんから、はつゆめのお話しがありました。

十一時になってやっとおもちつきがはじまります。さいしょ、はこみたいのにいれて、むしてからうすにあけました。そしてすぐつくのでなく、大人の人が三人で、おもちをきねでこねました。そしてからやっとつきました。大人の人たちがついて、おもちになったのをぼくたちがつきました。ぼくは一回めのじゅんばんのときに、十回つくうち六回おもちをついて、四回はちがうところをついてしまいました。でも去年よりいっぱいおもちをつけたのでよかったです。

やっとおもちができたのでたべました。おととしまでは、きなこやあんこばかりたべていたけど、去年からはからみおもちもたべました。そしたら、とてもおいしかったので、ことしもからみおもちをたべることにしました。お母さんが「大根には消化をたすけるはたらきがあるのを、しっているでしょ。だからからみおもちをたべるのよ」といいました。ことしは、きなこを一こと、あんこを一こ、そしてからみおもちを三こで、ごうけい五こたべました。もっとたべたかったけれど、おなかがいっぱいになったのでやめました。

こんどは、またおもちをつくことにしました。二回めについたときに、十回のうち九回つけました。でも一回うすをたたいてしまいました。三回めにやっとおもちを十回全部つけました。とてもうれしかったです。そしてもういっかいつこうかなと、ならんでたけれど、一回でもついた人は、おしまいといったので、できませんでした。これからおそなえのおもちをつくるのかなとおもっていたら、おそなえのおもちはつくりませんでした。

おもちつきはとてもたのしかったです。けれどおそなえのおもちがつくれなくて、残念でした。来年もおもちをたくさんたべたいです。

1986/12/29


今年の終わりのたけの子会

一年をふりかえるとたけの子会は十二回。そのことを思い出すと、ぎょうぎがわるい。ぎょうぎが悪ければ、むくいがある。春、一年生みんなになれてほしくて、野外けんしゅうをよていしていたけれど、一回目雨でつぶれてしまった。二回目には行けたが、こんなことははじめてである。今年一年は目に見えないかもしれないけれど、もしかしたら自分がわるいのではないか、それとも、みんながわるいのではないか。

一、自分の方に、とが、があるのか
二、みんなの方に、とが、があるのか
三、一つあらわれる所を見ると、まだ外にいくつもいくつもあるのではないだろうか。

このことは大人になっても、とても大事なことである。あいてがわるく、自分はわるくないというのは、だめである。でも仏様はだれがわるいか決めていいのである。仏様が決めてくれるうちはいいが、仏様が死んでしまったら決めてくれる人がいなくなってしまいます。そのときは仏様のといた法で決めなさいという。でもどれで決めるかわからない。どれで決めるかというと、南無妙法蓮華経によって決める。だれかが悪いことをしたとして、それを止めなけれ自分もわるいことになります。そこで自分にとががあることがわかる。

頭がいたいといっても、どのくらいいたいのかわからない。体温計で計ればどのくらいいたいか見当はつくが、なつがなくてもいたいときがある。おなかはもっとわからない。いたいというとごちそうが食べられなくなる。だから、いたくないとうそをつく。これは、とてもいけない。災難が出てくる。交通事故、ふん火、火事。この火事がこれから多くなるそうです。人がこまっても自分にはかんけいないというのはまちがっていて、少しはかんけいがある。大島のふんかでも、東京にひなんして、やはり東京がそんをする。

ご本ぞん様をおがむ時に、おじゅずをかけても、かけなくても同じと思ってはいけない。ご本ぞん様をおがむ時は、おじゅずをかけ、玉の二つの方を左にします。そこから八コ目と二十三コ目に、小さな玉がありそれは、四菩薩の意味だそうです。ぼくは、小さな玉があるのは知っていたけど、決まった場所にあり、意味があるものだとは、知りませんでした。ごんぎょうで大切な事は、おじゅずをかけ、しせいを正し、毎日朝夕かかさずする。そしておじゅずで題目を数えるときは、親玉をこさない。なぜかというと、親には恩があるからです。

1986/12/14


世の中の変化と仏様の教え

十二月三十一日も正月の一日も年が変わったから、ちゃんとできるのではなく、決意することによって、ちゃんとできるようになるそうです。決意は大事だと思いました。

生き物は、食べ物がなければ生きていけません。わたりどりは、今までいた所にえさがなくなると、えさのある地方へとんでいきます。ぼくのうちのマンションにもつばめがきます。動物は、たべ物がなくなると大変なので、外側の変化にとてもきをつけます。世の中についていかなければいけません。もしついていけなければ生活ができません。

せいひん(※製品)でたとえれば、やすくてよい品物。そして便利な方がうれます。そして世の中の進歩についていけない方が、どんどん生活ができなくなります。しかしがんばってよい品物をつくればまたこっちの方がよくうれるようになり、売れていた方がうれなくなったり、なんどもかわります。そのように、ぎじゅつかくしんすると、いっしょにせつびもよくなります。

日本は戦争に負けて、古いせつびがこわされ、昭和三十年代ごろより新しいせつびとなり、日本のせいひんは安くて良い物になったので世界中に売れて、世界のお金が日本にあつまるようになったそうです。しかし外国では、かちのあるお金でも、日本ではただの紙切れです。だからお金といっしょに、物もいっしょに入ってくればいいのですが、入ってこないので、日本はお金持ちだといっても実感がないので、もうけた会社はそのもうけたお金で東京のべんりな土地を買ったりします。世の中変化していくという事と、かしこいリーダーにみんなになってもらいたいとお話がありました。

題目をとなえていると、外側がかわっていることを、ちえがあってつぎつぎ対応して、自分もみんなもぜったいてきに幸せになっていく。では、幸せになっていくということを、だれがおしえてくれるか。最高の人が仏様である。その仏様が日蓮大聖人様である。その日蓮大聖人様の教えを守り、ふかく頭を下げて守っていくこと。そしてしゃくぶくをしていくこと。そのことによってどういうりやくがあるかというと、ちえで先手先手をうって、みんなを幸せな方へひっぱっていける。

1986/11/09


凡夫と仏、変化とたくあんのお話し

十月のたけの子会は、変化のお話と、おえしきのお話しでした。変化とは前からの形が、前からの形とはちがう、ほかの形にかわってゆくことです。このことを変化といいます。

人間はたべものがなければいきてゆけません。冬はさむくて、畑に雪がふったり土の中の水分がこおってしまいしも柱ができたりするので、作物が冬はとれません。なので食べる物がなくなってしまいます。だから秋のうちにたくわえておかなければいけません。だから秋とれた物を、つけものにしてとっておくそうです。いまでは、つけものはいつでもうっているので、ぼくはたくわえておくものとは知りませんでした。たくわんは、大根がまったくちがってへんかしたかというと、まったくかわってしまうのでなく、形は同じである。しかし、色や味がちがう。

凡夫が仏になる。凡夫が仏になるとどうなるかというと、まるっきりちがうのでなく味がちがってくる。味がちがってくるというのは、じひが深くなるということだそうです。

じひしんの一ねんというものは、ご本ぞんさまをおがまなげれば、へんかしない。いくらものがあっても、お金があっても、ほかになにかあっても、つかったりしなければいみがない。これでは、ないのと同じです。だからじひのいのちやじひの心があっても、お金や、物などといっしょでつかわなければ、ないのと同じことで、いみがない。

あの人に、はなしたいとか、教えてあげようと思ったら、思っただけでなく、本当にはなしてあげなければいけません。このことを、じっこうしていくことによって、凡夫が仏になっていけると大聖人様がおしえてくださっているのです。ご本ぞん様を、おがまなければ仏になることができないから、ごんぎょうをちゃんとしなければいけないと思いました。

1986/10/12


敬老の日

九月のたけの子会は、敬老の日でお話しでした。敬老の日はお年よりをだいじにする日ですが、この日だけだいじにするのではなく、毎日だいじにしてあげなければいけません。敬老の日は、そのことをわすれないように、おもい出させるためにあるそうです。

敬の字はうやまうともよむそうです。こうとうさんが、うやまうというのはどういうことだと五・六年生にききました。おれいをいうとか、かたをたたいてあげるなどでたけど、ぼくはわかりませんでした。でもそのことを頭の中で考えているだけではなく、じっさいたいどふるまう。その中で大切なことは、

 一、口答えをしない
 二、自分の考えを押し通さずに、やりたいときはお父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんにきいてみる。いいといったらやる、だめといったらすぐやめる。
 三、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、の考えをよくきくこと。

この三っつは心の中にしまっておくことだそうです。こういうことがうやまうということに、なるそうです。そこで身でふるまうとなにが出てくるかというと、

 四、たっとび、敬うかたちをすがたであらわすこと。

お父さん、お母さんに、こどとをいわれてはらをたてて、そばのねこをけとばしたりするのはたっとぶすがたではない。ぼくもおこられると、戸をバタンとしめたり、妹にやつあたりするのでいけないと思います。ものをもらって、ありがとうとおれいをいわないのも、本当にありがたいと思っていないすがたです。

目下のものが目上のものをそんけいすることはあたりまえのことですが、目上のものが目下のものをそんけいすることは、たいへんりっぱな人です。それは、みらいを見ているからです。人間はやがて、どんなこでも二十年、三十年たつと、りっぱな人間になって多くの人をみちびいていくかもしれないからです。また、そのような人になってもらいたいから、いろいろと教えてくれるのです。

としをとったら、目下のものに大切にしてもらうだけのとしよりになるのでなく、目下のものをそんけいできるりっぱなおとしよりのすがたをこうとうさんは教えてくださいました。けいろうの日はおとしよりを大切にするだけだと思っていたけれど、ぼくのかんがえつかなかったことをおしえていただきました。

それからじっさいに、おとしよりに、きをつけてあげることをおしえてくださいました。

(1)朝ばんのあいさつを自分からすすんでする。ぼくの家一つとなりにおばあさんがいます。あったときはいつもあいさつをするからよかったと思いました。
(2)やさしいことばをかける。
(3)おこずかいをあげる。

いまはおばあちゃんに、もらうばかりです。お父さんは、毎月おばあちゃんにおこずかいをあげているので、いいとおもいます。

(4)おとしよりに重いにもつをもたせない。長いかいだんをのぼらせない。
(5)おじいさん、おばあさんのえんの人を、自分も一しょに大切にする。

ただプレゼントをするといったような、うすっぺらなけいろうの日ではだめだよというお話しがありました。

1986/09/14


多摩動物公園へ行って

ぼくは、まだコアラを見たことがなかったので見たいなあと思っていました。そうしたら、一番最初に見れたのでうれしかったです。さいしょコアラ館にはいったら、くらかったので、コアラもくらい所にいるのかと思っていたら、すこしあかるい所にいました。見るまえは、くまの子どもみたいなのだと思っていました。パンフレットをみたら、コアラってこういうものかとわかったけれども、べつにかわいいとは思わなかった。けれど、本物のコアラを見たらぬいぐるみみたいで、とてもかわいかった。ぼくは、コアラはみきにしがみついているのかと思っていたけれども、コアラはみきとえだの間にいました。

次にオラウータンのことを書きます。ぼくがオラウータンを見ていたら、オラウータンの一ぴきが前にでてきて、かた手を前にだしてエサをちょうだいをしていたので、とてもおもしろかった。さるはつなをつかったりしたり、とびうつったりいろいろなことをしていた。とてもうまいなあと思いました。そして中くらいのさるが、つなをつかってあそんでいて、そのつなを自分でゆらしてむこうの木にうつっていったので頭がいいなあと思った。あとさるの赤ちゃんがかわいかった。

その次におもしろかったのはゾウです。ぼくたちが見に行ったら、ゾウが溝の方へやってきて、前足二本を、溝のふちにかけて、みをのりだしてきたのでおちたらたいへんだなあおちないかなぁ、と思いました。後足一本も溝のふちにかけて、長いはなで、ぼくたちの前に植えてあるさくのまわりの木の葉をたべたのでおちそうでしんぱいでした。

それからこんちゅうかんに行きました。こうもりやさそりなどこわいものもいました。でもかぶとむしなどもいました。それからこんちゅうさいしゅうしてある所の大きなちょうがすごかったです。ほかにもいろいろありました。どうぶつえんは、なんかいいったもおもしろいなぁと思いました。またコアラを見たいと思いました。

1986/08/20


題目を唱えていい子になろう

たたかれると、正しく成長出来る子と、できない子は決まっている。たたかなくていいというのはまちがいである。なぜかというと、そんな子はごくわずかだからだそうです。そして、どんな子がいるというと、

一、しかられて成長する子
二、しかられても成長しない子
三、ほめられて成長する子
四、教えても教えても成長しない子
五、しかっても、ほめても、教えても成長しない子
六、ほっておいてもどんどん成長する子

五の人は、どうすればいいんだと先生はこまってしまう。おちこぼれがでてくる。そのけっかよけいにしかられて、ふてくされてしまう。ぼくが先生でこんな人が、いたとしたらいやになってしまうだろうなと思いました。

こうとうさんは、ぼくたちを見ていると、一なのか二、三、四、五、六の中のどれなのかわかるそうです。どうすればわかるかというと、たくさん題目をあげることだそうです。お題目はいろいろなくどくがあるんだなあと思いました。

ほめられるのはみんなすき、おこられるのはみんなきらいです。おこられたら、なぜしかられたか考えなければいけないそうです。そうしてしかられたかわかると、成長することができるそうです。しかしどうしてしかられたか考えないと、同じ失敗をくりかえすそうです。そういうのが二番の人だそうです。

しかられたらまず、さからったり、おこったりしないでなぜしかられたか考えなければ、いけないそうです。考えないと、しかってもだめだとなって、そのうち、だれもしからなくなってしまうそうです。そうしたら、なにをやってもちゅういしてもらえなくなったらやっていることが、いいことか、わるいことかわからなくなってしまうんじゃないかなと思いました。

どうしてしかられたか、わかる人でないとどうしてほめられたか、わからない。どうしてほめられたかわからない子は、何をやってもほめられない。そして、どうしてほめられないかというと、すぐおこるからと、よくがあるからだそうです。あと教えてもわからない子どももよくがあるからだそうです。

あと、自分がばかだと考えている人もいけない。その考えをやめると、とてもよくなるそうです。ほっておいても、どんどん成長する子はとてもふしぎである。そういうこはお題目を、たくさんあげると、りやくと、ばちが自分でわかる。

1986/08/10


御本尊様は生きているとお盆のお話

今ぼくたちが、おがんでいる、ご本尊様は大石寺の、かいだんのご本尊様が元だそうです。そして、かいだんのご本尊様のことを三大秘法のご本尊様ともいうそうです。

いつまでも、正しく教わらないといっしょうけんめいやってもわからない。なぜかというと、日蓮大聖人様はもういない、などと考えているからだそうです。こういうことを、いつ教わるかというと、子どものうちだそうです。大きくなってから、そいういうことを聞いても、わからなくなってしまうそうです。

そして大事なことは死ぬということがわからないという事だそうです。人は必ずいつかは死にます。人が死んだ時に家の人などいいふるまい(世話)してもらった人は、そのことを思い出してなくけど関係ない人はなきません。だから生きているうちにいいふるまいをすることは大切なんだなあと思いました。

木は生きている。そのしょうこに、春には芽が出て、夏には芽がどんどんできて、秋には実がなるというふるまい、せいちょうする。木が死んでしまうと、これらのふるまいができなくなるそうです。ふるまいがないということは、死んだということになるそうです。

ふるまいには、わるいふるまい、よいふるまいがあります。これはもちろん、わるいふるまいはよくないのがわかります。けれども、どちらもしないのもいけないそうです。ふるまいができなくなるということは、死ぬということです。そして、ふるまいは目にも見えない耳にも聞こえない、でもふるまいがあれば生きているということです。ごほんぞんさまには、利益とばちというふるまいがあります。つまりご本尊様は生きているということです。このことをわすれないように、というお話でした。


おしゃか様の弟子の中に、とくにすぐれていた人が十人いて、その人たちを十大弟子というそうです。その十人の中の一人に目連(※蓮)尊者という人がいて、神通力第一だった。しかし目連尊者の母・青提女は、とてもケチでものを惜しみその結果慳貪のつみで餓鬼道におちた。

目連尊者は神通力でそれを知り、神通力でおにぎりをあげた。しかし二つのうち、一つをかくしながらたべようとしたために、おにぎりは火になった。果実を母にあげるとそれは剣になり身をきりつけ、水は油となりもえだした。

これは大変と目連尊者は釈迦にいったが、自業自得なので、おまえの力でもどうしようもないのだよ。ただし、インドでは雨きがあけて、おぼうさんたちがたくはつにあつまるから、ごくようしなさいと教えました。目連尊者はおおぜいのおぼうさんにくようし一日だけお母さんは、けんどんのくるしみからのがれることが出来ました。

そのご、目連尊者が妙法蓮げ経でじょうぶつすることによってお母さんも、本当にじょうぶつすることができました。

1986/07/13


算数と国語のお話

五月のたけの子会でのお話は、国語と算数のお話でした。国語は本を読まないと、できないそうです。ぼくも本はすきですが、とくに物語とむかし話がすきです。なぜかというと本当にない事が、本の中ではおこったりするし、本の最後のほうのけっかなどが、ぼうけんの本など宝をみつけてうれしかったり、楽しかったりする本と、ぎゃくに、悲しい本とあるからです。

赤ちゃん言葉はいつかなおさなければいけません。とくに小さいうちになおさなければくせになってしまってなかなかなおりません。パパはおとうさんに、ママはお母さんになおすようにいろいろなおします。ぼくは、赤ちゃん言葉ってふしぎだなと、思います。お母さんのことをママ、とよぶのがちいさいころあたりまえだったけれども、今ではママとよぶとおかしいからです。

それに赤ちゃん言葉は後で直さなければいけないのだからなくてもいいのにと思いました。赤ちゃん言葉は、作文などに書ける言葉(共通語)をつかうように、赤ちゃん言葉はしらないうちになおってしまいました。

次は算数のお話です。算数は数が数えれないと出来ないそうです。一年生は千まで、二年生は一万まで、三年生は五十万、四年生は五百万、五年生は一億、六年生は一兆まで数えれないといけないそうです。でもこれをまじめにやらないと、算数がいやになってしまうそうです。

外国では物を買ったりすると、小ぜにに全体をくずして、お金をその中からとって、のこりをおつりにするというやり方だそうです。それだと時間もかかるし、まちがえやすいなあと思いました。

そして一の数はとても大切。なんでも全部一が大切で、一からなんでも始まる。一がなければなにも後には、つづかない。0ならばないのだから、ないものをふやそうとしても、ないものはふえない。だから一は大切だそうです。国語と算数はとくいだし、きほんだから、これからもがんばりたいと思います。

1986/05/11


昭和六十一年度歓送迎式のこと 四年 渋谷 憲悟

今年の歓送迎式で、妹は一年生です。行く時の電車では、妹はたけの子会にはいるのがとっても楽しみのようでした。ぼくは一年生の一番さいしょのたけの子会に行く時の電車では、ずいぶんなきましたが、妹はぜんぜんなかないどころか、とてもたのしみにしているので、人によってちがうのかなと思いました。

それからお母さんが、妹に記念品をもらう時のやりかたを教てあげていました。ぼくは、木番(※本番)の時にまちがえないでちゃんとできるかなと心配になりました。会館についてから、ごんぎょうが終わったあと、卒業生への記念品のノートをわたしてから、こんどは一年生が記念品のノートをもらいました。ちゃんとできた人もいるけれども。ちゃんと妹ができるかなと思いました。

いよいよ妹の名前がよばれました。見ていたらちゃんとできたので、ちゃんと教えた通りに、できてよかったと思いました。そして卒業生の一分間スピーチがありました。少しなき声の人もいました。それから先生のしょうかいがありました。木村幸子先生は二人いるので大きい木村幸子先生、小さい木村幸子先生とよぶそうです。あとはしむら先生、かない先生、はっとり先生でした。

しまざき先生は、ふじん部がいそがしくなったので、おやめになられました。島崎先生がやめられてさびしかった。島崎先生はこまった時など「どうしたの」と声をかけてくれたりしたからだった。

さいごにこうとうさんのお話があっておわりになった。妹に今日どうだったと聞いたら一番前ではずかしかったと言っていた。

1986/04/13


妙法の修行

二月のたけの子会は妙法の修行のことについてお話されました。妙法の修行とはお題目をとなえることです。だが、大人になってからたくさんの人をみちびきそうな人は、そういうことをきらう魔がこいつをちいさいうちにやっつけてしまえと、とりついてきます。そこで大事なことは、魔はだれにでもつるのではないということだそうです。まえに、こんなんがなければほとけになれないと聞きましたが、このことなんだと思いました。

利益というのは、食べ物がないときに食べ物があたえられる。びょうきのときには元気になる。だから、びんぼうでなくなるということではない。本当のご利益は考えが正しくなるということだそうです。そうするとさいなんがこなくなるそうです。凡夫の智慧というのは先のことがわからない。つまり、たいけんした人がいなければわからないということです。

仏さまのお智慧とはすぎさって来たこと、先のこと、げんざいのことがわかるということだそうです。この仏さまの智慧 仏をしんずる(法をしんずる)ということにより、りやくとして仏さまの法、智慧をいただくことが出来るということだそうです。

それをわたさないとじゃまをするのが魔である。魔のはたらき、通力をもっている。すがたを見せない。そして、しんじんをさせないようにはたらく。魔は、一つ目は親のような思いをなしてくるそうです。二つ目は力でおどしてくるそうです。

こういう時、どうしたらいいかというと、身はかるく法は重し。大聖人様を固く信じて、題目を唱えてなりゆきをまつそうです。なりゆきは、多くても二年半だそうです。

1986/02/09


正直について

正直という字はただしくまっすぐということだそうです。正直な信じん、勉強でなければみのらないそうです。たとえば人をたすけても何かが目当てでやったらこういうことなどはどちらかというと悪い方に入ってしまいます。

一に止まるということはご本ぞん様をかたくしんずるということです。人間はいろいろな心をもっていますが、じひの心、仏の心はほとんどもっていないそうです。だけれどもこのじひのわずかな心はこのご本ぞんさまにむかってごんぎょうをすることによって、この心は少しずつ少しずつ大きくなってくるのです。このだいじな仏のじひの心をごんぎょうをたくさんしていっぱいいっぱいほしいです。

人間はわるい心・不幸になる心をもっています。そのわるい心・不幸になる心、元を見ていると自分のことしか考えず人の事は全く考えない人だということです。世界にはよくの心をもっていない人は一人もいないそうです。よくが悪いことを考えると自分のことしか考えない。自分のことしか考えなければさいごには友だちがいなくなってしまいます。

さわり(※障り)はまっすぐにいこうとするとじゃまされてけっきょくどこへもいけない。だけれどそれは自分に原因がある。ぼくは人のことを考えないで自分のことしか考えていなかったために、こうなったんだなあと思いました。

一、自分のことしか考えないのが不幸の元
二、自分が悪いのに人を悪く思うのが不幸の元
三、不幸になるのは必ず自分に原因があって人にあるものではない

聞くのを喜ばざる者をしっとと名づくの意味は、人に注意されてもなおさないでどりょくをする。そのけっかおんしつ(※怨嫉)になってしまいます。いやだとすぐもんくを言う。それをじゃち(※邪智)というそうです。注意してくれた人のけってんをさがしてきてそれをいい、あいてをこまらすのがじゃちになります。

ぼくもときどき「自分だって何何のくせに。」といったりします。ぼくのしっていた正直はうそをつかないだけだったけど、正直っていっぱいあるんだなぁと思いました。

1986/01/07