わが信行の記 87 (小学校四年〜五年)


行儀ということ 五年 渋谷 憲悟

四月のたけのこ会はかんそうげいしきでした。その後、ぼくたちの、行儀が悪いので、行儀のことについて、お話しがありました。

行儀の行の字は、人間の生活での毎日の行いの意味があるそうです。儀の字の方は、人間の行い、この行いは理法にかなっていなければいけない。そして儀の字を分けると人(ひと)と義(すじみち)になる。行儀は義道にのとった行いだそうです。あと礼儀の字も、意味がにています。礼儀の礼の字は、うやまうことの意味があるそうです。

せんそうのせいで、日本は、かった方の国のまねをしてしまい、日本はれいぎがほとんどなくなってしまった。理法とはなにか。理法は恩であるそうです。恩とはなにか。恩とは、礼儀や行儀である。だから恩をわすれると行儀や礼儀がなくなってしまいます。

恩には、四種類あります。
 一、父母の恩(親)これは生まれた時から、自分だけでは、大きくなれません。その時、お父さんや、お母さんが食べさせてくれます。そのおかげで大きくなることができます。これが一つめです。
 二、師の恩(先生)この人がいないと、ぼくたちは、なにもわからなくなってしまいます。わからない事などいろいろおしえてくれます。これが二つめです。
 三、衆生の恩(みんな)これは、いろいろな人の恩です。ぼくは手のほねを、折ったとき、まわりにいた人が、いろいろしてくれました。これが三っめです。
 四、三宝の恩(仏)これは、いつも、ぼくたちを守ってくれている、ご本尊様にかんしゃすることです。これが四つめです。
この四つの恩にたいして、ありがたいと気もちがなければいけないそうです。

ありがたいと思ったら、ちゃんとした、ふるまいをする。
 一、身、礼、おじぎをする。
 二、口、口ごたえをしない。これはどんなことかというと、相手に口ごたえをしないということです。もししかられたら、だまってきいている。もし相手がわるいなら、ちゃんとばちがあたる。もしこういうのをみたら、かわいそうだと思わなければいけないそうです。ぼくは、おこられると、口ごたえをよくします。すると、よけいに、しかられるので口ごたえをすると、そんをすると思いました。
    いいわけをしない。これをするということは、さいしょから、やる気がないからである。
    人のかげ口をいわない。これをいうと、くせになってしまい死ぬまでいってしまう。だから、いわないようにする。
    うそをいうと、さみしくなる。だからまたうそをいう。どうしてうそをいうとさみしくなるか、それは自分を守っていてくれたしょてんぜんじんがぱっといなくなってしまう。だから、うそをつくといけません。
 三、心、悪心、おこって手や足でものをこわしたりする。ふてくさったかおをする。良心、お題目をとなえる。人にお題目をすすめる。

だいじなことは、四恩に対し、ぎょうぎやれいぎを、かたちであらわすこと。そして、相手に口ごたえをしない事だと思います。

1987/04/01


ぎむ教育について

四月になると、世の中が62年度になる。小学一年生から中学三年生までの九年間はぎむ教育という。このぎむ教育はとてもだいじだそうです。だからぎむ教育をうけないと、法りつでしかられてしまいます。どうしてこのぎむ教育が大切かというと、日本人がみんなばかになってしまうし、日本のぎじゅつもなくなってしまう。

日本はぎむ教育があったから、ぎじゅつがすすんで、それとともに産業もすすみ、そのおかげで日本はお金もちになった。ぼくは、ぎむきょういくはとても大事だと思った。そしてぎむきょういくがあるといいことがたくさんあると思った。

教育には、時間とお金がかかる。教育には、生まれてから大学を出るまでに二十ニ・三年かかり、お金は、ものすごくかかります。こうどなきょういくには、つねにきびしいものであり、そして体力が必要だそうです。体力がないと、すぐに体をこわしてしまう。体をこわさないためや、しんけいをゆるやかにするために、クラブかつどうがあるそうです。

教育上のかたより
一、学校けいえいからくるかたより
ニ、教育技じゅつからくるかたより
のニしゅるいがあるそうです。

むすび、期待される人間像はなにか。「用」これは、きおく力や、おぼえる力、考える力などである。「用」を伸ばすということは、のう力をあげるということだそうです。そうすると「体」はどうなると、「体」は生まれることによって名前がついてこのことによって「体」ができる。体の中には性格がある。そして一番ん大事なじひがある。そして「用」だけのばすだけでなく、「体」のじひをのばしたうえに、「用」ののう力をあげる。

もし学校がなかったらみんなバカになってしまい、しゃべれないし、字もかけないなんてそうぞうもつかないくらいたいへんだと思っていました。学校がなければなにもかも、おくれてしまいます。今までは学校にいっても、あたりまえだと思っていたけれども、こんなに大事であるとはしりませんでした。

1987/03/15


正直とうそ

二月十一日のたけの子会は、ぼくたちの返事がはっきりしないのと、おしゃべりが多いので、次のようなお話を、されました。お母さんたちによばれて、返事をすると、ようじを言いついけられたりするので、きこえないふりをする。そうすると、とくをしたように、おもうかもしれないけれども、仏様の世界ではちがう。返事をしないと、もらうものも、もらえなくなってしまう。ほうぼうの人は、長い間には、とくをすることが少なく、そんをする方が多いと思っているかもしれないが、仏様の世界は、とくをすることが多い。そんをすることは、ばかなことをしたときだそうです。ほうぼうはだめだとおっしゃいました。

おしゃべりについては、いわなければいけないときには、ちゃんといいなさい。いわなくてもよいときはだまっている。いわなければならないことは、末法は妙法蓮華経でなければだめ。ということをいえなければいけない。たけの子会には、あそびにきたのではなから、もうおしゃべりをしない。ぼくもおしゃべりが多くて、ぼくのクラスでは、おしゃべりな方だったけれども、二学期からきをつけてワースト5からぬけました。お母さんもよろこんでます。

次のおはなしは、性格のおはなしで、人が死んでまたうまれてきて、それをくりかえしているうちに、性格ができる。どうしてもおさまらないのが性格で、元は、ぼんのうからはじまる。そういうものを、なおせといっているのではなく、大聖人様のおしえは、性格はぼんのうからくるのだから、一生県命に、妙法蓮華経に南無して、その性格をおいておいて、ご本ぞん様におとなえする。そうすると不思議と自分の性格がわかってくる。学校でぼくたちのクラスは、自分のわるいところをなおすことを目ひょうにしています。そしてぼくは、すぐおこるところをなおすようにしていますが、おこらないようにしても、すぐおこってしまいます。これも、お題目をたくさんとなえるとなおるのかなと思いました。

次のお話は、正直とうそのお話でした。正直とは、正しくまっすぐすすむこと。うそは不正直。たけの子会でこうとうさんがよくこのことをお話して下さるのでぼくたちはよくしっていますが、ほうぼうの人は、子どものときから、うそをついてはいけないと、いう話をきいていないから、大人になってもうそをいう。うそをつくことが平気だと、その人のしょう来は、あるていどでおわりだよ。うそをつくと、夜きもちがわるくてねむられない、というように、ならなければいけない。学校のせいせきがいいとかわるいとか、というより、正直はだいじである。学校のせいせきがわるいのは、べんきょうのしかたがわるい。先生のはなしがよくわからないのにわかったふりをしないで何回でもわかるまで正直に聞くこと。そうすると、小学校の勉強は、三日から五日の間にわかるようになる。先生の言った事が全部わかるようになっておく、そのことが勉強だよ。

国語や算数、社会は全部わけるけれど、理科の実験が、よくわからないことがあるから、そういうときは、先生にしつもんして、あぶなくないようにやりたいです。

1987/02/11


新年をよろこぶ心

お正月のおやすみ(年末・年始)を利用して、スキーなどにいってしまう人がいる。そして一月一日をあそんですごしてしまう。これはほうぼうの人がやることである。けれどもぼくたちでも信心をちゃんとやっていないと平気でこういうことをする。どうして、こういうふうにしてはいけないかというと、次の年への心がまえが必要だからである。

年末、大そうじをして新年をむかえる。家じゅう全員でこういう心がまえをしなければいけない。大みそかと、新年はいっしょだと思ってはいけない。思っている人もいるが、それはまちがっている。こういう人は大そうじをしない。そういう心がまえは、とてもいけない。お正月は、とても大事だと思いました。

心というものが新年をすててしまう。新年はふつうの日とはちがう。一年は十二ヶ月である。そしてまた一年がたつ。一年は何回も、何回もかぎりがない。栄えていく人はどんどん栄えていく。しかし、ほろんでいく人もどんどんほろんでいる。でもずっと栄えていくが、そのうちほろんでしまう。でもまたそのうち栄えていく。それは心があるからである。ずっと栄えていると、わがままがでてくる。そうするとほろんでしまう。わがままとはいけないんだなと思いました。

新年と心は、とてもかんけいがあるそうです。一月の一日に、去年のことにおれいをいい、今年もおねがいしますと、おねがいをする。心というものを正しく教えてくれる、人にめぐりあわない心というものは、わからない。そのことが大事である。心を正しく教えてくれる人は、日蓮大聖人様であるそうです。でも心はものすごくむづかしい。そのところに、日蓮大聖人様はものすごくちえがある。

心は一人一つしかないが、その心がびみょうにはたらく。心は一つにも二つにも三つにも四つにもはたらく。そのうち一つがうそをつくということである。もし心が百あったとする。しかし一つの心がうそをついたりするとほかの心までがだめになったしまう。そのことで信用がなくなったしまう。またぎゃくに、だれにでもよい心があり、この心はほかの心をみちびいてよくしてくれるはたらきがある。この心はとても大事だと思いました。

この心は、ご本ぞん様におだい目をとなえることによって、大きくなりやがて空のように大きくなり、そのはんたいに、わるいことばかりしているとその心が小さくなり、自分のこころなのに自分までが入れなくなったしまうそうです。この心をぼくは、とても大きくしたいです。

1987/01/07