安房鴨川・天津・小湊の下見


このホームページに掲載されている交通機関の時刻等は平成17年5月18日(土)のものであり、また、誤りが含まれている場合もありますので、あらかじめご承知下さい。


青年部で外房に大聖人ゆかりの地を訪ねようという企画になり、6月18日(土、くもり)に下見に行ってきた。ちょうど夏期講習会の時期で、主立った関係者は忙しいということで、今回は電車での一人旅になった。

主な研修スポットは、誕生寺(大聖人生誕の地、JR外房線・安房小湊駅より徒歩20分)、清澄寺(大聖人出家得度・立教開宗の地、安房天津駅よりバス20分)、鏡忍寺(小松原法難の地、安房鴨川駅より徒歩20分)の3つで、これを日帰りで廻るためのスケジュールを立案する。ともあれ、まずは現地視察である。


1.安房鴨川


千葉駅始発8:13のJR外房線普通電車で、終点の安房鴨川駅まで行き、そこから一駅ずつ戻ってくることにした。安房鴨川駅に予定通り10:18に到着した。『南房総フリーきっぷ』を購入すると、特急電車の自由席も割安で利用できるが、今回のスケジュールでは余り時間短縮にはならないことと、費用圧縮のために普通電車の利用を前提とした。安房鴨川駅まで行く外房線は1時間に1本で、8:13発を逃すと次は9:10発で到着は11:19になる。

千葉駅始発8:13に乗車するためには、目安として各拠点駅で大宮6:00発、横浜6:30発、池袋6:30発、東京7:00発、松戸7:00発となる。また、本行寺本堂を集合場所とする場合にも、6:30ぐらいには出発する必要がある。


○鏡忍寺

安房鴨川駅から、鏡忍寺を通るバスは1時間半〜2時間に1本の頻度なので、基本的には利用できない。徒歩で鏡忍寺へ向かった。

往路
浦ノ脇行き
復路
安房鴨川駅行き
10 20
113055
12  
13  
140030
1540 
163510
173510
備考鏡忍寺入口下車 

途中で、外房線の線路を渡るときに踏切の名前を見たら、「小松原踏切」だった。ちなみに、隣の踏切は「東条踏切」だった。この付近が、四大法難の一つ小松原法難の舞台であるが、まさに東条景信の支配地を通過したのであろう。

小松原踏切  東条踏切

鏡忍寺に着くと、山門には『小松原』の号が掲げられていた。また、堂宇には『刀杖難趾』の額が掲げられていた。

刀杖難趾 

鏡忍寺の縁起は、境内の看板によると以下の通りであるが、東条景信の落馬に関する鬼子母神云々という伝説は日蓮正宗では採用していない。また、子細に関しても『日蓮大聖人正伝』等との記述と異なる箇所が多いので、研修では調べておいた内容を発表した方が良い。

なお、トイレは境内に数カ所ある。

妙隆山鏡忍寺縁起

鏡忍寺縁起

文永元年霜月十一日、日蓮大聖人は十名計りの弟子檀越と共に、天津の城主工藤右近之丞吉隆の邸に赴かんと、黄昏の頃此辺りを通らせ給ふや、忽然として小松原の中より数百人の伏兵現れ、どっとわめいて八方より襲いかかる。之れなん、予てより大聖人を怨敵視せる、地頭東條右衛門景信の手のものにぞありける。斯くと見るより剛勇無双の御弟子鏡忍坊日暁は、身を以て大聖人を庇ひ奉り、引き抜きたる松の大木を得物として、奮戦力闘ややしばらくありしが、多勢に無勢、敢なく此に斃れ、同志の面々何れも傷つきぬ。

変を聞いて馳付し檀越工藤吉隆も亦怨敵の毒刃にかかって討死しぬ。景信は乱軍の間に大聖人の御姿を見て、馬乗りよせはったとばかり斬付ける。大聖人念珠を以て払わせ給へば、切先御額をかすめて三日月形にぞ傷つけらる。こは仕損じたりと景信、更に二の太刀を振りかざせる刹那、側なる大槙の上に現れ給へる鬼子母神の神々しき御姿に目眩み、あなやと消魂して馬よりどっと落つ。当時の大槙は今の降神槙即ちこれ也。斯くして大聖人は、鏡忍坊の亡骸を此乃所に埋め、小松を植えて菩提を弔はせ給ふ。今に存する古墳これ也。吉隆の遺骸は東の方数丁を隔つる陣没の処に葬り、妙隆院日玉聖人の法号を授け給ふ。今の上人塚これ也。

これより後十有七年、吉隆の遺子刑部阿闍梨日隆上人は、大聖人の命を奉じて、弘安四年三月十五日、此地に一寺を建立し、殉教両聖人の法名に因みて妙隆山鏡忍寺と称す。春風秋雨茲に七百年、原頭の松は矢叫び関の声かと疑はれ、墳上の青苔は長へに身軽法重・死身弘法の亀鑑を示すこそ尊けれ。是に宗祖日蓮大聖人四大法難中随一の霊跡と称する所以なり。


○海岸

昼食場所を探すために海岸を調べた。砂浜以外にも、(左)汐入公園、(右)鴨川市民会館などの広場があるが、いずれも海水浴シーズには極めて混雑するものと思われる。また、日照を遮るものがほとんどないので、夏に海岸でお弁当を食べるのは難しい。

汐入公園  鴨川市民会館


2.安房天津


小松原から天津までは、ちょうど急を受けた工藤吉隆が駆けつけてきた距離に相当するが、直線で約5kmである。安房鴨川駅から安房天津駅の移動には、外房線と日東バスの二つの手段がある。後者の方が本数は多いが、途中で「鴨川シーワールド」の前を通るので、渋滞の発生を考慮すると電車の方が確実である。

外房線
勝浦・千葉方面
日東バス
天津・興津方面
105705 25 45
115305 25 45
125805 25 45
133905 25 45
144705 25 45
155605 25 45
165405 25 45
17(18:01)05 25 45

○日澄寺

工藤吉隆邸跡と伝えられる寺院であるが、日蓮正宗の信徒として見るべきものは何も無いと思われる(写真右)。安房天津駅から徒歩15分ぐらいであるが、歩道のない街道を一列になって歩いて行かなくてはならない(写真左)。ここは省略して時間を短縮するのがよい。安房天津駅付近も工藤吉隆の管轄する地域だったと考え、小松原からの距離を認識すればよい。

日澄寺まで  日澄寺までの謗法


日澄寺の縁起は、境内の看板によると以下の通りである。

明星山日澄寺縁起

日澄寺縁起

創建:弘安五年(一二八二)十月

開基:日蓮聖人 二祖日玉(天津領主工藤吉隆) 三祖日澄 四祖日隆(吉隆の嫡子)

由緒:当山は文永元年(一二六四)年十一月、日蓮聖人小松原法難の折りに殉教した天津領主工藤左近尉吉隆の居館でしたが、その嫡子日隆が父の菩提を弔うためにこれを寺とされました。吉隆は鎌倉幕府出仕中、四条金吾、池上宗仲等とともに日蓮聖人に深く帰依し、宗祖伊豆流罪中も遠く志しを馳せて聖人を外護し、宗祖も「四恩抄」をしたためて吉隆を教化されています。

文永元年秋、宗祖は母の病気見舞いに小湊へ帰られましたが、御逗留地西条花房の蓮華寺から天津の工藤吉隆の館を訪ねる道すがら、東条の松原で地頭東条景信の伏兵に襲撃されたのが世にいう宗祖小松原法難であり、この法難で宗祖は眉間に三寸余りの刃傷を受ける危難にあわれ、救援に駆けつけた工藤吉隆は討ち死にされました。

宗祖は吉隆の霊を弔うために出家の礼をとり、妙隆院日玉上人の法号を授与されました。吉隆の不惜身命の法勲を当山が今に伝えております。


○清澄寺

清澄寺は安房天津駅から約7kmの距離があり、しかも山道であるため、少なくとも往路(登り)に関しては徒歩は困難である。しかもバスの運行本数が少ないので、一日の全体的なスケジュールを左右することとなる。所要時間はバスで20分、タクシーで15分。また下山に関しては徒歩で65分であった。

往路
清澄線登山
復路
清澄線下山
104507
11 19
1225 
13 17
14  
1510 
16 22
1705(18:07)
備考清澄寺下車 

山門  本堂


日蓮大聖人が願を懸けたとされる虚空蔵菩薩像は、現在本尊とされている虚空蔵菩薩像の胎内にあると伝えられている。清澄寺の縁起は、境内の看板によると以下の通りである。

千光山清澄寺縁起

清澄寺縁起

創建:宝亀二年(七七一)十月

開基:不思議法師

由緒:当山は天台宗の寺として開創され、平安時代に至って、慈覚大師円仁が僧坊十二、祀堂二十五を建て、房総第一の大寺となりました。江戸時代の初期、仲恩房頼勢法師が家康公の帰依を得て再興し、これより真言宗の寺となり、格式十万石、朱印五百石を賜り、本山格の寺となりました。また、京都醍醐三宝院の別院となったため、菊花の御紋章を許されました。

本尊の虚空蔵菩薩は、智慧福徳の菩薩として名高く、その像は日本三大虚空蔵の一つです。

日蓮宗の開祖日蓮聖人は、天福元年(一二三三)五月十二日十二歳のとき、小湊からこの寺に入り、道善法師に師事し、出家得度されました。勉学修行に励んだ聖人は更に諸国に出て、各宗の奥義を学び、建長五年(一二五三)四月二十八日三十二歳のとき当山旭の森で立教開宗の第一声をあげました。

聖人ゆかりの当山は、昭和二十四年四月、日蓮宗に改宗しました。


千年杉  旭が森


境内には他に千年杉と呼ばれる大木や(左)、大聖人が3月28日の早暁に始めて御題目をを唱え出された場所(旭が森)とされる場所に立つ銅像(右)などがある。しかし、像は何故か山の方(北?)を向いて立っている。また宝物館があり、真筆とされる曼荼羅や伝大聖人所持の硯箱・筆などが展示されている(入館料・200円)。

仏舎利塔  展望台


お弁当を食べられそうな場所は二つあった。一つは仏舎利塔の周りが芝生になっており、犬を散歩させていた地元の人の話では、昼食場所にしても差し支えないとのことだった(左)。もう一つは、清澄寺バス停の側に「極真空手発祥の地」という表示があり、登っていったところ展望台になっていた(右)。後者の方が、謗法色がなく、手洗い所も近い。また、清澄寺内の「旭が森」からよりも、こちらの方が海が良く見える。どちらの場合も、雨天には対応できない。


東大  ようやく町が見えた


余談であるが、清澄寺の周りはかなり広い範囲が東大の演習林になっている。関連施設もあちこちにあり、こちらには「東京大学・農学生命科学研究科付属・科学の森教育研究センター・千葉演習林・清澄作業所」という長い名前の看板が出ていた。

13:17の後は16:22までバスがないので、歩いて下山することにした。40分ぐらい歩くと、ようやく町が見えてくる。途中に一ヶ所、公衆トイレがあった。安房天津駅までは65分かかった。男子部だけなら75分ぐらい、女子部と一緒の場合は90〜100分ぐらいみれば良さそう。自販機はないので、あらかじめ水分を用意しておくこと。下りとはいえ坂なので、普段から歩き慣れていないとキツイかも(女子部は確実に嫌がる)。もっとも、大聖人様は何度もこの道を登り降りされたのだが。


3.安房小湊


安房天津駅から安房小湊駅へは、JR外房線か日東バスで移動する。バスの場合は、「誕生寺入口」バス停までそのまま乗って行くことができる。

外房線
勝浦・千葉方面
日東バス
行川アイランド行き
興津駅行き
10(9:44)19
1103 5819
12 19
1303 4419
1453 
15 09
160209
170039


○誕生寺

誕生寺へは安房小湊駅から、海岸線に沿って湾の東北に徒歩20分である。大聖人生誕の地という感慨もあってか、鴨川や天津の海岸が込み入った感じを受けたのに対して、小湊は穏やかで落ち着いた印象である。山と海に挟まれた、この小さな漁村に凡身を謙下されたのである。港には多くの漁船がひしめき合っており、今でも漁港として栄えているようだ。

小湊の海岸  小湊の漁港


誕生寺の入口に当たる交差点は、その名も『日蓮交差点』(Nichiren Cross)だった。また、隣には『日蓮トンネル』があった。(笑)

交差点 交差点  交差点


誕生寺の境内には日蓮大聖人御幼像が立っており、何となくの雰囲気は味わえる。ただし、実際の日蓮大聖人の御生誕地の一帯は地震により陥没し、現在は清浄な海水に護られている。

誕生寺  御幼像


なお、誕生寺の縁起は、境内の看板によると以下の通りである。宝物館は工事の関係で、現在は公開されていない。

誕生寺縁起

誕生寺縁起

千葉県が生んだ世界の偉人日蓮聖人は、ここ小湊に生まれました(一二二二)。聖人は自らの出生を「安房国長狭郡東條郷片海海女が子なり」(本尊問答抄)といわれ、聖人没後五十年頃の聖人伝「本門宗要抄」には「出生の処は安房国長狭郡東條小湊の浦の釣人権頭の子也」とあります。

誕生寺は隣村上総興津の豪族佐久間兵庫助重吉の子竹寿麿(日家)、甥の長寿麿(日保)により建治二年(一二七六)開創され、日蓮聖人を開山とし、日家上人を二祖、日保上人を三祖とし、聖人誕生の地に建立されました。

しかし、明應七年八月(一四九八)大地震大津波があり堂宇坊舎ことごとく流出しましたので、祓崎の南端から現在の地に移りました。延宝八年(一六八〇)の記録「誕生寺寺法」によれば、境内地は南北三十二町(三、四五六米)東西二十町(二、一六〇米)とありますから関東屈指の大寺であったことがわかります。天正八年(一五八〇)里見安房守義頼が四十石の田畑及寺面海上十石を、更に慶長九年(一六〇四)市川の地二十石を、重臣正木太夫頼忠より寄進しております。そして慶安元年(一六四八)徳川三代将軍家光公が御朱印によりこれを認められました。現在の特別天然記念物「鯛の浦」はこの「寺面海上十石」の寺領内のものであります。この頃の小湊村は、七十石の御朱印、海上十石の運送業権を背景にして近海航路の港門前町として栄え、人口もこの地方では最も大きな港町であったといわれます。

しかるに元禄十六年十一月(一七〇三)房総沖を震源地とする大地震大津波により、支院十坊、門前の人家百余戸が流出し僧俗四百八名が溺死する大災害に見舞はれました。勿論当山の被害は甚大なものでありましたが、幸い水戸の徳川綱条公(粛公)がご先代黄門光圀公の追善のため七堂伽藍を一基建立され、忽ち旧に復することができましたが、それも束の間、宝暦八年(一七五八)大火により、三光殿(釈迦堂、祖師堂、本堂)悉くを焼失しました。現在の雨落十八間四面総欅造りの大祖師堂は天保十三年(一八四二)に、又総檜造りの貴賓殿は昭和六年に、夫々十万人講、五十万人講等の全国勧募により完成したものであります。又、明治に入り東宮殿下(大正天皇)ご悩平癒の御祈願所となり、同時に有栖川宮熾仁殿下により有栖川宮家御霊堂(竜王殿)が境内に建立(明治二十三年)されて、御皇室とのご縁も結ばれました。

そして今、長い間海辺特有の風雨に耐えて損傷甚だしい諸堂宇を、五十万人講の全国勧募により、逐次再建整備しつヽあるところであります。現に本師殿宝塔及宝蔵の新築祖師堂の大改修、新宝物館の建設等は終り、引続き新本堂の建立、庫裡の改修、廻廊門塀等の諸工事を進行中であります。



○鯛ノ浦

誕生寺のすぐ横から鯛ノ浦遊覧船に乗ることができる。所要時間は約25分で、運がいいと鯛が餌を啄みに群れ集まってくるという。夏場の営業時間は15:50までということで、今回は残念ながら終了後だった。ただし、待ち時間が読めないので海岸の散策に切り替えた方が良いかもしれない。夏場は余り鯛に出会えないという噂もある。海岸では幼少の頃、大聖人も水泳等の遊びに興じられた事だろう。海岸線を10分ほど歩いて行くと、大聖人誕生の際に青蓮華が咲いたと伝えられる蓮華ヶ淵に辿り着く。

遊覧船乗り場  鯛ノ浦


鯛ノ浦は看板によると以下の通りである。

鯛ノ浦縁起

鯛ノ浦縁起

●この付近内浦一帯は、国の天然記念物「鯛の浦のタイ生息地」の指定地域となっております。海面部分と八百島最西端から磯伝い祓防波堤までの部分全域です。

●特別天然記念物の鯛の浦のタイは、生息場所が限られており、指定地域内のタイ釣りは禁止されております。(違反者は、文化財保護法により罰せられます)

●コマセや釣り道具の根がかりで、海中内海底の環境が悪化しております。マナーを守りごみは持ち帰るよう勤めてください。

●七百年以上前から地元民により鯛の保護が続けられております。なにとぞ鯛の保護にご理解・ご協力をお願いいたします。


○両親閣

「日蓮交差点」の側に、大聖人の御両親の墓所とされる妙蓮寺がある。しかし、日蓮正宗の信徒として特に見るべきものはなかった。妙蓮寺の縁起は看板によると以下の通りである。

妙蓮寺縁起

妙蓮寺縁起

当山は日蓮聖人の両親のご廟所(墓所)です。聖人の父は貫名次郎重忠、母は梅菊といいます。建長五年(一二五三)立教開宗した聖人は、第一に父母を教化し、父に「妙日」、母に「妙蓮」という法名を与えました。

父「妙日」は、正嘉二年(一二五八)二月十四日、母「妙蓮」は文永四年(一二六七)八月十五日逝去し、この地に葬られました。以来、聖人の両親のご廟所とそれを護持するための堂宇が建立され、今日に至っています。堂宇は、父母の法名にちなんで、妙日山妙蓮寺と称しますが、特に両親のご廟所ということから「両親閣」として広く知られています。

また、聖人は母の病の報に接し、文永元年(一二六四)秋、この地に帰り、母の病気平癒を祈願したところ、不思議なことに、息絶えた母が蘇生し、更に四ヵ年の寿命を得ました。聖人が両親を慕い孝養を尽くした親孝行の霊地として日蓮宗宗門史跡に指定されています。

堂内には、蘇生延寿の祖師として、一木からなる親子三体像が安置されています。


以上、一日かけて下見を行ったが、特に清澄寺の登下山を考えると、日帰り研修であれば観光バスの利用が欠かせないと思われる。一応、普通電車と路線バスを利用したスケジュール案(鴨川・天津・小湊を全部廻る)を提示する。

時刻行動
08:13千葉駅よりJR外房線に乗車。
10:07外房線・安房小湊駅着。
10:15駅でトイレなどを済ませて、徒歩で誕生寺に向かう。
10:35誕生寺に到着。境内を見学し、研究発表を行う。
10:55徒歩で鯛ノ浦遊覧船発着場に向かう。(トイレは発着場で利用)
11:10遊覧船に乗船。
11:35遊覧船より降船。徒歩で安房小湊駅に向かう。
12:03外房線で安房天津駅に向かう。
12:07安房天津駅着。駅でトイレを利用。
12:25日東バス清澄線で清澄寺へ向かう。
12:51清澄寺着。展望台(極真空手発祥の地)で昼食。
13:35清澄寺を見学し、研究発表を行う。(オプション=宝物館の見学)
14:20徒歩で下山。途中にトイレ有り。
15:50安房天津駅に到着。(トイレを利用)
16:16外房線で安房鴨川駅に向かう。
16:21安房鴨川駅着。
16:25徒歩で鏡忍寺へ向かう。
16:50鏡忍寺着。境内を見学し、研究発表を行う。
17:15トイレを済ませて、安房鴨川駅に向かう。
17:40安房鴨川駅着。
18:01外房線で千葉駅に向かう。
19:51千葉駅着。解散。


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